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『鏡の月 』
深山・智0281)&風見・璃音(0074)

 あてどなく都会の森をさまよい歩き、何故か見たこともない街角の、触れた事もない扉に切なさを覚える事がある。
 代官山に訪れたのは、バイト仲間の送別会に用意する為のプレゼントを求めてのことだった。
 お洒落なお店を知ってるの、と初めて並んで歩くバイト仲間と、早々に用事を済ませて別れた後、何故だが妙な郷愁を覚えて、彼女は街を一人歩いていた。
 銀糸のような繊細な美しい長い髪を持つ赤い瞳の少女。
 彼女は歩きなれない街角を、何故だか目的を持って歩いてるような錯覚に陥っていた。
 この通りを、その角で曲がって、次を左に……。
 そしてそれを彼女は不思議に思わずにいた。
 何かの気まぐれのように街をそぞろ歩く感覚は楽しかった。だが駅からずいぶん遠くまで歩いてきたことに気づき、そろそろ戻ろうかと彼女が思い始めた時。
 その店の扉が彼女の視界に飛び込んできた。そして、何故だろう、とても胸が締め付けられるような気持ちになったのだ。

「深山」

 と小さく書かれた蔦の絡まる小さな扉。レストランともバーともつかないその扉を、彼女……風見・璃音(かざみ・りおん)は息を殺しながら見つめていた。
 それはより一層の切なさを胸にかきたてた。
 胸に響く鼓動。彼女は小さな確信を胸に持った。けれど、それはすぐに疑惑に変貌する。
「黒狼様がここに……?」
 生涯の伴侶となるべき……彼女の同胞。
 しかし、まさかね、と彼女はすぐにその考えを否定した。
 その人を求めて、一体どれほどさまよってきたのだろう。……そんなに簡単に会える訳がない。
 だけど、でも、もしかしたら。
 璃音の胸で希望と否定が、水母のように浮かんだり沈んだりを繰り返す。店の前で立ち尽くす彼女には、もう前にも後ろにも動くことがしばらくできずにいた。
 しばらくして、その店の扉が突然開いた。
「それじゃ、また」
 見たこともないサラリーマン風の男だった。彼は扉の中の人物に手を振って、名残惜しそうに「また」と微笑む。
「ええ、またいらしてください」
 響きのよい男性の声が後に続いた。店主らしい。服装がそんな感じで、とても暖かそうな目をした壮年の男性。
「また来ます」
 客は繰り返した。
 そして街角へと消えていく。
 璃音は不思議な気持ちでそれを見つめていた。あの店の中に、あの客にとって大切なものがあるんだろうか。

「……ん」
 深山・智(みやま・さとる)は、最後の客を見送り、扉の前の表札をCLOSEDにしようかと思っていた。
 普段ならそんなことは考えない。半分道楽でしている店ではあるが、彼にとってこの仕事は天職だった。
 ただ今夜は何故だろう。胸騒ぎがするのだった。
 彼を必要とする人がこの店にやってくるような予感。それが誰であるかはわからないけれど。
 扉に鍵をかけずに、CLOSEDの看板を出す。彼を必要とする者には、それはたいした結界にならない筈だ。
 しかしそう思いつくだけで、そんな事は出来ないのだった。
 それは、この店を愛してくれるいつもの常連達を困らせたり悲しませたりすることになる。だからただ悪戯に思いついただけのこと。
 扉の前に佇んでいる少女の視線を感じたのは、そんな気分で客を見送りに出た時だった。
 月の雫を浴びたような美しい銀色の髪と、朱の瞳。透けるような白い肌を持つ美しい少女だった。
 彼女は何かを言いたげな瞳で、深山を見つめていた。
「中に入りませんか?」
 深山は優しく囁いた。
 誰かに似ているな、と思いながら。
 少女は無言でついてきた。

