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『東京骨董日和 』
柚品・弧月1582)&香坂・蓮(1532)

 校舎を出た柚品・弧月(ゆしな・こげつ)は大学敷地内のテラスに見覚えのある青年を認め、立ち止まって声を掛けた。
「……香坂さん?」
 振り返り、軽く片手を上げて応えた彼の右の横髪の一部、そこだけが透けるような金髪に脱色した一筋が陽光を反射して煌、と輝いた。香坂・蓮(こうさか・れん)、本業はヴァイオリニストであるが、生活の為と、グァルネリ・デル・ジェス、伝説のオールドヴァイオリンを手に入れる為に便利屋稼業を兼ねている青年だ。
 今日もまた、右の肩には黒いヴァイオリンケースのストラップを掛けている。──それはいいのだが、その蓮の反対側の手、左手には甚だ場違いと云うか、深い青色の瞳を持ち、ヴァイオリニストである事も手伝ってかどこか西洋的な雰囲気の彼には不似合いな物が在った。
「どうしたんです、わざわざ大学まで」
 その存在を気にもしつつ、弧月は蓮に歩み寄った。
「ああ、……ちょっと聞きたい事があったもんでな。近くを通ったし。……昼食ついでに」
 ……そういう事か。学食は安い。
「聞きたい事って、……それですか?」
 弧月は蓮の左手を指し、訊ねる。 
 そんな弧月の疑問を既に予測していたらしい蓮は片方の眉を皮肉っぽく持ち上げつつも苦笑し、それを広げて見せた。──西洋的な雰囲気のヴァイオリニストに甚だ不似合いな物。幽かに古めかしい香の残り香さえ感じられる縮緬の風呂敷包みの中身は古びた桐箱で、更にその中身は一本の掛け軸だった。
「こういうの、得意だろう、お前」

 ──そもそも、何故蓮がこんな物を持っているかだ。
 便利屋としての蓮は、実に様々な種類の仕事を請け負う。それこそ、犬の散歩から法に触れそうな事まで、報酬に応じて毎日暇なく働いている。それもこれも、結局はヴァイオリンの為だ。
 今朝は、日用品と食料の買い出し、手入れの大変な日本家屋の掃除等を手伝っている一人暮らしの富裕な老婦人の許へ行っていた。そんな事はヘルパーに頼めば良かろうとも思うのだが、暇と金を持て余している彼女は少々割増料金を払ってでもお気に入りの青年を呼び付け、時にはヴァイオリンの演奏まで楽しまれる、という訳だ。
 さて本日は買い物から戻った後、一仕事になりそうな物置きの掃除を頼まれ、埃やがらくたと格闘している内に蓮は物置きにあるにはやや相応しくない、何やら勿体ぶった風呂敷包みを見つけた。そこで掃除が終わると彼女にこんな物が見つかった、と渡したのだが、──彼女は中を確かめて、「ああ、この掛け軸ね」などと呟いた後、……本当に何気なく蓮に「あげるわ」と押し付けたのである。
 蓮にしてみれば、ちゃんと規定の報酬さえ支払って貰えれば、こんな訳の分からない物を押し付けられるより余程良い。笑顔を作って穏便に辞退したのだが、「いいのよ、いつもお世話になってる御礼」と莞爾とした彼女には「そんな物は要らん」という本心は伝わらなかったようだ。──まあ、ここで押し問答して時間を無駄にしても何だし、本日分の報酬は別に貰ったし、で慎んで拝受したものの──、どうしろと云うのだ、という話だ。
 だが倖い哉、蓮には考古学者の卵にしてサイコメトラーの親友が居た。しかも彼は日本茶と酒をこよなく愛して居り、その方面から茶器等の収集に凝っている。掛け軸も茶道具の一つだ。知識はあるだろう。──奴に見せれば、何なりとしてくれるだろう。

