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『場違いな脚 』
ラクス・コスミオン1963


 黄変した古い紙の匂いを嗅ぐと、やはり落ち着く。
 ラクス・コスミオンの心の拠り所、心の故郷、心の親だ。
 特に、店主すらハタキをかけるのを忘れていそうな、店の奥にある本などはたまらない。問題はこういった古き良き店が、昔からの営業時間を貫き続けているというところか。日が沈んだ途端に閉まる店まである始末だ。とても、ラクスが好む深夜帯まで開いている店はない。
 ここのところ、ラクスは泣く泣く、太陽神が見守ってくれる時間帯に古書店巡りをする毎日を送っていた。特に神保町などはお気に入りになっていた。あまり嬉しくない思いを抱いた男性(ラクスが最も苦手とする類である)もあまり歩いていないし、何より本だらけの町だった。問題はそれ、先ほども出た通り、営業時間くらいのものである。ラクスは界隈に足を踏み入れたが最後、まさに日が沈むまで帰ることが出来なくなっていた。世話をしてくれる人が作ってくれた特製ナップサックが一杯になり、魔術を使って世話になっている屋敷に転送するしかなくなるくらい、ラクスは本を買うはめになる。それでも、彼女自身がそれで幸せなのだから――いいのだろうが。


 そもそも彼女が古書店巡りに勤しむようになったのは、先日の収穫が切っ掛けであった。


 ラクスの姿は奇異なもので、とても人間には見えない。
 だが、彼女はその卓越した魔の力を用いて、自分を「当然の存在」にしてしまっている。人間たちにとって、彼女が23区を歩いたり飛行機に乗ったりクレープを食べたりするのは、当たり前のことなのだ。
 そしてどうやら、相当の美女に見えるらしい。
 紅い髪と神秘的な翠の目に、男は吸い寄せられるかのように集まってきた。言い寄られるたびにラクスは目に涙を浮かべて走り去り(脱兎の如く……いや、彼女はこれでも獅子なのだ、獅子も兎ほどに脚は速いはずだ)、気づけば道に迷っていることなど日常茶飯事になっていた。『本』を探そうと探索の『眼』を開こうとしても、男性の邪念と煩悩に干渉されて成功したためしがなかった。原因は男性ばかりではなく、怯えているラクスの精神状態もあるのだが。
 ――ああ、「習うより慣れろ」とは申しますけれど。
 ラクスは深く深く溜息をつき、見覚えのない道をとぼとぼと歩く。
 そうして、一件の風情ある古書店を見つけたのだった。

 古びて曇ってしまっているガラス戸を押すと、懐かしく愛しい匂いが彼女を包んだ。古いパピルスの匂いもいいが、この古い紙の匂いも捨て難い。いくつもの人の手と家を渡り、積み重ねられていった息吹と匂い。古書には人生にも似た歴史がある。そして、知識も。
 ラクスを出迎えた店主は、腰の曲がった老婆だった。店主は文庫本の棚にハタキをかけていた。ラクスをちらりと見ただけで、「いらっしゃい」の一言もなかったが、ただにこりと小さく微笑んだ。それだけで充分だということなのだろう。ラクスは不干渉のその精神に感謝し、奥へと進んだ。思わず知らず行使していた『眼』の術が、良い本を見つけ出していたのである。

「きゃ」
 手を――いや、脚をかけた途端に、本棚の本が崩れ落ちて、ラクスの頭をばさばさと直撃した。彼女の脚はものを取りやすい形ではない。何事かと覗きこんできた店主に、ラクスは引きつった笑みを浮かべてぺこぺこと頭を下げた。おじぎがこの国独特の文化だということは、すでに本で知っていたのだ。
「取ろうかね?」
「い、いえ、結構です、大丈夫です」
 手に取らない方がいい、とは言わなかった。
 百科事典とトルストイ全集の間に、暗黒の法書の日本語版を見つけてしまっていたのだ。牙を剥く獣にも喩えられるその本を、ラクスはそっと抱え上げた。
 彼女が探し出さねばならない禁忌の『本』ではない。つい先日取り戻した『1冊目』の本の力とは比べるべくもない。だが――ラクスはこの法書のラテン語版をすでに読破しており、しっかり内容を記憶してもいた。日本語訳はかなりずさんなものだった。誤訳や省略がひどい。これを手に入れた日本人が、この法書のやり方にのっとって術を使ったとしたら――。
 ラクスは肩をすくめると、それを脇にどけておいた。買って添削したい気持ちになっていたし、何より自分が買えば、気の毒な人間が出ずにすむ。
 別の本が、唸り声を上げた。
 蜘蛛の巣がかかった本棚の一番上、左の片隅、『帝國思想之探求』の隣。
「う、うぅ」
 手……いや、脚をいくら伸ばしても、今回は届かなかった。ぷるぷると震えるラクスの身体と脚は、店主の目には入っていない。何しろ、手入れを忘れるほどの奥なのだ。蜘蛛の巣がかかるのは必然。
「人間のお店はやはり不便ですわ……」
 なぜ、長老たちは自分をこんな都会によこしたのだろうか。ラクスは愚痴を疑問に変え、自分を慰めてみようとした。
 仕方なく、ラクスは『神の見えざる手』の術を頼った。砂色の星に包まれた邪悪な魔術書が1冊、本棚から抜き取られ、ラクスの手に収まった。
「大人しくして下さいね」
 手に咬みつこうとするほどの邪気を帯びた本にそっと囁くと、ラクスはそれを先ほどの法書の上に重ねた。
「……あら、『黄衣の王』がこんなところに。『黒い雌鶏』まで。はあ、何の変哲もないところに、何気なく紛れこんでいるものなのですね……」
 ラクスはぶつぶつと呟きながら、目につく古書を不器用に抜き取って、次々に重ねていった。目的の『本』がないことに対する落胆などは、ついぞ抱くのを忘れていた。
 山と積まれた古書、支払いは『金』で済ませたのだが、店主は少し嫌なような困ったような、珍しいものを見て嬉しいような、そんな複雑な表情をしてみせた。この店主は、ラクスが渡した金が自然界のものではないことを知らないだろう。成功する錬金術があったということも知らない。知らないほうが、いいのだろうか。

 その日、ラクスが帰ったのは深夜だった。道に迷った上に、大量の本を抱えて歩くのに苦心したからだ。それでも彼女の顔はひどく晴れやかだった。


 それからラクス・コスミオンは、泣く泣く、太陽神が見守ってくれる時間帯に古書店巡りをする毎日を送っているのだ。
「う、ぅぅ……」
 今日も伸ばした脚をぷるぷると震わせて、本棚の片隅に眠る古書を求めている。
 好きでやっているのだ。
 彼女は探索を知らず楽しむようになっていた。


<了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年09月26日

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