 店の中は閑散としていた。
 他に客も従業員もいる様子はない。
 そして、案の定……というべきか、その人もいなかった。
 ……黒狼様……。
 そんなことは判っていた。璃音は瞼を伏せ、拳を握った。
 なんでそんなこと思ったんだろう。ここに、いるなんて。
 カウンターに腰掛けて、彼女はまだ夢見がちに吐息をついていた。
 ……会いたい。
 泣きたくなるほど。
 貴方に会いたい。
「……いつからあそこにいたのですか?」
 カウンターに入った深山が、優しく微笑んで尋ねた。
 近くにあった瓶をとり、何かを作り始めているようだった。
「いつから……今何時ですか?」
 初めて璃音は口を開いた。
「8時45分……かな」
 古い鳩時計を見上げ、深山が答える。
「そんなに……」
 代官山の駅で友人と別れたのは、まだ6時やそこらだったような。
「まるで迷子になったような表情をされてましたね。どなたかとお待ち合わせでしたか?」
「……」
 迷子。その表現は間違っていないかもしれない。
 どうやってここまで来たのか、記憶はとても曖昧だった。一人で帰れるだろうか。
 でも、後半は違う。
「待ち合わせじゃ……ないわ」
「そうでしたか」
「……どこにいるかもわからない人と、待ち合わせなんて出来ないもの」
 彼女の瞳から透明の雫がこぼれた。
 会いたい。
 深山は黙って璃音を見つめた。彼は、言葉の代わりに、透明な液体の入ったカクテルグラスを彼女の前に出した。
「……これは?」
 まだオーダーもしていない。
 璃音は軽い戸惑いを覚えて、深山を見つめた。深山は目を細めて小さく頷いた。
 彼女は不思議な気分で、それを口にした。バレンシアオレンジで飾られたそのグラスを手にとり、口をつけると、炭酸の感触がした。
 甘く、そして微かに苦いソーダ水といった感じだろうか。
「いかがですか?」
「美味しいわ、……もう一つ頂いていい?」
 璃音は深山に微かに笑った。
「ミラームーンというカクテルです。アジアンのアルコールが入ってますので、喉越しは良いですが、飲みすぎてはいけませんよ」
「ミラームーン……、鏡の月か」
 璃音は繰り返した。
 月。彼女達の一族に大きく力を与える神秘の女神。
 そしてあの人もまた。月の力を否定せずには生きていけない日々を送っているだろう。
「……」
「きっと会えますよ」
 カウンターの中で、カクテルを作りながら深山が呟いた。
「……そんなのわからないわ……もうずっと、ずっと探してるのに」
「あきらめてしまわなければ、いつか叶うはずです」
 深山は優しい静かな声できっぱりと言って、二杯目のカクテルを差し出した。
「……そうね」
 深いため息をつき璃音は頷く。
「あの人に会えるような夢を見たの。……このお店に入る少し前に……。だからこんなに寂しいのかもしれない」
 このままミラームーンの見せる夢を見ながら酔いつぶれてもいいな、と璃音は思っていた。
 鏡の月。
 あの人はどこにいるの。
 空に浮かぶ月のように、心を惹きつけ、手を伸ばせばいつも遠い。
 この細い腕で捕まえられる時は来るのかしら。
 そして愛してもらえる時は来るのかしら。

 カウンターでいつの間にか寝息をたててしまった彼女に、深山はそっと背中から毛布をかけてあげた。
 きっと疲れていたのだろう。しばらくすれば目覚めるだろうし、終電が行ってしまったなら、朝までいるといい。
「黒狼様……」
 彼女の声が、眠りの口からぽつりと漏れた。
 何だろう、と深山は思う。思い当たるものがありそうな気がしたが、詮索はしない。
 彼はそっと空を見上げた。
 店から覗ける高い窓に、銀色の月が大きく輝いていた。
 彼女の探し人もまた、この月を見上げるどこかにいるのだろうか。
 そして、会えぬ彼女を思っているのではないか。
 深山は、貴方も罪な人だ、と月に向かって小さく苦笑した。

                                          了
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
鈴 隼人 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年09月11日

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