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『牡丹鍋の真実 』
御母衣・武千夜1803)&御母衣・今朝美(1662)


 卓上で翅を休めていた蛾が、驚いて飛び立った。
 武千夜が、ドカンと豪快に鍋を置いたのだ。
 見事なオオミズアオだったのだ――今朝美はじっと黙って見とれていたのだが、それを父・武千夜が知っていただろうか。答えは訊くまでもない。おそらく、否であろう。武千夜はひどくご機嫌で、外で料理をしていたのだ。
 味噌と野菜で猪を煮込んだだけの鍋が、料理と言えるかどうかはべつだ。
「出来たぞ! 食え! 白飯も酒も用意しておいた」
 ドカン、ドカンと立て続けに卓に置かれるのは、茶碗に山盛りの白米と、銘酒・渡舟。
 今朝美は小さく溜息をついたが、抵抗はせずに箸をとった。
 今日の武千夜は、夕食は自分が作ると息巻いていた。私用で山を下り、つい先ほど帰ってきた今朝美は、何故父がこれほどの上機嫌なのか理解できなかったが――なるほど、肉を食えるからこの調子だったというわけだ。
「……いただきます」
「……なんだ、何か文句があるなら言ってくれ。俺は心までは読めん」
「べつに文句などは――」
「嘘をつくな、その顔はなんだ! お前の考えなぞお見通しだぞ!」
「……」
 今朝美は、黙って牡丹鍋に箸を伸ばした。
 武千夜も、むっつりと口を閉ざし、箸を運ぶ。
 オオミズアオは、天井にとまっていた。固唾を飲んで、この父子のやり取りを見守っているようでもあった。
 御母衣武千夜が転がりこむ前までは、虫の鳴き声と、木々の枝ずれの音、キャンバスに走る筆の足音、淡々と進む食事の音だけが、この御母衣今朝美のアトリエ兼住居に満ちていた。今は、時折噛み合わない会話と、電池式ラジオの囁きが混じるようになっていた。
 ラジオは、静かな夕食に僅かばかりの彩りを添える。
 この山のふもとに、猪と熊が出没したと――警告をしてきている。
 だが山の只中に住むこの父子にとって、それは警鐘ではなかった。このまま沈黙が続くことの方が、ずっと厄介で、逃げ出したくなる要因でもあったのだ。


 今朝美と武千夜の会話が続かないのは、今朝美がまだ父を受け入れようとしていないからかもしれない。そして、武千夜がつまらない意地を張って、非を認めようとしていないせいでもある。
 ふたりは永生きをする存在だ。生まれてからすでに、数千年の時が経っている。それでもなお、ふたりは生き続ける。折り返し地点すらもない一生だ。そういう命を持っている。
 その永い『今まで』を、今朝美はほとんど独りで生きた。父親がこの島国の森に彼を置いて、ふらりと旅に出てしまっていたからだ。今朝美は父が自分を放っておいた理由も、旅に出た理由も知らなかった。皆目見当もつかなかったので、早いうちに憎むことも考えることもやめて、そういうものなのだと悟りを開いた。この永遠の生命と同じ、自分は独りで生きるさだめにあるのだと。
 そして、日本が21世紀になった今、父親はふらりと戻ってきた。
 久し振りに今朝美が見た父はきれいに老けこみ、
 久し振りに武千夜が見た息子は立派な青年に成長していた。


「まあその、なんだ」
 渡舟をカッとあおり、武千夜は重い口を開いた。
 苦し紛れに何か言うつもりだ――それに気づき、今朝美は別に相手にしたくないわけではなかったので、無言で父に目を向けた。
 武千夜が話しだしたのは、古い古い話だった。
 それはべつに、酒が促したわけではない。
 オオミズアオと沈黙が彼の背を押したのだ。
「お前のお袋はな、そりゃアもう、月か星の化身かと思えるほどの別嬪だったんだ」
 何を話すかと思えば。
 今朝美は葱を喉に詰まらせ、咳払いをした。
「落とさにゃ漢じゃねエってくらいに俺は惚れたんだ。でも、俺はそういうことに慣れてなかったし、その……英吉利の芝居じゃないんだが、身分の壁があったんだ。お前にとっちゃ身分だ血筋だなんてどうでもいいことだろうが――俺にも、あいつにとってもどうでもいいことだったんだ――なかなか一緒になるのは難しかった。俺は、この辺鄙な島の生まれだ。あいつは、大陸のずっと西の、お嬢様だった」
 息子に語る口振りではなくなっていることに、武千夜は気づいていない。
 今朝美も、無意識のうちに空になった父のお猪口に渡舟を注いでいることに気づかなかった。
「ケルトの森を護る一族だ。お高さは知ってるだろう」
「小耳に挟んだ程度ですが」
「銀っつうより、白い髪だった。透き通るような白い肌っていうのは、あいつの肌のためにある言葉だった。ちょいと口は大きかったが、そのおかげで歌が上手かった。『王を送る詩』を唄う役目まで持ってたんだ――」
「――今はどこに?」
「わからん」
 武千夜は今朝美に初めて哀しい表情を見せた。
 なぜかぎくりと驚いて、今朝美は身体を強張らせる。訊いてはいけないことだった。その素振りも目に入らなかったようで、武千夜はやけになった勢いで酒をあおった。
「ずっと探したんだが、見つからなかった。あいつはこの島までついてきてくれたんだが、お前が生まれてすぐに連れ戻されちまってな。あいつがいなくなってから、風の噂で、ケルトの森が侵略されたと聞いた。俺はアワ食って大陸に渡ったんだが……結果はこれだ」
 武千夜の溜息には、怒りのようなものが混じっていた。
 何に対する怒りなのか、今朝美にはわかった。父は他にも秘密を持っているだろうが、わかりやすい性質である。
 今朝美は眉をひそめて、口を開いた。
「なぜそれを今まで――」


