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『ブルー・ノート・ピアニスト』
ケーナズ・ルクセンブルク1481
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その日、ケーナズは無造作に掴み取った郵便物の中に、明らかに私信と思われる封筒を見つけて手を止めた。エアメール用のオニオンスキンの封筒に、流れるように書き込まれたこのマンションの住所。
ふと予感がして、封筒を裏返してみる。同じように丁寧な文字が並んでいる。
「―――Theresa.」
白い封筒に整った文字で並ぶ名前を口に出してみて、はじめてケーナズは眉を寄せた。スポーツクラブの会報や新聞に紛れて届けられたのは、母の恋人からの手紙だった。
母の恋人……テレーゼは、恋人の子どもという微妙な立場にあった双子を、本当の母親のように可愛がってくれた人である。
母とは対極に柔らかく包むような愛情を注いでくれた彼女に、ケーナズが淡い感情を抱いたのはどれだけ昔のことだったろうか。母という恋人を持つ彼女への想いが叶うはずもなく、幼かった彼の恋は実らぬままに終わってしまった。あの時は、あまりの落ち込みように妹を心配させたものだ。
思い返せばそれがケーナズの初恋であり、当時のことは良き思い出として、確かに彼の心の中に残っている。また、それは現在にも渡って続けられている熾烈な兄妹喧嘩の発端でもあった。
頬を染めて、ケーナズに恋する人のことを語った少女の薄紅色の横顔を思い出す。記憶の中の妹は、やや美化されていたかもしれない。
「……いつの間にあんなに可愛げがなくなったんだ」
幼かった妹の、兄への愛情と優しさに満ち溢れた顔を思い出して、ケーナズは舌打ちする。
一方的に抱いていた恋が叶わなかった時、余計なことは言わずに寄り添ってくれたのは双子の妹だった。思えば年上の特権で、彼女には色々構理不尽なこともしたものだが、それでもよく懐いてくれていたと思う。
今でこそ会えば憎まれ口と皮肉しか言わないが、当時は可愛かったのだ、あの妹も。
……とはいえ、あの可愛げのない女を可愛かったと思ってしまう自分が甚だ不本意である。今でも、なんとなく似たような感情を覚えることがあるという事実に至っては、自己否定したい気分だった。
「バカらしい」
頭を振ることで、ケーナズは過去の記憶を意識の片隅から追いやった。
残りの郵便物をテーブルに放り出し、ソファに身体を沈めてケーナズは再び封筒を眺める。他の封書とは違う、まかりなりにも初恋の人からの手紙である。ぞんざいに扱うことも出来ず、またそれを開くのには勢いが必要だった。
手紙は、双子に宛てられている。いつかのように、これは兄妹喧嘩を収束させるための身内の差し金かと訝ってみたが……
「深く考えすぎか……」
テレーゼは、ウィンが家を出ていったことを知らないか……知っていても、まさかほとんど決裂しているなどと思ってもみないか。とにかく難しく考えなかったのだろう。特に根拠もなく、ケーナズはそう結論付けた。
指で触れてみると、封筒には僅かに硬い紙の感触がある。完全な私信というわけではないのは、宛て先が双子の名前になっていることでもわかっていた。
胸のうちをざわざわした予感が過ぎる。なんとなく、封を切るのをためらうような、おそらく手紙の中身はそんな内容に違いない。
気が乗らないとは言え、開かないわけにはいかなかった。
ため息をついてペーパーナイフに手を伸ばし、ケーナズは丁寧に糊付けされた封筒を開く。そこから滑り落ちてきた紙片を手のひらに受け止めて、予感が現実になったケーナズは我知れず肩を落とした。
「…やはりな」
出てきたのは、四つ折りになった手紙と、二枚のチケットだった。
手紙にはミュージックホールのロゴが金字で印刷され、ケーナズとウィンの二人をピアノリサイタルに招待する旨が書かれている。
マニュアルに沿って印刷された高級紙の空欄には、宛名のそれと同じ筆跡でメッセージが添えられていた。
時間に都合がつくなら、是非とも二人で来て欲しい――と。そこには、豪快な母のそれとは違う、繊細な文字がケーナズに訴えかけている。
「二人で、か」
複雑な気分でケーナズは深くソファに沈みこみ、送られてきたチケットを目の前に翳す。嫌な予感ばかりがあたる。
叔母のコンサートで顔を合わせ、案の定ギスギスした雰囲気で別れた妹とは、あれから殆ど顔をあわせていない。情に篤く、言い出してしまったら引っ込みがつかない妹がケーナズに接触してくることはなかったし……ケーナズは兄としてのプライドが祟って、何かと彼女を気に掛けながらも連絡を取れないままでいる。
慌しさを理由に、妹との接触を避けていたツケがきたのかもしれない。目を伏せて視界から二枚のチケットを押しのけ、苦々しい気分でケーナズはそれらをテーブルに滑らせた。こうなってしまっては、顔を合わせないわけにもいかないだろう。
(前回のような喧嘩は遠慮したいものだがな……)
オペラ観劇の夜のことを思い出して、指先でこめかみを揉んだ。
皮肉の応酬に、うわべだけで演じる「仲の良い兄妹」の虚像。本来ならば、そういった関係を築ける相手だからこそ、偽りの友好関係は彼にとって、いっそ白々しいほどだった。
ああいうやりとりは、気力の消耗が甚だしい。なんだかんだといいつつ、感情面においては妹のほうがケーナズよりもタフなのだ。嵐のような彼女の激情に巻き込まれると、ケーナズは後でどっと疲れが出る。
その疲労の一部は、ずっと一緒に育ってきた妹との不和に端を発しているのだということを、彼はまだ気づいていない。説明の出来ない磨耗感として、それはケーナズの中に蓄積されていく。

