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『lack passion 』
鷲見・千白0229)&日下部・敬司(0724)

 人が流れていく。
 時と同じように、確かな速度で行き過ぎる人々から外れて一人、鷲見千白は手にしていた文庫本の最後、書籍紹介の頁までも丁寧に目を通して漸く顔を上げた。
 体重を預けていた壁から背をほんの少しだけ浮かし、人混みを見渡す。
「……誘ったのは敬司さんの筈なんだけどなあ」
文庫本の背の角を唇にあてる…と、紅色が移るのに慌てて離すが、髪に一度ついてしまった赤は指で擦っても取れようはずがない。
 指の腹に擦れて肌の色に溶けるそれに、慣れない口紅を拭い取りたい衝動に駆られるが、慣れなさならヒールもスカートもそれに張る。
 基調は黒に、彩りは口紅と色を合わせたアクセサリーで重過ぎないように。
 吐息に、それだけはいつもの腕時計を見る……待ち合わせは7時、けれど長針は既に180度、進んでいる。
 こんな事なら、いつもの男物のスーツで良かった。
 更に言えば、わざわざ外で待ち合わせなくても、どうせ同じ屋根の下に住む身なのだから、事務所兼自宅の我が家でよく冷えたビールで乾杯、でも充分だったろうに。
 何故、いつもと違う誘いに乗ってしまったのだろう。
「馬鹿みたい……」
いつも目にかかる髪を掻き上げる仕草…をしようとして、髪にも丁寧にブローを入れていたのを思い出して止まる。
「……馬鹿みたい」
何の為の…誰の為の装いか、判らなくなる。
 千白は独言を繰り返すと、もう一度人混みに目をやった。
 姿を見せない待ち人の姿を求め続けるのは、疲れる。
 知らず漏れた吐息に物憂く、千白はもう一度時計を見た。


 その頃。
「助けて下さい、敬司さん〜〜〜ッ」
千白を待たせたまま日下部敬司が何をしていかというと、男に抱き…もとい、泣き付かれていた。
 約束の刻よりも間があり、アトラス編集部の近くに寄ったついで、礼も兼ねて麗香の顔でも見て行こうとしたのが間違いだった。
 肝心の編集長は不在、その折に発生していた問題に編集員が対応出来ずにてんやわんやしている場に間も悪く顔を出してしまった、その次第だ。
「僕…僕もうどうしたらいいか…ッ!」
すがりつかれてえぅえぅ泣かれて、敬司が見捨てられよう筈もなく。
 取材先でのカメラマンの急病で入院し、次号に使う写真が届かないらしい…そこにのこのこと現れたのが敬司、というワケだ。
「お願いします…ッ企画に穴を開けるワケにはいかないんです、その点、敬司さんなら語学にも堪能だし、度胸あるし生水飲んでも平気そうだし…ッ!」
依頼している編集員自体の混乱も目に見えるようだ。
「行けと言われりゃ行かなくもねぇが…語学に生水?ちょっとまて場所は何処だ」
「今すぐロンドン……」
「ミステリーツアーの取材よ」
その時、続く言葉を奪って姿を現したのは、碇麗香…彼等にとっては鬼編集長だが、今は後光さえ差して見えた。
 麗香はカツカツとヒールの踵を鳴らし、コートを肩から滑り落としながら現状把握の問いを重ねる。
「日下部、今夜の予定は?」
「人との………約束が」
軽く持ち上げた眼鏡が蛍光灯の光を反射して、白々と光る迫力に圧され、思わず口籠もる。
「そう」
軽く頷いた麗香が次に当然の如く「キャンセルして」と続けるかと、場の全員が予想した…が。
「また一人イギリスに送れる程、予算をかけられないわ。現地のカメラマンに当たってみて、複数人であたりましょ」
「でも、詳細は行ったヤツが一番調べ……」
「電話でも仕事の指示は可能でしょう?私がバックアップするから、すぐに同じ資料を揃えて頂戴。で、病状はどうなの……牡蠣にあたった?仕方ないわねぇ、食中毒はツライものね」
いつもならとんだ罵倒が飛び出しそうなものだが、今日の麗香は一味違った。菩薩の如き微笑みを浮かべる。
「切られたくなきゃ仕事しろ、って電話しといて♪」
空気が凍り付く…アトラスに冷房要らず、という社内標語が生きる瞬間だ。
「足を止めて悪かったわね、日下部……彼女によろしく」
ヒラヒラと片手を振る麗香…人、と言っただけで女性とは一言も言っていないというのに、勘の良さに内心舌を巻き、そして感謝を覚えながら、敬司はその場を辞した。


 果たして、千白がまだ待っていてくれているかどうかは判らないが、それでも敬司は走らずに入れなかった。
 約束の時間に大幅に遅れている…ざっと見回した駅前の広場、求める高さに人の顔はない。
 落胆に途端、乱れた呼吸が堪えて膝に手を突く。
「歳は取りたくねぇなぁ……」
年齢のせいにして、額に滲んだ汗を拭い…かけて下がった視界に妙なモノが目に入った。
 積み上げた上製本を椅子の如くに腰をかけ。
 目まぐるしいスピードで頁を繰る、千白の姿が其処にあった。
「遅くなってすまな……」
「大型書店には置いてなかったの、コレ」
敬司の謝罪を遮り、本から目も上げずに千白。
「取り寄せようかと思ってたんだけど。町の本屋も侮れないと思わない?」
眼鏡がない為、読みにくいのか…眇めた目が、座っているように見える。
「じゃ行きましょうか。お酒呑みに。早く帰って続きを読みたいから」
会話の流れはごく普通…怒ってはいないようにも見えるが、敬司にはそれは謝罪すら受けるつもりがないという意思表示と判り、弱り切るしかなかった。