 牡丹鍋がひっくり返り、渡舟の瓶が割れ、オオミズアオが天井から飛び立つ。
 ついでに言えば、アトリエが半壊した。
 隻眼のツキノワグマが乱入してきたのだ。熊は今しがた隻眼になったばかりの様子だった。右目と右肩口から血を、口からは涎を垂れ流していた。ニュースを囁くラジオは踏み潰され、申し訳程度の電灯が瞬く。
「おッ?!」
「おや?!」
 熊はまだ熱い牡丹鍋の中身を浴びて、頭を振りながら猛然と立ち上がった。身の丈2メートル以上の大物だ。北海道のヒグマでもなかなかこの大きさにはならないだろう。左の金眼は熱さと痛みですっかり正気を失い、武千夜と今朝美を捉えてはいなかった。だが、咄嗟に身構えた武千夜の動きには反応した。それは、手をかざせば逃げる蝿の反射のようなもの。
「牡丹鍋をフイにしやがって、お前は大和煮にし――」
 鉄拳をお見舞いしようとした武千夜の前に、熊はどうと倒れた。
 前口上も終わらぬうちの出来事に、武千夜は身構えたまま呆気に取られた。
 手負いの獣は、なかなか手強い相手だが――それを事も無げに倒したのは、絵師である今朝美のほうだった。
「……やるじゃねェか。うむ、さすがは俺の倅だ! しかし熊は秋の終わりが旬だが――」
「毛皮も肉も間に合ってますから、食べませんよ」
「む」
「撃たれているようですね。今のうちに手当てをしてやりましょうか」
 息一つ乱れていない今朝美は、ずるずると熊を引きずり、壁に開いた穴から外に出た。
 残された武千夜は溜息をつき、ひっくり返った鍋とこぼれた酒を、無言で片付け始める。
「……なァに笑ってんだ」
 イーゼルにとまっているオオミズアオを睨み、武千夜は難癖をつけた。


「なぜ今まで話さなかったのですか?」
「あー?」
 壁にとまる虫たちは、数秒とそこにとどまらない。
 ふたりの『森の人』が、月明かりとカンテラの灯を頼りに、住居の壁を直している。人間の目では、とてもこれだけの灯かりでは大工仕事など出来ないだろう。ここは人里離れた山の中で、東京の夜など及びもつかないほどに暗いのだ。だが森で生まれ、森で育ったふたりの目には、これだけの光で充分だった。
「なぜ今まで黙っていたのです」
 もう一度尋ねてから、今朝美は木材を取り上げた。
 釘を打ち付けるのは、武千夜の役目だ。
「……話す暇がなかったのかもなア」
「何を馬鹿なことを」
「おい、父親を馬鹿って呼ぶな」
「失礼。しかし『暇がない』というのは、人間が使うからこそ説得力があるのですよ」
「いや……まあ……そうだが……」
「それに、なぜ……」
 べち。
「あ痛ッ!」
 金槌を自分の指に振り下ろすという初歩的な失敗をした武千夜が、思わず手を放す。木材が支えを失って落ち、今朝美の額をしたたかに打った。
「……」
「あーッ、くそ! 爪が割れた! 畜生め!」
 座りこむ今朝美と悪態をつく武千夜、お互いを気遣う余裕はない。
 だが、余裕があればきっと気遣っていた。
 ふたりの距離は多少とはいえ、確かに縮まってはいたのだから。

 なぜ、今まで黙っていたのですか?
 それになぜ、私をその旅に連れていっては下さらなかったのです?

 今夜はうやむやになってしまった今朝美の問い、それに武千夜が答えたとき、きっとこの父子は笑顔を交わす。
 オオミズアオは、眠る熊の頭にとまっている。


(了)

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2003年08月20日

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