 そして、蓮はこうしてその考古学者の卵にしてサイコメトラーの親友、柚品弧月を大学まで訪ねたのだ。
「得意、と云っても」
 どうしろと云うのだろう。弧月は弱った視線を蓮に向けたが、弱っているのは蓮も同じなのだ。
 ──取り敢えず。
「まあ、見てみるとしますか」
 
 日光を考慮して大学図書館の奥まった席に陣取り、弧月は掛け軸を取り出して広げた。
「……ああ、」
 その内容は、割と新しいものかまだ鮮やかな色彩を残した、一対の間鴨を描いた半切物だった。
「……微妙、ですね」
 微妙、と云われても蓮には何がどう微妙なのか分からない。蓮が分かる善し悪しと云えば弦鳴楽器程度だ。
「何が、どう」
「はっきり云って、無名ですね。おそらくは無名の日本画家の作品を掛け軸に直したものですよ。ただ、絵もそれほど不味くないし、何より表装自体は腕の立つ表具師に拠るものです。素材も良い物を使ってるし」
「で、あの婆さん、何でそんなものを勿体ぶって俺に押し付けたんだ」
「……、」
 弧月は軸に手を掛けたまま軽く目を閉じた。サイコメトリー中。
「……間鴨でしょう、……その、老婦人が結婚した時の祝いの品らしいです」
「莫迦々々しい。……要らないか? 柚品」
「いや……とは云っても季節ものでもないですし、掛け軸まで手は回してないですから……」
「……全く、あの道楽老人」
「まあまあ、……それにしても、物自体は良いですよ。上手く売れば6、7万にはなります」
 そこで、二人は手っ取り早く骨董屋へ赴く事にした。

 弧月は大学の駐輪場に停めてある愛車、スティード400VCLを出すと云ったのだが蓮は同乗をあっさりと断った。
「ヴァイオリンを持ってるんだぞ、何時ガードレールやら他の車に当たるとも知れない危険な真似が出来るか?」
 だが骨董屋を知っているのは弧月の方なので一足先に行く訳にも行かない。自然、徒歩の蓮に付き合ってスティードを押して歩く羽目になった。
 然しそこは弧月も、興味のない人間にしてみれば何をそこまで気を遣う必要があるのか分からない古道具を扱う人間なので蓮の気持は充分理解出来る。ただ風呂敷包みだけをぽつねんとスティードのシートに乗せて、二人共元々口数が多くはないので言葉少なながらに会話を交わしながら歩いていた。
 そして大学を出て間も無い頃だ。二人の視界の先に、道端に停めた手押し車に凭れて腰をさすっている老婆の姿が映ったのは。
 明らかにその表情は困憊していた。蓮は放っておけ、とでも云いた気な目をしたが、そういう訳にも行くまいと弧月はスティードのスタンドを立てて彼女に歩み寄り、声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
 憮然と腕を組んでスティードの横からそんな弧月を眺めていた蓮に、戻って来た彼はシートの風呂敷包みを取り上げて蓮に手渡しつつ切り出した。
 何でも、慣れない暑さの下で買い物に出た所気分が優れない上腰まで傷めてしまったらしい。病院に行く程ではなく、自宅もすぐ近くと云うからバイクで送って行ってやる、と云う。
「この通りを真直ぐ行って突き当たった所らしいですから、後からゆっくり歩いて来て下さい。悪いですけどあの手押し車を押して来てあげて」
「御節介な。全く人の好い」
 そうは云いつつも見殺しにしろと云うほど蓮も冷酷ではないので、老婆をスティードの後ろに乗せて走り去った弧月の後ろから、「全く、何故俺がこんな野暮ったい物を押してやらなければならないんだ」と内心毒吐いて歩き出した。 

「どうも、本当にすいませんねえ、まあまあ、ありがとうございます」
 こぢんまりとした老婆の家は本当に近くにあり、さっさとこんな面倒から解放されたいという気持の勝る蓮はすぐに追い付いた。
 掛け軸の風呂敷包みを手押し車の上に乗せたままなんとか送り届けた蓮は、飄々とした涼しい顔で老婆に会釈してスティードを回している弧月を軽く小突いた。
「じゃあ、これからは無理をしちゃいけませんよ」
「ええどうも、ありがとうございました、──あら」
 そそくさと踵を返しかけた蓮を老婆が呼び止める。
「お兄さん、これ、お忘れ物ですよ」
「……、ああ」
 手押し車の上の掛け軸の事だ。すっかり忘れていた。
「……若い人には珍しいわねえ、何が入ってるの?」

