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『ソマリの夜 』
綾和泉・匡乃1537
 何故自分が予備校の講師などという仕事を選んだのか、もう覚えていない。覚えているのは理由だけ。『条件』に合う仕事で、最初に目に止まった。…恐らくは、ただそれだけの事だったに違いない。

 気まぐれに参加した同窓会。
 二次会は当り障りなく断った。だが、彼らにとって同窓会とは二次会までがワンセットらしく、一次会で抜けたのは、自分を含めてもごく僅か。
 そんなものかな…と思いながら綾和泉匡乃(あやいずみ・きょうの)は、特に急ぐ理由もないので、そのまま徒歩で帰宅する事にした。
 散歩には良い夜だ。
 雲で滲んだ月の浮かぶ暗い空を眺め、同級生たちの言葉を思い出す。
 仕事帰りに立ち寄ったため必然スーツ姿だった匡乃は、問い詰める旧友らに自分が現在、予備校の講師をやっている事を白状せざるを得なかった。それからしばらくその話題で随分盛り上がったのだが、匡乃本人はそれをずっと傍で聞いていただけだった。
「ぴったりだ」または「らしくない」。『綾和泉匡乃=予備校の講師』に関する意見は見事真っ二つに割れた。
 匡乃としては、他人の評価など正直どうでも良かったのだが、後者を選んだ親友の言葉がやけに印象的だった。本人をして、的確と思わせる意見だったからだ。
 曰く「らしくはないけど、年間契約というのがおまえらしい」。

 場を制し、言葉による導きで自らが思い描いた結果を出す。
 強すぎる退魔の力を己の中に有する匡乃にとって、それは極めて重要なスキルの一つ。自覚している事だが、現在の匡乃はアンバランスなのだ。今は妹の封印に頼る形で辛うじてバランスを保っているに過ぎない。いつまでもそれで良いとも思えない。
 だからこその『条件』。少しでも自分を律する力を鍛える事が重要だった。教室という狭い空間の掌握すら難しいようでは、到底自分の中にある力をコントロールする事など出来はしない。
「…まぁ、それなりに楽しんでますがね」
 ふ、と笑みに似た息を洩らして、目に掛かった黒い前髪を無造作に掻き上げる。
 再び空に目を遣ると、月が丁度雲の切れ間からひょっこりと顔を出し、ほんの少しだけ強い光を彼に届ける。
 その他愛もない偶然に満足しながら、匡乃はふと思う。
(…僕はいつになれば、汐耶に頼らず自分の力の全てをコントロール出来るようになるのだろう)
 路肩に設置されたけばけばしい外灯の光が視界に入り、目を伏せる。
 次に目を上げた時、視界の中に猫がいた。
 漫然と続く一軒屋の塀の上に、匡乃を見定めるような目をして、佇んでいる。
(野良猫?)
 にしては、綺麗な毛並みをしていた。首の周りにたてがみのような優雅な毛がたくわえられ、尻尾は長く、これもまた優雅にゆっくりと上下に揺れられている。自分の予備知識の引き出しに、その猫に関しての知識があった。確かソマリという、アビシニアンの変種。野良猫にしては少々珍しい種類だ。
 どことなく気品のある顔立ちをしている。別に動物好きという訳でもないが、匡乃はその猫の雰囲気に感心して、立ち止まって眺めてみる事にした。幸い、それを不審に思うような人影はない。
 猫は背後に、再び雲で滲んだ月を背負っている。こちらを注視したまま、微動だにしない。まるで良く出来た石像のようだったが、確かに息をしている。家は逆光で霞み、植え込みの緑がやけに鮮やかだ。聞こえる音は自分の静かな息遣いだけ。静的な状態の中、ソマリのふさふさした尻尾だけが、ゆらりゆらりと揺れている。
 幻想的な風景だった。
「…何をしているんですか?」
 思わず小さく呟いてから、自分の声のリアリティに思わずはっと我に返った。軽く頭を振って、気を持ち直す。猫に話し掛けるなんて、どうかしている。
 失態だった。相手が例え猫であれ…、
(この僕が、相手の雰囲気に飲まれてどうする!)
 たった今再確認したところだというのに、もう油断している自分に腹が立った。
 匡乃は猫から視線を外し、再び歩き出す。
 なんだか、散歩をしている気分ではなくなってしまった。さっきまでより幾分速い足取りで、自宅を目指す。
 まだまだ精進が足りない―――。
 猫に気を許す事が油断と同一だとは言わないが、一瞬、確かに自分が無防備になっていた事を匡乃は自覚していた。支配すべきは自分。ゆえに猫に気を取られて無防備になった、その事実が彼にとって既に敗北に等しい。
 それに…。
 現実問題、誰かにさっきの場面を見られていたとしたら、情けなさの余り、ある意味の致命傷を負っていたとも言えるだろう。猫に喋りかける自分を誰かに見られる。想像するだに…。
 とにかく、一応確認はしたものの、油断だけはしてはいけなかったのだ。いつ何時、背後に何が潜んでいるか分からない。匡乃のいる世界はそういう世界なのだから。
「…そんな、大仰な」
 自分で考えながら、行きついた思考に苦笑した。

