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『遠く在れ、その追憶よ 』
海原・みたま1685

―1―

 良く日が出ているとは言え朝は肌寒く、冷たく眩しい朝日に色の濃いサングラスを付けて市場に出た。
 石畳の上を往く人達の、堅く鈍い靴音と喧騒。
 喧しい売り屋の口上に時折その視線を道の端に遣りながら、彼女は目的の屋台に向かって歩を進めていった。年配の紳士と肩がぶつかって大きくよろけたが、彼が何も言わずに去って行くので彼女も何も言わない。振り返る事もしない、それがこの国の国民性である事を彼女は知っている。
「トエルフィスクが安い、そら、これだけ付けるよ」
 彼女が異国の人間だと気付いた売り屋は、人懐っこくもどこか訝しむ様な笑顔でトエルフィスク――干し鱈が入った器を叩き、不器用な英語で語りかけてくる。口端を笑みの形に引き上げては手をひらりと振って、彼女は尚もその足を進めていった。
 海原みたま。
 戦場の雌獅子――そんな異名を持つ女、である。

 大通りと十字にぶつかっている細い通り、目当てであるその一角でみたまは足を止めた。
 雨風の強い日には売り出しも休んでしまうのだろうか、屋台を構えていない売り屋の前で小さな人集りができている。それらに混ざる様子も見せずにみたまは両腕を胸の前で組んで、じっとその露店を見守っていた。
 入れ違う人と人の隙間から、小さな売り屋の姿が見えた。
 女である事はその肩の細さから見て取れる。
 代金と釣りの遣り取りをする時、言葉を発する事無くただ客に愛想良く優しげに笑みかけていた。言葉に不慣れたせいだ。
 女は、首の後から背中をすっぽりと隠す様に大きな厚手のストールを纏っており、見覚えのある柔らかそうな栗色の髪がその上で物憂げに揺れていた――やはり、間違いない。
 たっぷり、二十分程。
 客の波が引いて、彼女がみたまの姿にふと気がつく迄、待っていた。
「――あ、」
 彼女は目を丸くし、みたまを見上げる。信じられない様なもの――かつて自分を救った、それは神にすら見えたのかもしれない――を見る様に、小さく形の良い口唇がぽかんと開けられている。
 その反応をいたく気に入ったみたまは、初めて出会ったあの日に様に――指先をひらりん、肩の横で振りながら、満面の笑みを彼女――亡国の王女に向けた。
「ズドラスツヴイーチェ♪ 元気そうね、旦那様とは仕合わせにやってる?」

―2―

「あなたが来て下さるとは思いませんでした、みたまさん。もう二度とお会いできないのかと――」
 二人で暮らす部屋だと言ってみたまが通されたのは、壁の薄い地味なアパートメントの一室だった。キッチンから熱いコーヒーのカップを二つ持って戻ってきた王女は、みたまに一つを手渡し、もう一つを瑣末なテーブルの上に置いた。そのまま、漸く暖まり始めたストーブの前で桜色に染まった指先を翳す。
「私も、J国の大臣だったなんて人から連絡を貰った時はびっくりしたわ――どうして一国の大臣ともあろう人がホテルのマスターなんてやってたのかしら」
「彼のお父様がやってらしたホテルだと思います。そこにみたまさんが泊まってらしたなんて――神の思し召しとしか思えませんわ」
 ストーブに翳した掌を返しながら、感慨深げに王女が言うので、肩を竦めたみたまは熱いコーヒーを一口、嚥下した。