 ──。
「……限界だ。俺はもう押さないぞ。大体、俺の手はあんな重労働をする為に在る訳じゃないんだ」
 目を閉じ、額に手を当てた蓮はアイスコーヒーを一口飲んで喉を潤すと同時に淀みなく悪態を吐いた。
「じゃあ、香坂さんが『これ』を持ちますか?」
「……、」
 それも御免だ、と蓮は薄く開けた目を恨めしそうに弧月へ向けた。
 「これ」とは何ぞや。
 壷である。──それは今、一つのテーブルで向き合った二人の間に置いてある。子供の腕で一抱えほどもある焼き物は非常に重い。蓮は当然の如く腕を傷めたら演奏が出来ない、というのを口実にそれを弧月に押し付けたが、然しそうなるとスティードを押す人間が居ない。10キロ程もある壷を抱きかかえるよりは、中型とは云え車輪の付いたバイクを押す方が楽だし腕に負担も架からないのだが、──残暑厳しい中、それぞれ腕力相応の負荷を追った二人は早々にダウンした。折よく、弧月の行き着けの喫茶店を通り掛かり、この際質素倹約だの何だのとは云っていられないので暗黙の了解の内に二人は店内へ入った。
 日本茶と古道具を好む弧月の行き着けだけあり、和稽古に精通した有閑マダムが経営しているその喫茶店は実益よりも趣味の色が強く、日本家屋を改装したレトロモダンな店内にセンスよく骨董の和道具が溶け込んでいた。
 今、二人の間にはその壷が有るのみで、例の掛け軸の風呂敷包みは無い。
 何故か。物々交換したからだ。つまり、その掛け軸と、壷を、あの老婆と。

 何が入っているのかと訊ねられて掛け軸だと答えると、ただの興味だったのだろうが老婆は見ても良いかと訊いて来た。別に異存は無く承諾してみると、その間鴨の掛け軸を広げた老婆の目が大きく見開かれた。
 ──何でも、この絵を昔展覧会で見たことがあると云うのだ。特に気に入っていたから覚えていると。この際真偽はどうでもいい、非常に懐かしいから譲って呉れと云い出したのだ。全く老人の気は知れない。
 弧月が当初6、7万と値踏みしていたので、それ位であれば譲っても良いと云ったのだが、──老婆云わく今、自分は年金暮らしでそれだけの金を道楽には使えない、然し、自分は見る目が無いものの生前夫が収集していた骨董品が幾らか残っているので、もしその中で同価値の物があればそれと交換して貰えないだろうか、と云う訳である。
 そこで老婆宅に上がり、故人の部屋へ乗り込んだ二人だったが鑑定は専ら弧月の仕事である。蓮はこんな物を集めて喜ぶ奴の気が知れない、とばかり冷めた目で室内を見回して居たのみだが、それも無理はない、弧月から見てもそうだったのだ。つまり、大して値打のあるものは無かった。
 だが、ふと見遣った部屋の隅にあったそれは少々弧月の興味を引いた。
 堂々たる大きさの割りには繊細な轆轤目が非常に美しく、釉の落ち着いた艶が何とも云えない深みを持っている。保存状態も良い。──十万は下るまい。