「そう、大仰だ。もっと軽く考えたまえ」

 自分ではない声がして、匡乃は反射的に振り返る。その目には、もうさっきまでの安穏さはない。
 影だ。影の中に、何かがいる。
 極めて俊敏に状況の分類を図る。敵意は感じない。首筋に走るような悪寒もない。危険視するような要素はなさそうだ。けれど目の前の本来喋らざる生物は、確かに今、自分に向けて言葉を発した。警戒は解かない。
「あなたですか?」
 ゆらりゆらりと揺れる、淡いココア色をした毛を湛えた猫。さっきの猫だ。それが、匡乃の影に半分埋もれながら、「そうだよ」と鳴いた。
 埋もれている。猫の体半分…胸より下が、外灯の作った匡乃の影の中に沈み込んでいる。
「何をしているんですか?」
 さっきと同じ問いを繰り返す。ただし今度は、先程の茫洋とした問いとは違い、明確な意図を持っている。匡乃の声には、警戒から来るナイフのような冷たい鋭さがあった。
 しかし不思議と不快感は感じていない。自分の影に訳の分からない猫が沈みつつあって、それが偉そうに喋っているにも関わらず、だ。
「ご飯をくれまいか。私は君に、食事をねだろうとしている」
 拍子抜けした。あまりにも、普通の猫の発想に思える。…しかし。
「…それで?」
 匡乃は警戒を解かない。
 猫は不敵に嗤っているかのように、赤い舌を見せて欠伸をした。それから、完全に匡乃の言葉を無視して、逆に問う。

「君は、誰に何をねだるのかな?」

「…何?」
 聞き返した瞬間、風が吹いた。舞い上がった埃に、コンマ一秒だけ、目を閉じる。
 目を開けた時、そこにもう奇妙なソマリの姿はなかった。
 影に完全に沈みこんでしまったのか、それともどこかへ逃げ出してしまったのか。素早く周囲を確認してみるが、やはり何の気配もない。
 不意に、『ソマリ』の語源を思い出す。ヌビア語で『黒い』という意味だ。
「黒い…から影なんですか?」
 思い付いて言ってみる。答えはない。何かされた形跡もない。一先ず安心した。ゆっくりと、家路を辿る為の歩行を再開する。
 …しかし、なんだったのだろう。
 空を見上げる。いつの間にか雲は流れ、星空になっていた。
 匡乃は歩きながら、ふと自分の足が無意識に汐耶のマンションへ向かっている事に気が付く。
 そう言えば同窓会ではあまり食べなかったので、小腹が空いている。匡乃はいつものように、そのまま妹のところへ足を運ぶ事にした。
 とりあえず、何か軽食をねだってみよう。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
小林珠吾 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年08月06日

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