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『笛と狩衣 』
御母衣・今朝美1662)&夏比古・雪之丞(1686)


 御母衣今朝美をまどろみから引き戻したのは、笛の音だった。
 彼はゆっくりと身体を起こして、思わず苦笑した。満月を描いていたのだ。今宵の月は大きくて、美しかった。きっと帝は一首詠みたくなるだろうし、自分に一枚描かせたがるだろう。帝が文を寄越す前に仕上げておけば、驚きと喜びが入り混じったあの顔を見ることが出来る。そんな帝の表情がたまらなく面白い。だから今朝美はここのところ、山から下りて都の内裏に出入りしているのだった。
 しかし今宵の満月は、描くのに少しばかり手間がかかってしまった。ようやく描き上がった満足感が、気だるい疲れを呼び起こし、今朝美はいつの間にやら眠ってしまっていたのである。
 しんしんと響き渡る虫の鳴き声をかきわけて、笛の音が今朝美のとがった耳に届けられたのは、もう満月も傾き始めた刻だった。
 笛の音は、往々にして寂しげなもの。しかし今朝美が聞いたその音色――どこか凛とし、気高く、風すら貫く鏑矢の如し。
 ――面白い奏で方をする。きっと奏者は、変わったお方だ。
 このように笛を奏でる者を、今朝美は知らない。帝は優雅一点張り、貴族たちは流行りの奏で方に左右されている。しかしこの満月の奏者は、我が道を貫いているようだ。誰が指摘をしても、きっとこの音色を曲げはしないだろう。
 会いたくなった。
 この笛の音を奏でている者に会いたい。
 しかし、ふらりと陰明門を出ようとしたところで、衛士にするどく呼びとめられてしまった。
「御母衣様、どちらへ」
「なに、あの笛の音の主とお会いしたくなりましてね」
「なりませぬ。都には恐ろしい妖が出ておりまする。この刻は特に危のう御座います」
「妖?」
「左様。妖狐でありまする」
 それに、と衛士は声を落とした。
「かの音色、拙者には、空恐ろしいものに聞こえます。……狐が奏でているのではありますまいか」
 笛の音が、止んだ。
 羅城門の方角から聞こえてきていた。
「それも、面白いですね」
 羅城門に住まうのは、鬼ばかりではなかったか。今朝美は微笑むと、衛士の言う通りに、その夜は内裏へと戻った。

「はあ、月詠みを」
 またか。
 そして、こんなときに。
 今朝美はうっすらと苦笑した。それはともすれば微笑とも読み取れるほどの、かすかな皮肉であった。
 昨夜の月があまりにも美しかったから、帝は今宵、歌会を開くことにしたのだという。今朝美は歌こそ詠まないが、月を描けと召致された。昨晩の月の絵はすでに帝に送ってある。帝はいたく気に入ったらしい。もっとほしいという純粋な願望が、今夜も今朝美に筆を取らせる。今朝美も好きでやっていることだから、それはそれで構わなかった。昨夜の絵が気に入らなかったわけではないのだから、尚更だ。
 しかし、
「月の出る刻、狐が出るとの話ですが」
「ああ」
 今朝美がほんの悪戯心で鎌を掛けてみると、使いの者は顔を曇らせた。彼もまた、妖狐を恐れているらしい。
「御心配には及びませぬ。すでに、腕の立つ衛士やもののふを集めておりますゆえ」
「そうですか」
 それでよいのかもしれない。人間をたくさん集めることで、人間が安心できるのならば。
 すでに、烏が山へと帰り始めている刻だった。月もじきに東から現れる。


