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『夢の花園 』
李・杳翠0707)&崗・鞠(0446)

 杳翠は人ではない。夢魔と呼ばれる存在だ。それは杳翠にとって何の違和感ももたらさないただの事実でしかない。
 彼にとって夢は糧であり、夢を見る存在――即ち人間――達は衣を取り替えるように次々と姿を変える奇妙なものであり、彼らを個としてみる事などなかった。
 彼が狙った夢を見る人間はその場限りの存在。彼らの発する悪夢への恐怖が極上のものであればある程価値はあったが、それだけだ。釣り人が良い漁場を見つけたのと同じ感覚でしかない。
 その日も杳翠はいつものように夢を渡り歩いていた。
(さて、今日はどないな悪夢を見てもらいましょか)
 それ以前に誰に見せるかも決めねばなるまい。しかしこれといった何かを見つける事なく杳翠はいくつもの夢を渡っていた。
 その時だ。何かの気配を捉えたのは。
(えらい闇の気配や……)
 これ程の強い闇の気は久々だ。悪夢を贈ればきっと極上の悲しみと恐怖を得られるだろう。そう思うと心が浮き立った。杳翠は闇の気配を求めて夢を渡った。


 それは漆黒の世界だった。いや、純白かもしれない。
 はっきりと言えるのはそこに何も存在しないという事だけだ。
(こないな夢は珍しなぁ。どこにいてはるんやろ?)
 杳翠は人の気配を探る。これは夢、ならばその夢を見ている意識がどこかにある筈だ。気配を求めてその空間をさ迷う杳翠の目に飛び込んだのは幼い娘だった。
(まるでややこさんや)
 ぽつねんと佇むのは黒い髪を長く伸ばした娘。齢は五つになろうかという頃だったが、杳翠はそんな幼い娘が何故こんな夢を見るのか理解に苦しんだ。子供はただ、佇んでいる。漆黒の瞳は虚空を眺めていた。目の前にいる杳翠を認識した様子は、ない。
「あんさん、お名前は?」
 答えは返らない。杳翠は仕方なく頬に触れる。心を覗き込む為に――。
(何もあらしません。このお人、ややこさんにすらある欲求も持ってはりません)
 赤ん坊にすらある筈の単純な感情の起伏すら見られないまっさらな心。それをなんと表現すればいいのか杳翠は思いつかなかった。まじまじと覗き込む杳翠に幼い娘は何の反応も返さない。記憶すらもどこかに置き忘れてきてしまったようなその子供の様子に途方にくれかけた杳翠は自分の目的を漸く思い出した。そう、彼はこの娘の悪夢から糧を得ようとしていた筈だったのに、それをすっかり忘れかけていたのだ。
 この年頃で怖い事は何かといえばやはり両親に捨てられる事だろうか?
 杳翠は幼い娘を覗き込み、追いすがっても去って行く両親を夢に綴る。
 杳翠の背後に一組の男女の影が現れた。彼らは口々にいう。
 ――もう、あなたなんかいらないの。
 ――お前なんか顔も見たくない!
 幼い娘の表情は揺らがない。影が遠く立ち去っても、彼女は眉一つ動かさず、追いすがろうと手を伸ばしもしなかった。
 今度は友達に変えてみる。しかし、結果は同じだ。
(手ごわいなぁ)
 今度はスタンダードな悪夢に切り替えてみる。得体の知れない何かが近付いてこようと、それが刃物を幼い娘に突き刺そうと、無数の虫が彼女を覆い尽くそうと、幼い娘は眉一つ動かさず、体もぴくりとも動かない。
 杳翠もやがて悟り始めた。何を見せようとも彼女が揺るがない事を。しかし、それを認めたくなくて杳翠は夜が明けるまで悪夢を見せ続けた。
(そないな筈あらしません。こんなちいちゃい子が何を見せても反応せぇへんなんて、おかしい)
 しかし夜が明ける頃には杳翠は悟っていた。彼女の中には何もない。そして虚無に何を与えても返るものはないのだという事を。幼い娘が何故そんな事になったのか。杳翠には判らなかった。何故なら彼女はその記憶すら虚無に明け渡していたのだから。


 その日から夜が来るたびに杳翠は自問自答を繰り返す羽目になる。
 無意識の内にあの幼い娘の下へ足を運びそうになるたびに己の心に杳翠は問い掛ける。
 ――なんで、うちがあの子の所にいかななりませんのん? あほらし、どこぞに行った方がよっぽどええんとちゃいます?
 答えは何故か見つからない。そのうちに杳翠は良い口実を見つけた。
 あの子に光を取り戻して、それから悪夢を見せればそれはきっと甘美な物になると――。
 杳翠はそうやって己の心に蓋をして、彼女の元に通いつめる事になる。