 王女の父親は、Jと言う国の君主であった。
 心無い陰謀に巻込まれ獄死した彼の志を嗣いで、J国の大臣であったと言う男がリーダーとなって国の復興を働き掛けているらしい。
 そこで、J国の元騎士団の若者と駆け落ちした王女の存在が再び求められたと言う訳だ。
「何を隠そう、駆け落ちをそそのかしたのはこの私、だからねぇ…‥・まずは二人の意志を確かめて…と言う事だったし、何より私があなた達に会いたかったから? 引き受けて、のこのここんな所まで出てきちゃった、って訳」
「みたまさんからすれば、『気乗りのした仕事』、でしたか?」
「そうね、もうノリノリ! って訳じゃないけど、でもたまには良いかな…なんてね」
 コーヒーカップを両手に抱え、くすくすと笑う王女の細くしなやかな指先を見遣る。
 あの日、そびえ立つ様に高い牢獄の様な塔の最上階で見た時よりもかさつき、薄い爪の先は所々が欠けていた。慣れない炊事や洗濯、そして市場で捌く為の編み物をする女の指先。
 心なしか、顔色も悪い様に思えた。
「だから、気になるなら一度様子を見に帰ったらどうかしら。大臣の話を聞いて、厭なら戻ってくれば良いんだし。気が弱そうな人だから、あなたに無理強いはしないでしょう?」
 湯気の立つカップをことんとテーブルの上に置き、みたまは王女の肩にそっと掌を置く。
 口許に淡い笑みを浮かべるも、僅かに俯いてカップの中を見詰める王女の横顔を、みたまはじっと鋭い眼差しで観察していた。
「――でも、…彼が…」
 王女が重い口を開き、その心の内をみたまに打ち明けようとした時――
「戻りました、姫――今日はスペケマートを少し余分に、…‥・」
 男の声と、窓の外の話し声はほぼ同時だった。
 勢い良く開けられた扉の向こうで、みたまを凝視した青年が――僅かな沈黙の後、浅い息を吐く。
 右手で大切そうに抱えた小さな紙袋からは、瑣末に簡易包装された干し肉の切れ端が覗いていた。
「おかえりなさい」
 王女が小さな声で、青年――亡国の騎士に言葉を返す。キッチンへ向かう彼女に紙袋を手渡してから、騎士は再びみたまへ向き帰り、
「――お久しぶりです」
 静かに、その頭を垂れた。
「待ち草臥れたわ、生憎、気は短い方なのよ」
 軽口を叩きながら、首を傾ぎ――みたまは窓の外の気配を探っていた。

―3―

 それぞれが市場から戻って来て、漸く朝食の準備が行われる。
 その日の食事はその日に手に入れる――金銭的に余裕が無い事の現れなのだろうか。
「ベジタリアンなの。肉も魚もいらないわ」
 持て成しの為に差し出された干し肉の皿を、みたまはやんわりと掌で制する。この国の人々と同じ、朝はしっかりと食事を取るタイプの彼女ではあったが、騎士が仕入れてきた僅かな食料を大切そうに取り分ける王女の姿に些かの遠慮心が芽生えたのだ。
 代わり、ライ麦でできた堅いパン――フラットブレッドを3枚、受け取った。
 手渡される時、みたまは再び王女の白い指先を見詰める。
 小指の付け根に、赤く痛々しい擦り跡があった。
「――編み物は、そんなに得意では無い?」
 ぱり、と乾いた音を立ててフラットブレッドを千切りながらみまたは問う。
「ああ、こっちに来て、初めて覚えたんです。彼にばかり仕事を押し付けてもいられないから、少しでも何か家計の足しに…と思って」
 困った様にはにかんだ笑みを浮かべながら、その痛々しい手指で彼女は耳の後に髪を掻き上げた。その傍らで、ただ黙々と騎士はニシンの塩漬けを千切っては口に運んでいる。
 ――ふ、ん。
 王女の言葉に数度の頷きを返しながら、みたまはコーヒーカップに指を絡めた。