 都の民は妖狐を恐れ、油に火も灯さずに、月が昇ると屋内へ閉じ篭もった。
 内裏にある数々の殿もその例には漏れなかったが、今宵、清涼院の庭先だけは明るく、華やかな音楽までもが奏でられていた。集められた貴族たちも妖の噂をひととき忘れて、帝とともに歌を詠む。ここだけがまるで別の時代の別の空間のよう。
 今朝美はそれを憐れむでもなく、蔑むでもなく、ただ優雅な囃子と歌を聴きながら、満月を描いていた。本当の満月は昨夜であったが、人間の目には今宵の月もまた丸く映っているだろう。今朝美は、わずかな欠けを見て取っていた。今朝美が描く月もまた、ほんのかすかに欠けていた。彼は丸くないものを丸く描く程度の絵師ではなかったからだ。しかし――あまりにかすかな欠けだから、きっと人間の目には、満月の絵としか映らない。
 ――しかし、本当に美しい月だ。
 これほどの月は、今度いつ昇るだろうか。
 いや、今度はもっと美しい月が昇るかもしれない。そう考えておこうと、今朝美は月を見上げて微笑んだ。
「……ん」
 今朝美の小さな声は、囃子と歌にかき消されてしまった。
 彼は、月がさっと翳るのを見たのである。

『ひゃあはは、帝、帝、うぬが人間を統べる者か。見つけたぞ、見つけたぞ、我はようやく見つけたぞ』

 囃子と歌は唐突に途切れた。貴族たちの多くは腰を抜かし、帝同様為す術もなく、闇からぬうと現れた狐を見上げた。
 見上げたのだ。
 狐は熊よりも大きかった。すでに狐とは呼べない大きさであったが、その太い尾、ぴんと立った耳、切り傷のように細い目は――紛れもなく、狐のものだ。その狐が狐とは呼べない由縁は、大きさだけではなかった。まるで夜空のように黒い毛並みだったのだ。ぬらりぬらりと黒く光る黒の中に、星のように白い小さな輝きが散りばめられていた。
 その、切り傷のごとく細い目が、こうも禍々しく紅い光を放っていなければ――
 美しい。
『ひひひひひ、我は忘れぬ。我らの森と原を切り開き、斯様な巣などを築きおって。一族は地を捨てたが、我は忘れぬ。怒りも怨嗟も天を焦がさんばかりよ。帝、うぬを喰ろうてやるぞ!』
 妖狐はカッと口を開いた。まるで炎のような赤が、そのあぎとの中にあった。
 帝はどちらかと言えば意気地の無い男ではなく、それなりの威厳を持ち合わせてはいたのだが、さすがにこの脅しは効いた。ひっ、と悲鳴を喉に詰まらせていた。

 そのとき――
 ひょう、と風を斬り、矢が飛んできた。
 まるでそれは流星のようであった。
 流星は黒い妖狐の右目に、まるで吸い込まれるようにして突き立った。獣じみた悲鳴を上げて飛び退く妖狐から、今朝美は素早く視線を移す。矢が飛んできた方向へと。
「おお! なんと!」
 今朝美の隣に居た衛士が後ずさった。
 矢が飛んできたその方向を見れば、そこには、狐がもう一匹佇んでいたからである。
 今朝美は一瞬、その狐に見とれた。
 その狐もまた、熊のように大きかった。しかし、今右目に矢を受けた黒狐とは、まるで対極にある姿だ。銀のような白い毛並みに、海や空の如く蒼い瞳を持っていた。黒い狐が夜空ならば、この白い狐は雪原か、月面か。
『おのれ、雪之丞! 白狐めが! 人間に組するか!』
『だまれ、勘違いをするな。私は――』
 今朝美の隣の衛士が、白い妖狐に向けて矢を放った。狐は確かに舌打ちをし、軽やかにその矢を避けた。
 黒い妖狐は唸り、素早く身を翻すと、陰明門の方角へ向かって逃げ出した。
『待て!』
 白い妖狐がそれを追う。
 今朝美は帝の無事を横目で認め、そのまま声もかけずに、青と白の狩衣のまま――二匹の狐を追いかけた。衛士の幾人かが、今朝美を呼び止めようと声を上げた。
 しかし、今朝美を誰も止めることは出来なかった。