「弧月君、どうしたの、珍しくしんどそうじゃないの」
 骨董仲間らしい気安さで、その有閑マダムが二人のテーブルへやって来た。
「ええ、何せこんな物を担いで炎天下を歩けば参りもしますよ」
「……成る程ねえ。……あら、でもいい品物じゃないの、どこで見つけて来たの? ……それにしても、弧月君が壷にまで手を出してるとは知らなかったわ」
「いや、これには事情が」
 そうこうしている内にも目敏く壷を鑑定していた彼女は、次第に所有欲が湧いて来たらしい。
「──ねえ、どう、これ、何かと交換しない? 丁度こういう大物が欲しかったのよ。店のアクセントになるし、これだけの品物だったら上品だし」
 否も応もない。若し同価値より多少下がったとしても、軽量になりさえすれば。
 そしてその壷は大分古びた、然しどこか上品な色合いのベネツィアグラスと交換された。

「──このベネツィアグラス、少なくとも三世紀は前の物ですよ、凄い、初めて見た。当時のグラスは鉛で色を出してたんですよ、それらしい色を再現したレプリカならいくらでも見たけど、本物は、初めてです」

「──ルネ・ラリックは最高の芸術家だわ。私が始めてラリックのガラス作品を見たのは、そう、あれは美大生だった時……それはもう電撃のような衝撃で──中略──このレリーフだけはどこのオークションでも見つからなかったの、これと交換だったら何を差し上げてもいいわ」

「──あの、失礼ですけど……非常に良いペルシャ絨毯をお持ちですよね。あ、私この近くで画廊を経営している者ですが、丁度そんな色合いのいいアンティークが無いかと探していた所で……」

「──僕、先日個展を見て以来彼のファンなんですよ。このリトグラフは特に気に入ったものだったんですが、会場での販売分は既に売約済みで……」

 再びスティードを押した弧月と並んで歩く蓮の手には今現在、嘗てはメディチ家の財産だったと云うアンティークのランプが収まっていた。 
 元々アルバイト料のおまけだった数万円と思しい掛け軸は、数回の物々交換を経て何倍、否既に十倍以上の価値に代わっていた。何故か、弧月の確りした鑑定眼を以て見ても明らかに高価と思われるものと、次々に交換されて行くのだ。
 何とか云う昔話があったが、ここまで来れば面白いとしか云い様が無い。
「日頃の行いが良いからな、こんな奇遇も当然と云えば当然だろう」
 そう嘯く蓮の表情にも既に当初の不機嫌さは見られない。
「どういう行いですか」
「世間の莫迦共が遊びに浮かれて居る陰で音楽に人生を捧げ、真面目に労働に励み、あまつさえ東京下の怪奇現象を解決してやってる人生だ。怪奇がこうした形で恩返しをして来ても不思議じゃない」
「……、」
 弧月は黙って微笑んだ。弧月は音楽に人生を捧げてこそいないが、その代わりに物の記憶を読み考古学に貢献している、という一文を付加すれば彼の人生も大概そんなものである。彼の場合、次々と交換されて行く「物」から読み取った過去の記憶、基悲喜交々のエピソードを大学ノートにメモして行くのも楽しい。これは何れ彼の研究に大いに役立つだろう。こんなことは、そこいらの考古学生には真似出来まい。
 さてこの分では、骨董屋に辿り付いた頃にはどんな事になっているだろう。

「──ねえ、お兄ちゃん達」
 大分気分が鷹揚になっていた所為か、今回声を掛けられた相手が未だ小さな少女であっても二人は訝りはしなかった。
 ──空は好く晴れている。なのに、少女のひっそりと佇んでいるその場所だけが日陰にでも入ったように冷やりとした湿度を持っていた。
 黒いゴシック系の、それこそアンティークのようなドレスを着た人形のような少女だった。歳の頃は12、3。その腕には大事そうに、どこか彼女そのままの雰囲気を持ったビスクドールを抱いていた。
「……そのランプ、凄くきれいね」
「気に入ったか?」
 少女の微笑がやや無気味とも取れる影を含んでいても、今の二人に気付け、警戒しろと云う方が無理である。
 珍しく子供に対してまともに受け答えしている蓮に続いて弧月も視線を少女に合わせて屈み、少女の腕のビスクドールを検分する。──これもまた、随分な品物だ。ドレスから装飾品に至るまでが人形用の域を出た細工の物で、何よりも白い陶製の顔は如何に造り物とは云えこの世の物とは思えない程美しい。ガラスの静謐な瞳からは妖気さえ感じられる。
「その人形とだったら交換してもいいよ」
「……本当?」
 弧月はその少女の返事に、狙い澄ましたようなニュアンスが含まれている事に不覚にも気付かなかった。
「……嬉しい。……大事にしてね」
 ランプを受け取った少女は、そう云い含めて蓮にビスクドールを差し出し、くるりと背を向けると数歩歩いた後影に紛れるように見えなくなった。