兄として、ここは折れるべきだろうかと自問する。些細な諍いであったのなら、そうすることになんの抵抗もなかったはずだ。妹の知らないところで、本人すらも気づかない部分で、ケーナズはそうしてバランスをとってきた。
いくら突っ張ってみても兄への甘えを捨てきらない妹と、そんな彼女に冷たい言葉を投げながら、結局はなにかと世話を焼いてしまう自分と。ギリギリのところで、そうやってバランスは保たれていたのである。
口や態度にこそ出さないが、ケーナズにとって妹との良好な関係は、自分が一歩引いてでも続けるべき大切なものとして位置づけられていたのだ。
だから今までのように、延々と続いている兄妹喧嘩に終わりを告げるためにも、まずは引くべきか―――
「……いや」
苦々しく首を振る。そんなことができないことは、自分でもよくわかっていた。
意見の食い違いとは、違うのだ。いくら妹のためだと言ったところで、こればかりは偽るわけにもいかない。
思春期に入った頃から、恋人を巡る喧嘩は何度と無く続けてきたが、今度ばかりは根が深い。
恋人を失ったことを悲しみ、兄に恋人を取られたことに憤り、…そしてどこかで、そのように兄に怒りを向けなくてはいけないことを嘆いている妹は、ケーナズの言葉に、かたくななまでに耳を貸さなかった。
まあ、たとえケーナズが自分の気持ちを彼女に語って聞かせたところで、彼女に辛い思いをさせるだけである。
そんな思いがあったからこそ敢えて悪びれずに胸を張っていたのだが、妹にはそれが癪に障ったのだろう。妹の恋人ということを超えてしまった愛に溺れた自分に、少しは後ろめたさを感じている部分もあった。だからこそ、妹の、全てを撥ね付けるような態度に対しても強く出れないのである。兄の気持ちなどきっと思いもよらず、妹は未だにぷりぷり怒っているのだろう。
「こんな時まで、律儀に約束を守らなくていいのにな」
むしろ、自分の気持ちをそっくりそのまま、妹に伝えられたら楽なのだ。そうしてしまえば、そこに言葉はいらない。バカみたいに長い時間をかけた喧嘩も、すぐに収束するだろう。
だが、妹は二人で決めた「互いの心は読まない」という約束を、こんな時でもまじめに守り続けている。だから彼女は、ケーナズの心も、読み取ったりしない。
馬鹿がつくほど真面目な奴だと、自分のことを棚に上げてケーナズは不機嫌になった。
不機嫌は、躊躇いの裏返しである。どうするべきか……本当はわかっているのに、一歩を踏み出せない。
結果的に妹から奪うことになった恋人を、ケーナズはその時、確かに愛していたのだ。彼女に他に男が出来た時も、傷つかなかったわけではない。妹が誤解しているように、あっさりと彼女を捨てたわけでもない。
ただ、腹は立てていた。
妹を捨ててまで一緒になったのだ。妹の非難にも、怒りにも、二人で幸せになることで真面目に向き合っていけると……そう思っていた。だから、それが裏切られた時、ケーナズも人並みに傷ついたのである。兄として、男として、妹にはどうしても見せられない、それは密かな弱音だった。
そんなケーナズの気などどこ吹く風で、仁王立ちになった妹は、兄と見るやきりりと眦を吊り上げる。
『土下座するまで帰りませんからね!』と。
「…………まったく、あいつは」
日本に来てから覚えた「土下座」という単語を、見事に活用して投げつけてくれた妹の怒った顔を思い出して、ケーナズは天井を見上げた。どれだけ、あいつの笑った顔を見ていないだろう。

しなくてはいけないことは、わかっている。
さんざん迷った末に、自分がどうするのかも。
(謝ることなど、ない―――)
ないのだ、実際に。適当に妹の機嫌を取って、元通りに彼女と話せるようになるためには、確かにそれも一つの方法ではあるのだが。
長年、含むところ無くまっすぐに向き合ってきた妹である。ご都合主義に任せた適当な態度は取りたくなかった。
コードレスの電話が、ケーナズが手を伸ばすのを静かに待っている。
―――することは、一つだ。
息を吐いて迷いを振り切り、ケーナズは受話器を取り上げる。何度かかけようと思っては手を止め、時には適当な理由をつけて押した電話番号は、もうすっかり暗記してしまっていた。
ピ、ピ、ピ、と、こんな時でもかわいらしい音をたてて、コードレスホンはケーナズの声を、遠くまで運ぶ。
わずかな交信音のあと、電話が繋がった。
二回―――三回。
四コール目で「もしもし?」と落ち着いた女性の声がする。
「ご無沙汰しております―――」
「ケーナズ?まあ、珍しいのね。どうかしたの?」
「いえ……ウィンは家にいますか」
いるわよ、と笑みを含んだ優しい声が答え、ちょっと待っていてねと、電話は保留音へと変わった。
その間に、ケーナズは息をつく。
謝るつもりは、ない。それはもう決めた。だが、妹とはきちんと話をつけよう。そして、こんなバカげた兄妹喧嘩にも、意地を張って互いを無視するような毎日にも、ケリをつける。
もっと早くこうしていればよかったのだ。
こんなに長く続く兄妹喧嘩など、たった一つの電話で、きっと解決の糸口は掴めていたはずなのに。
「……もしもし?」
電話口で、嵐を予感させて妹の声はやや低い。
それでも、心を決めたケーナズの声は揺らがなかった。

「ウィン」

名前を、呼ぶ。


とても久しぶりにその単語を口にした気がした。




- BLUE NOTE PIANIST -
PCシチュエーションノベル(シングル) -
在原飛鳥 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年08月22日

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