 ささやかながらもしっかりとした朝食の後で、本題だとばかりにみたまがその口を開く。
 窓枠に背中を預ける様に凭れ、ちらりとカーテンの隙間からアパートメントの階下を見下ろしながら、
「ぶっちゃけ、・‥…どう思ってるの?」
 言い逃れる事を許さない強さだった。
 騎士――かつての騎士は、その精悍さをさらに増しただろうか。平日の昼は近くの牧場で飼い葉係として働きに出ているらしい。触れれば切れてしまいそうな鋭利な精悍さに、武骨な逞しさを纏った様でもあった。
「――私、は…‥・」
 椅子に腰を掛けたまま、膝の上に両ひじを置いて彼は俯く。戸惑いの理由は明らかであるのだろう――最愛の妻を、彼が何不自由なく養っている訳では無いと言う事は、状況を見れば明らかである。
 そんな夫の横顔を、王女は困惑の面持ちで見詰めていた。そしてから、みたまを見上げ、にっこりと…笑った。
「――みたまさん、私は、」
「いや、・‥…姫」
 気丈に振舞う彼女の声を、咽喉の奥から搾り出す様な騎士の声が打ち消す。その表情は、前髪に隠されてみたまからは見えない。
 換気の為に細く開けていた窓の隙間から、冷たい風が吹き込んだ。
 その時、ふわりと揺れたカーテンの端。
「・‥…―――」
 みたまは、階下の茂みから茂みへ移動する男の背中をその目に捉えていた。
 男から、この部屋の様子は目視できないのだろう。茂みから顔を出し、この窓の様子を観察する様に訝しげな眼差しを細めている。
 随分と手が早いじゃないの。
 みたまは心の中で毒突き、次ぐ筈の騎士の言葉を待つ。
 王女は騎士の言葉に目を丸くし、その後で――哀しげに眉を寄せた。
「・‥…やはり、私はあなたに…見合う妻にはなれないのでしょうか…?」
「ッ、そんな…事では無く…!」
 窓の外、茂みに身を隠した男が小さな硬質を鳴らした。
 携帯電話のフリップを開けた音――次の刹那、
「悪いわね、でもこれってアンタの所為よ…私の所為じゃない」
 言いながら、みたまがその懐へ掌を忍ばせる。
 取りだしたのは年季の入ったモーゼルM712で、サイレンサーを取り付けたその尖端を窓の隙間から差し出し――即座に発砲する。
「――っぅ…!」
 空気の漏れる様な掠れた発砲音の後で、茂みの影から男の低いうめき声が聞こえた。
 携帯電話と共に、男の指先迄をも吹き飛ばしたのかもしれない。
「天下の騎士団長様も、ちょっと勘が鈍りすぎたんじゃないの?」
 呆然とみたまを見上げていた騎士が、幾許かの沈黙の後…ぎり、と歯を噛みしめる。
「やっぱり、気の所為では無かったのか…!」
 モーゼルを再び懐にしまい込み、茂みで呻く男に一瞥を投げてからみたまは言葉を継ぐ。
 猶予は残されていないだろう、まずはこの部屋を出る事が先決だった。
 行きましょう。
 短く言い放ち、みたまは二人に目配せをする。
「やはり、私はあなたに――」
「アーアーアー、聞こえないッ。それ聞いたら、私はその通りにしなくちゃ行けないのよ、判る?」
 尚も言葉を投げようとする騎士の口を掌で押し遣りながら、みたまは王女を椅子から立たせる。置き払っていたコートを着せ、そのポケットに騎士が持ち帰ったスペケマート入りの紙袋を捩じ込んだ。
「行くわよ。――ついてきて」

―4―

 空港で交された、海原夫婦の会話である。

「君はそうやって、面倒な仕事ばかり背負い込むね?」
 そういう星回りなのよ、でも悪く無いでしょ?
「全くだ、でも気をつけて。Nの残党が二人を狙ってる」
 あら、モテるのね。妬けちゃうじゃない、ヘッドは馬鹿息子?
「察しが良いね。まずは彼の方を始末してから、彼女に手を掛ける。そういう算段らしいから、現地に向かう前にドイツへ飛んで。『マスター』の場所と名前は、覚えてるね?」
 諒解。愛してるわ、やっぱりあなた、最高♪

 数十時間後、ドイツとデンマークの国境側。
「――レオパルド?」
「ヤー。ヘルはグスタフをご指名でしたが、どうにもミッション向きではありませんのでこちらを」
「賢明な判断だわ…」
 みたまの目の前には、かつてゼパストポリ攻略戦やイタリア戦線で活躍した幻の列車砲K5[E]が――
 ほぼ完全な形で、納品・出荷を待っていたのであった。