 その後もまた物々交換に出くわさないかと期待していた弧月と蓮だが、結局はビスクドールを抱いて骨董屋に辿り着いてしまった。
 ──今迄の骨董の類ならともかく、スティードが非常に似合う長身の黒髪を束ねた考古学生と、ヴァイオリンケースを肩に掛けた西洋的な雰囲気の青年がやけに違和感なくアンティークのビスクドールを抱いている様が、ある意味引かれたのかもしれない。──声を掛け難いことこの上無いには違いない。
 辿り着いた上はいよいよ交渉に入る事になる。二人は意気揚々とその古めかしく、そこだけ時間の止まったような骨董屋の扉を押し開けた。

「──こりゃあまた随分な値打物を──、」
 薄暗い店内の奥でビスクドールを検分しようとした骨董屋の主人。
 ──が、首から鎖で下げた眼鏡を掛け直し、まじまじとそのガラスの瞳を覗き込んだ彼の眼が、直ぐにこれ以上はない程見開かれた。
 そんなに凄い物だったのか、と期待を寄せる二人を余所に、主人はがた、と椅子を立ち上がると今にも放り出さんばかりの勢いでビスクドールから離れた。
「壊れたらどうする、丁寧に──、」
 文句を付けかけて、二人も流石に様子がおかしいことに気付いた。主人は、壁際に寄って表情を引き攣らせながら、震えた指先をビスクドールに突き付けた。
「こんな、……こんな、」
「こんな、何なんだ?」
 主人は声が声になっていない。何度か歯の根をかち合わせた後、一度喉をごくりと鳴らしてようやく言葉を絞り出した。
「こんな大変な物を持ち込むんじゃない、莫迦者──!」
「な……、」
 それと同時だった。ビスクドールの、静謐なガラスの筈の瞳がきらりと輝き、薔薇色の陶製の口唇がぱっくりと開いてけたたましい笑い声を上げたのは。
「何!?」
「曰く付きか!」
 しまった、この人形に関しては残留思念を読み忘れたな、と身構えた弧月に主人の決定打が降った。
「曰くも何もあるか、思いっきり最後の持ち主の呪いが宿っとる!」
「……あの少女、」
 今冷静に思い返せば(この際、心霊現象を前にすれば骨董屋の老主人よりも弧月や蓮の方が落ち着きを保って居られると云うか、一言で云うと慣れているのだ)、あの少女、妙に念が強かったように思う。それも何か思惑有り気な。
 ポルターガイスト宜しく店内を飛び跳ねてはあちこちでがしゃん、ぱりん、という音を立てて笑い続けるビスクドールを追って、弧月が狭く、物で溢れ返った中を奔走する。主人は腰を抜かしている。蓮は、妙に落ち着いていた。
『うふふふふ、お兄さん遅い遅い、ちょっと背が伸び過ぎたんじゃないの?』
 如何にも楽しそうな声は、もちろん陶器の口唇から発せられているものである。
「お前の小回りが利き過ぎてるんだ!」
「……どっちもどっちだ。両成敗」
 傍観者の判定は妙に公平だった。
「うるさい、大人を揶揄かうな、」 
 黒檀製の立派なテーブルを踏み台に飛び乗り、弧月は照明にぶら下がっていたビスクドールをしっかりと掴まえた。何だか興奮した猫でも取り押さえているようで難儀だが、きゃあきゃあ喚きながらもビスクドールは楽しそうだ。
「こら、暴れるな!」
 必死でそれを腕に押さえ込みつつ、弧月は指先に意識を集中させる。
 ──そして、腕を組んで冷めた視線を人形と格闘する大学生、つまりは自分に向けている蓮に向けて叫ぶ。
「香坂さん!」
「人形遊びは俺の趣味じゃない。お前に任せる」
「そうじゃなくて、ヴァイオリンを!」
「は?」
 何故か、弧月が慌てれば慌てるほど蓮の心理状態は冷静に冷静に落ち着いて行った。弧月は必死でビスクドールから読み取った情報を伝えようとしていると云うのに。
「多分、さっきの女の子です、彼女、幼くして病気で亡くなったんだ、遊びたい、元気一杯走り回りたいと願いながら亡くなった、彼女、遊びたいだけなんですよ、それだけが心残りでこうして人形に乗り移ったまま成仏できないんです、」
「──つまりは浄化しろと?」
「早く! ──痛てっ、」
 弧月は再び腕を飛び出しかけたビスクドールの頭を抑え込む。蓮はやれやれ、とばかりに台の上にケースを置き、奮闘している弧月に「ヴァイオリンに当たらないようしっかり押さえていろよ」と都合の良い注文を付けつつ楽器を準備し出した。
「浄化ならレクイエムだな。何がいい、モーツァルトかフォーレかデュリュフレか、或いはマーラー、サンサーンス、ドヴォルザーク、ヴェルディでも良いし、少しマイナー所でベルリオーズの『死者の為の大ミサ曲』なんかも該当するが……」
 のんびりとボウに松脂を塗りながらどちらにともなく訊ねる蓮に弧月が返した返答は「何でもいいから早く!」という物だった。続けて「じゃあ一番短い奴で!」という追加注文も飛ぶ。
 ヴァイオリニストとして、如何に急かされようと調弦はきっちりと行いながら蓮はどれが一番短かっただろう……と思案した。……あれか、多分。それに、幼くして亡くなった子供にはうってつけだろう。
 