 黒い狐は逃げた。
 逃げて逃げて、ついに都の外れの森に飛び込んだ。点々と血の跡を残していたし、大きな足跡もあったので、今朝美は容易に二匹を追うことが出来た。
 しかし、森に入られては――。
 黒い狐を征するつもりはなかった。
 ただ、あの白い狐に魅入られたのだ。ただそれだけの理由から、今朝美は妖の後を追ったのである。
『豪胆なのか、何も考えていないのか、どちらだろうな? 妖を追う人間が都に居たか――』
 森の前で立ち止まった今朝美に、不意に声がかけられた。
 がさがさと草木をかき分けて、白い妖狐が現れた。
 今朝美の瞳もまた、蒼だ。
 青い視線は束の間交じり合った。
『……さきの言葉を取り消そう。お前は人間ではないな』
「どうでしょうね」
 今朝美は微笑んだ。こうしていつも彼は、同じ質問をする者を煙に巻く。
『お前は足が遅い。奴に追いつきたいか』
「貴方とともに行きたいのです。ただそれだけですよ」
『どうやら、何も考えていない方だったようだ』
 白狐は、ただでさえ細い目をさらに細めて溜息をついた。どこか、愉快そうであった。
『ならば、私の背に乗れ。手伝ってもらおう』
「なにを?」
『奴を討つのだ。弓は使えるか?』
 白い狐はどこからか弓と矢筒を取り出し、今朝美の前に放り投げた。
 その矢は、黒い狐の右目をとらえたものと同じものだった。

 妖狐の大きさは、今朝美ひとりを乗せて楽々と森を走るほどであった。今朝美も、細身とはいえ成人した男性だ。その今朝美を羽根ほどにしか感じていないのか、妖狐は軽やかに、そして疾風のように森の中を駆け抜ける。
「なぜ、あの狐を討つのです? 貴方と同じ狐でしょう」
『同じ? 恐ろしいことを言うな。お前の目は節穴か? 色が真逆だというのに』
 白狐は迷惑そうに顔をしかめたが、声色は笑っていた。
『奴は、いろいろあって気がふれてしまった。ここのところ、都に降りて暴れ回っていた。放っておいてもよかったが、こうしてお前のように勘違いされてはたまらんからな』
「妖狐のすべてがヒトに仇名すわけではないと」
『そうだ、それを言いたい』
「しかし貴方は、けして帝や都のためにあの方を討つわけではないと」
『そうだ、それも言いたい』
 白い狐は、ついに我慢が出来なくなったという勢いで、からからと声を上げて笑った。今朝美はつられて微笑んだが、白狐がなぜ笑い出したのかわからなかった。
『面白い奴だ! 気に入ったぞ!』
 ざん、と小川を飛び越える。
『私は白狐神の血族、夏比古雪之丞!』
「私は御母衣今朝美。あの黒き妖狐の御命、貴方に代わり、頂戴致しましょう」

 樫の木すらも飛び越えて、
 白い狐は、ざしんと草むらに降り立った。
 樫の木の根元で、黒い狐が足を止める。
 赤い右目からは、炎のように血が溢れ――左目では、狂気と怒りの炎が揺らぐ。
 しかし、その目が白い狐と白い男を睨みつけたのは一瞬だった。
 今朝美はきりきりと弓を引き、びんと矢を放った。その細い腕から放たれたとは思えないほどの速さで、矢は飛んだ。
 どスっ、
 矢は、ものの見事に黒狐の眉間を射抜いた。
 どうっ、
 狂える妖狐が倒れたとき、地は揺らいだ。



 また、あの笛の音だ。
 美しい下弦の月の夜だった。
 今朝美はゆっくりと身体を起こし、いつかよりもずっと近くから聴こえる笛の音に、嬉しくなって微笑んだ。あの満月の夜と同じ――しんしんと響き渡る虫の鳴き声をかきわける笛の音が、今朝美からまどろみを奪ったのである。しかし、今朝美は少しもその音色が恨めしくはなかった。
 忘れようとしても忘れられそうにない音色。
 森の静けさを思い起こさせる旋律。
 演奏が止み、虫の声が戻ってきてから、今朝美は口を開いた。
「ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ」
 庭先から、応えがあった。
「――さきの満月の夜も、お吹きにはなりませんでしたか?」
「ああ」
 照れ隠しなのかどうか定かではないが、庭石に腰掛けた白い男が、笛をくるりくるりと回しながら答えた。
「月が美しかったからな。あの夜も、今宵も」
「そうですね」
「お前を起こそうとしたわけではない」
「それは残念」
「本気で言っているのか」
「どうでしょうね」
 今朝美はときに、狐すら煙に巻く。

 雪之丞は、笑って笛の吹き口に唇を寄せた。


(了)
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2003年07月29日

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