―5―

 列車を乗り継いで、ロシアの国境までノルウェーを横断する。
 幸いにして列車は飛び込みで乗車でき、アパートメントの辺りを張っていた男達が追ってくる可能性は無さそうだった。
 部屋を出てからは、みたまは必要最低限の会話しか二人とは交していなかった――騎士が口を開けば、彼女は大きく首を横に振って『聞く意志が無い』事を彼に表して居たし…王女はただ窓の外を見て黙りこくっているだけだった。
「馬鹿な男は馬鹿な事しか思い付かないもんなのねー…ほっといたら死ぬまで追いかけられるわよ」
 間もなく国境に近い駅に着く。数時間もの間口を開かなかったみたまがぽつりと言葉を紡いだ時、沈黙にすっかり慣れてしまっていた二人がみたまの顔を見詰めた。
『・‥…――あの、』
 そして。
 二人がほぼ同時に沈黙を破り、そして言いだしかけた互いの言葉を待つ様に――王女と騎士が見詰めあった。
 そして再び、幾許かの沈黙が…流れる。
「――着くわ。準備して」
 先を促す事なくみたまは告げ、先だって立ち上がっては車内の様子にそっと辺りを見回す。
 何かを諦めたかの様に騎士は続いて立ち上がり、王女へ手を差し伸べた。

 見慣れた景色に、目を細めた王女が地平線を見渡し――頬を緩めながら、コートの合わせを重ね直す。
 ロシアとノルウェーの国境近くに、かつてJ国と呼ばれた小さな国家は、あった。
 朝から七時間以上も列車に揺られていた事になる。億劫そうに腰を叩きながら、心地よい冷風にみたまも改めてと言った風に景色を見渡していた。
 日に日に肌寒くなるこの辺りの気候も、来月になってしまえばそんな悠長に語る事が出来なくなるだろう。
 王女と等しく辺りの景色を見回し、その後で彼女自身を見詰めた騎士が――小さく溜息を吐いた様だった。
「今夜はとりあえず、この辺で宿を取りましょ。ノルウェーでの食事も食べ納めになるかもしれないからぁ、驕ってあげる。なんでも好きなモノ言って頂戴」
 毒気の無い笑みの形へと、みたまの口唇が引き上げられる。やはり、騎士は何も言わなかったが――王女が、やはり穏やかな笑みを浮かべたままで、
「――みたまさん。最後に、故郷の景色を見せて下さって有り難う御座いました。…ほら、あそこにうっすらと建物が見えるでしょう? あの屋敷で、私は生まれて…育ったんです。その右にある小さな森、そこで、…私と彼は、将来を誓い合いました」
 遠く、夕焼けに霞む蜃気楼の様な小さな影を指差しながら言った。
 その横顔を見詰めるみたまの眼差しが、橙色に輝いている。透明感のある緋色に、夕焼けの橙が反射しているからだろうか。
 王女の面持ちを見詰めながら、彼女はあの日の事を思い出す――あの日、騎士の手を取って笑った王女の笑顔、あの輝きを、穏やかさを。
「――ウン。…まあ、あなたがそう言うなら、出来ればそうさせてあげたいんだけど…‥・」
 態とらしく言いよどみ、みたまは己が顎に手を当てる。んん――考え込む風な仕草の後で、今度は騎士を見上げた。
 今日一日、彼が紡ごうとして紡げなかった言葉の先を促す様に、そしてゆっくりと首を傾ぐ。彼もみたまの視線に気づいたが、彼女と視線を合わせる事はできないままだった。
「――私は」
 尚も屋敷の方角を、おそらくは森を――見詰めたまま、頬を夕日に照らしていた騎士は言葉を継ぐ。
「私は、・‥…自分のした事が、過ちだったのでは無かったかと――考えない日はありませんでした。死んだ様にぐっすりと眠る、疲弊した姫の寝顔を見る度…日に日に荒れていくその指先を見る度…瑣末な食事を喜ぶ姫の笑顔を見る度、・‥…彼女を連れ去ったのは、私の最大の過ちだったのでは――無かったかと」
 呻く様な低い声音で、騎士は懐述する――額に左手を当て、苦悩に歪んだ顔を隠した。
「・‥…もしも再び、…彼女をあの頃の様なきらびやかな生活に戻してあげる事が出来るのなら…‥・」
 と。
 その言葉が言い終えられぬうちに、さくさくとみたまの踵が草を踏んでいた。
 速足で騎士に歩み寄り、その勢いの壗――
「っ生意気言ってんじゃないわよ!」
 怒声と共に。
 みたまの拳が、騎士の顎に弾けた。