──……。
 
 蓮が弾き始めた旋律は、マーラーの「亡き我が子を偲ぶ」だ。……未だ弧月の腕の中で暴れながら笑い転げていたビスクドールは、次第に大人しくなってヴァイオリンに聴き入り、……やがて、穏やかな気配になった。

──ぱん!
 弧月の心配を余所に、数分に満たない第一曲が終わった時点で魂が抜け切ったビスクドールが弧月の腕の中で弾けた。
「……消えた、……成仏したな」
「……、」
 蓮は肩からヴァイオリンを降ろしつつ、粉々に砕けたと思ったらきらきらと輝きながら「消えて」しまったビスクドールの名残りに目を向ける。
「……何はともあれ、……良かった」
 ふ、と溜息を吐きながら額に滲んだ汗を拭った弧月は、ふと背中に再び不穏な視線を感じて、──すぐには振り向けずに、……ゆっくり、……非常にゆっくり……、首を回した。
「香坂さん、……ヴァイオリンを仕舞って」
「……ああ……?」
「……、」
「この莫迦者が──、良かったも何もあるか、店を、道具を滅茶苦茶にしおって! どう責任を取る──」
 さっき迄は腰を抜かしていた、老主人の怒号が飛んだ。蓮が取急ぎともかくケースの蓋を閉めてストラップを肩に掛けると、弧月はその腕を掴んで「それじゃ、お邪魔しました!」と刹那的な暇乞いをして骨董屋を飛び出し、表のスティードに駆け寄った。
 キーを突っ込んでエンジンを掛ける。
「ちょっと待て、俺は楽器を──、」
「そんな事云ってる場合じゃないです!」
 弧月が半ば無理矢理、という感じで蓮を後ろに乗せると、ノーヘルメットの二人を乗せたスティード400VCLはフルスロットルで走り出した。

 別名、逃走とも云う。器物破損の責任を押し付けられたら、ゼロどころか6桁単位のマイナスに成るのだ。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
x_chrysalis クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年09月16日

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