 杳翠は工夫を凝らした夢を幼い娘の為に綴る。
 星空や美しい海、色とりどりの花々。
 細心の注意を払って杳翠は夢を綴る。夢魔という本質からは大きく外れた暖かで美しい夢を――。
 どれほどの夢を贈った後だろうか? 変化が訪れたのは。
 それは春の花々が咲き誇る夢だった。立ち尽くす幼い娘に付き添うように座っていた杳翠は、彼女が跪くのを見て驚いた。
 彼女は蓮華の花を労わるようにそっと撫でていた。
「お花、好きどすか?」
 小さな頷きが返る。ややあってその小さな唇が開かれた。
「き……」
「き? ああ、ほんまに綺麗どすなあ」
 うん、とまた頷きが返る。杳翠は今までになく心が弾むのを感じながら、幼い少女にレンゲの小さな花束を手渡した。
「き……れ、い」
 途切れ途切れにそう言った娘に今度は杳翠が頷いてみせる。嬉しそうに彼女はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「あっちも見にいこか?」
 少女が頷く。杳翠は彼女の手をひいて歩きながら、ずっとたずねたかった事を口にした。
「あんさんのお名前、聞かせてもろてもえぇどすか?」
「ま……り……」
 戸惑うような時間を置いてたどたどしくそう名乗った娘に「鞠はん、どすか。良い名前やなぁ」と杳翠が嬉しげに頷く。鞠は杳翠の手を握って見上げた。杳翠が目を合わせるのを待って小さく頷く。
 それだけの事に心が浮き立つ自分に戸惑いながら杳翠はもう一度幼い娘の名前を呼ぶのだった。


 それからの鞠の回復はそれまでの停滞からすれば、早いと感じる程だった。
 杳翠は毎日鞠の眠りの訪れを待ち焦がれ、すぐに夢へと渡る。
 ――既に鞠に悪夢を見せる気は失せていたが、それには目をつぶって。
 鞠の向ける信頼の眼差しを裏切る事が出来ない程、杳翠の心は鞠に囚われていたのだ。


 視線を合わせる為に跪き、幼い鞠の目線に立って杳翠は問い掛ける。
「今日は何を見よか?」
「……おはな」
 鞠の言葉の続きを杳翠が待つと鞠が口を開く。
「れんげと、なのはな」
「じゃあ、春の野原にしましょか?」
 あっという間にそこは春の野原に変わっていた。鞠は花畑に座り込んで花を優しく撫でる。杳翠はそれを見守れる位置に小さな岩を作り出して腰掛けた。僅かばかりとは言え、感情を取り戻しつつある鞠はまだ人と接する事に慣れていない。あまりにあれこれ話し掛けると戸惑って黙り込んでしまうのだ。不安になれば鞠は杳翠の姿を視線で確認する。それを待つだけでいい。
 鞠は花に何事か囁きかけて――摘んでも良いか問うて――花を摘む。小鳥達がそんな鞠の側で歌うように囀っていた。
 鞠がレンゲの花束を抱えて立ち上がった。杳翠の方に歩み寄るとそっとそれを差し出す。杳翠は躊躇うと鞠がたどたどしくあげると口にする。
「うちに?」
「まえに……くれたの」
「ああ、おんなじ蓮華のお花どすなぁ」
「きれい……」
「ほんまに、こないに綺麗なのないなぁ」
 例え同じような蓮華の花でも、鞠が初めて自分から渡してくれたのだから特別なものだ。
 受け取って嬉しそうにする杳翠に鞠の唇が緩む。笑顔と言うにはあまりにもささやかな変化。だが、それは杳翠の心を躍らせた。
(もっとぎょうさん笑ろてくれたらええのに)
 きっと今よりももっと杳翠を嬉しくさせてくれるだろうに。
 ふと鞠がまじまじと杳翠を見上げた。首を傾げるとまっすぐに問い掛ける。
「なまえ……なぁに?」
「名前? うちの?」
 こくりと鞠が深く頷いた。
「李杳翠」
 それは、聞き慣れない音だったのだろう。鞠が首を傾げた。無理もない。それは日本ではなく彼の祖国――中国――での読み方だったのだから。『li−yaocui』という名前は鞠の周りではおそらく聞かない名前だったのだろう。杳翠は辛抱強くもう一度わかり易いようにゆっくりと発音した。鞠は首を傾げ、しばし考えてから彼の名前を呼んだ。
「……リョッチー?」
 いくらなんでもそれはあんまりと言うものだろう。杳翠は思わず腰掛けていた岩から滑り落ち、強かに岩に背中を打ちつけた。
(あいた)
 その衝撃に夢が崩れる。そして、さらに杳翠は背中を強かに打ちつける事になる。場所は鞠の寝室。ひっくり返ったままの姿勢で杳翠は固まっていた。唐突に鞠が身を起こした為だ。しっかりと鞠の視線が彼を捉えている。
(あかん。こないなとこ見られてもうた)
 どうしようと思う杳翠の耳に届いたのは、笑い声だった。今までにない笑顔で笑う鞠に杳翠は慌てて身を起こした。しかし今更取り繕ってみても何やらばつが悪い。
「鞠はん?」
 頷いたものの笑いが中々止まらないらしい鞠はしばしの間を置いて、彼の名前を呼んだ――それは相変わらず『リョッチー』だったが、杳翠は訂正しなかった。鞠が呼びたいように呼べばいい。そう思った。
 幼い鞠の無垢な笑顔が何やら素晴らしい宝物に見えてしまうのは何故だろうか。それは杳翠にはわからない。しかし、一つだけわかっている事がある。
(うちは鞠さんに悪夢を見せる事なんてできまへん。これからも優しい夢で守て、二度とあないな何もない状態には……)
 初めて会った時の、あの闇に紛れるような鞠を思い出せば今も尚胸が痛む。
 彼は夢魔だ。悪夢を人の心に贈り、悲しみと恐怖を喰らうものだ。しかし、杳翠には笑顔が与える心の温かさがひどく心地良かった。笑顔とは良い物だったのだ、とこの夢魔は初めて悟った。それを教えてくれたこの幼い娘をどうして今更虚無に、あの闇に返す事が出来ようか。
(うちが鞠はんを守るんどす)
 その決意は今に至るまで変わる事なく、杳翠の心に息づいている。


fin.
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
小夜曲 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年07月03日

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