―6―

「黙って聴いてりゃ良い気になって!」
 いくら女の細腕とは言え、みたまの本職は傭兵である。
 いざとなれば二メートルの大男でさえ投げ飛ばす程の腕力を誇る彼女の拳である、幾許かの手加減はしたとは言え、騎士の身体は大きくよろけた。
 蒼白になった王女が騎士に駆け寄り、おろおろと両手を彷徨わせる。
「あやまち? 戻してあげる? 図に乗ってんじゃ無いわよ、あんた何様のつもりなのよ!」
 草原を撫でる冷たい空気の中、凛としたみたまの怒声が響く。
「あんたあの日も言ったわよね、くやしかったって――姫も国も守る事が出来なくてくやしかったって私に言ったわよね!? 今のあんたじゃ無理よ、女一人仕合わせにできなくて何が『国を守る』ですって!?」
 ヒステリックに声を荒げるみたまの面持ちに、二人は食い入る様に魅入っている。
 国王の娘、国を守る騎士。
 女と男。
 未だかつて、二人まとめてこれ程までに怒りを露にされた事などは無かった。
 否――『怒り』では無いと、悟ったからこそだったのだろう。
 真剣に過ぎる、真剣に二人の人生を慮っている様子のみたまのその眼差しに、吸い込まれそうだった。
「・‥…――良い気なもんよね。王女と言う身分も、N国の妃の身分も投げ捨てさせて、彼女の人生を変えたのはあんたでしょう。…今更放りだすなんて、むしが良すぎるじゃない」
「・‥…――……」
 言葉を返せない。
 何の言葉をも紡ぐ事が出来ないままの騎士の横で、王女が震え――そして。
「・‥…もう良いです、…もう、良いんです。彼の足手まといになる位なら、私は…」
「あなたは黙ってなさい」
「――いや」
 今度は、みたまと、騎士が。
 ほぼ同時に口を開いた。
 みたまが殴打した顎に手を置いた壗で、騎士がその瞼を閉じ――言葉を次ぐ。
「・‥…目が、醒めました。――私は騎士です。例え国が滅び、牧場の雑夫に身を窶して働く事になろうと、――私は、騎士です。誓いは捨てません」
 その言葉に。
 疲弊した様な、力無い眼差しを男に向け、口唇を震わせた王女が――
「・‥…――っ…もう…二度と…‥・」
 捨てるなんて言わないで・‥…
 音にならない言葉の後、冷たく震える両手を騎士に伸ばす。その腕でゆっくりと男を抱き締め、縋り付き――
「・‥…愛しています…誰よりも――」
 嗚咽交じりの誓いを、口にしたのだった。

―6―

 驕ると言って聞かないみたまの申し出に折れ、一堂は近場の安いホテルで一夜を明かす事となった。
 本来は今すぐにでもこの土地を離れるべきだったのかもしれないが、元より本数の少ない列車はとうの前にその運行を休止していた為でもある。
 市内のアパートメントよりずっと感じていたよそよそしさは、もう二人の間には無い。
 まるで連れ添って間もない夫婦の様に、そっと寄り添う二人の姿にみたまは非道く日本が恋しくなったのだった。
「――さて。…どうしてここに連れてきて、どうしてここで夜を明かそうって言ったのかって言うとね?」
 フィスクズッペは、もともとノルウェーの人間であった騎士ですら口にした事の無かった最北の味だった。トナカイ肉のステーキ、雷鳥料理にフィスクプディング。それらをたいらげ、デザートのロンメグロットが大きな器に半分程になった頃、みたまがスタークエールのジョッキをごとりとテーブルに置き口を開く。
 レストランには、窓際のテーブルを用意させていた。濃密な暗闇が広がる外の景色、大きな厚いガラスの向こうには視界に留まる事こそ無かったが遠くに屋敷と森の影が有っただろうか。
「…そろそろ時間なの。吃驚しないでね――」
 華奢な腕時計で秒針を確認しながら、不思議そうに見詰める眼差しをよそにみたまが何やらカウントダウンを始める。指先をす…と窓の外に遣り、自らもその指の先を仰ぐ。
「3…2…1、はい」
 と。
 遠くの地平線に、小さな光が見えた。
 そのすぐ後で、もう少しばかり大きな閃光が――それは屋敷のある場所だった。朝になれば判る――瞬き、次いで。
 地を轟かす轟音が、窓ガラスを震わせた。
 ドイツから運ばせた列車砲K5[E]が、その火を噴いたのである。
「・‥…――ッな…」
 テーブルの上でグラスとグラスが小さな音を立てて震えたが、歩み寄ってきたウエイターは顔色1つ変えずに空のそれを指先で攫っていく。
 遠くの景色で繰り広げられている爆破の模様には、目もくれなかった。
「厭になっちゃうわよね。あそこ、――N国が無くなってからの馬鹿息子の根城だったの」
 時間通りに行われた屋敷の炎上に、みたまは再びスタークエールのジョッキに手を伸ばした。ぐい、と中身を煽り、目の合ったウエイターにジョッキを振って見せる。
 未だ、目の前で何が行われているのかを理解していなかった様子の王女が、みたまの言葉に眼差しを向け、――指先で口許を押さえる。
 騎士だけが、一部始終から目を逸らさずに――空を仄かな橙に染める屋敷の炎を、食い入る様に見詰めていた。
「本当の意味で、あなたは帰る場所を失ったのよ、お姫さま。・‥…厳密に言えば、馬鹿息子達があの屋敷を牙城にした時から、ずっとね? 遅かれ早かれ、彼らはJ国の復興組に見つかって同じ様な末路を辿っていたでしょう。あなたは帰る場所を探すんじゃなくて、もう…新しい居場所を見つけなくてはいけないの。自分の力で」
 ウエイターが運んできたジョッキを受け取り、テーブルの上に置く。既に轟きはホテルには届かない、ただ空をあかね色に染める炎上の様子が、トーキー映画の様に窓に映し出されるだけだった。
「――判りました」
 王女――かつての王女は厳かに言葉を返す。
 膝の上で強く握った両手に、欠けた爪が食い込んでも――王女は、決心の力を緩める事はしなかった。

―7―

 次の日。
 隣の部屋で眠っている筈の二人がやって来る前に、みたまはチェックアウトを済ませた。
 カウンターには小さな袋を預けて行く。
 大臣から受け取っていた、多額のノルウェー・クローネがそこには詰められていた。

「あなたの言う通りでした、ミス海原。…実を言うと、元より無理な依頼だと言う事は存じておりましたから――神の御名に掛けて、彼らの祝福を祈ります」
 電話だけの簡単な報告に、J国でかつて大臣を務めた男はそう答えた。電話口、胸元に十字を切っていたのだろう。僅かな沈黙の後で、再び言葉を紡いだ。
「――姫様は、お仕合わせそうでしたか」
 勿論。そうとだけ告げて、みたまは携帯電話を切る。

 もう二度と、見失う事はあるまい。
 もう二度と、迷う事はあるまい。
 あの日別れを告げる事無く立ち去ったホテルの一室に眠っていた二人をみたまは思う。

「――そろそろ私もエネルギー切れ…早く日本に帰ろうっと」
 列車の中、窓の外に広がるのどかな田園風景を見詰めながら、みたまはふ、と小さな溜息を吐いた。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
森田桃子 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年09月12日

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