 場所だけは聞いていが、敬司も実際に訪れるのは初めてである。
 『此花』という店の入り口に店名を示すような物はなく、開店を示すのは入り口付近にオブジェのように置かれた切り株の上の活け花で常連は開店を知るという、隠れ家めいた店だ。
 紺天を思わせて瑠璃に金の粉を散らした花器に、時節に鮮やかに目を引く若葉の枝が、一見無造作に、けれど自然の内にあったように見事に調和する様、それだけで店の気風が見える。
 照明を押さえられた店内は和風で、古木の風情をなくすことなく磨き上げられたカウンターが印象に強い。
 柔らかく香りをしみ込ませたお手ふきに遠慮がちな煙草の香が混じって、居心地がいい。
 けれど敬司と千白はカウンターの中央付近で、居心地の悪い沈黙を保っていた。
 しかも並んで座っているのではない…敬司の左の席にはカメラが鎮座し、千白の右には書籍が積まれて実質、二席分、間が開いている。
「煙草、吸ってもいいか?」
「家ではいつも断らないのに?」
距離に更に遠い会話のせめて切り口を探すが、度にばっさりと切り落とされて後も残らない…先からこんな調子で話が繋がらない。
 煙草を銜えたはいいが、火を点ける気になれず、愛用のジッポライターをカチカチと開け閉めて炎を生んでは消すのみだ。
「吸わないの?」
会話がないに応じて、杯を重ねる量は増えている。
カウンターの向こう、初老のバーテンダーが千白が思いつくままに頼むカクテルを鮮やかな手さばきと無口さで穏やかに応じる。
 千白は僅かに上気した頬で、ちら、と敬司の前でグラスに汗をかかせたマティーニに目をやった。
「呑まないの?」
マティーニが敬司の心情を代弁してか、つぅ、と結んだ露滑らせる。
 先から謝罪を受け入れてもらうにどうすればいいかに頭を悩ませているのだが…弁明も言い訳すらも聞く耳を持たない、とばかりにかわされ続けるに、手札が尽きかけていた。
 千白が拗ねる…と評せば怒るだろうが、子供っぽいような感情を晒すのはそうなく、厄介な…と辟易する反面、思わぬ女性らしさを垣間見るに可愛くも、思ってしまう。
「……お取り替えしましょう」
応答に窮してグラスを取ろうとするが、穏やかにすいと机上を滑るようにバーテンダーに引かれて動作が宙に浮いた。
「お嬢さんは、随分とカクテルにお詳しいようだ」
千白に向けられたお嬢さん…との呼称に敬司はなんとも言えぬ表情を浮かべかけるが、煙草のフィルターを噛んで誤魔化す。
 多少、とうが立っていなくもない気がするが…白髪のバーテンダーにすれば、20代など孫の位か、と無理矢理に納得する。
 それに目敏い一瞥を投げ、千白は真っ直ぐに老バーテンダーに向き直った。
「本で読んだだけっていうのも多いけど。さっきから初めて呑むのも多いし」
あまりレシピの流通していないマイナーなカクテルまで、難なく出てくるのに千白も素直な驚きを軽い賞賛の拍手に変えた。
「恐れ入ります」
目を細めて嬉しげに、謝意に頭を垂れた老バーテンダーは、加齢に丸い笑みを浮かべた。
「これも御縁と、まだこの世に出た事のない一品を饗させて頂いてもよろしゅうございますかな?」
敬司の前に新しいマティーニを据えながら、千白と続く会話に少し置いてけぼりな敬司は、心寂しく口に湿ってしまった煙草を折ると、グラスまでもよく冷えたカクテルを口に運ぶ。
「オリジナル・レシピの試飲?喜んで」
千白の快諾に老バーテンダーは客の目線から手元を隠す位置での手早い作業に、そのカクテルは千白の前に置かれた。
 細長いグラスに満たされた液体は乳白色と紅色の二層に別れ、黒文字を通した桜桃がグラスの縁を支えに添えられる。
「キレイなモンだ。なんて名のカクテルに?」
敬司の感嘆に老バーテンダーは目元を綻ばせた。
「それは是非お客様に……と申し上げたい所なのですが、コレは名から先に生まれたカクテルでして。お時間がよろしければ由来などをお話しても?」
千白も敬司も否やない。それでは、年寄りの長話に少々お付き合い頂きますとして、と老バーテンダーは律儀に前置いた。
「桜、で染料に使う際、どの時期が一番適しているかご存知でしょうか?」
「桜を…?花を使うのなら、春なんじゃねぇか」
敬司が首を傾げるが、それを否定したのは千白だ。
「残念、ハズレ。冬の終わりに樹皮を削って煮出した液を使うの」
「お流石です」
千白の答えに深く頷き、バーテンダーは続ける。
「蕾をつける前、花が咲く前…春に咲く為だけに、内に秘めた色が最も濃い。本日、馴染みの方に写真を頂いたのですが、そんな話がとても好きだったのを思い出しまして」
言って、二人の背後の壁が示されるに振り向くと、壁にかかる一枚の…墨絵のようなパネル。
 全体の暗さに闇で塗られたような木…幹から上部に分かれ伸びる枝先に花弁の一枚一枚がゆらめく纏った陽炎に輪郭をぼかし宿る様に樹種を知る…桜だ。
 如何なる技法で撮られた物か、木が花が、燃えるように苛烈でいて静かなる一瞬に息を呑む、魅きつけられる。
「人の奥底にある想いもそれと変わらぬと、歳を経ると特にそう思います」
言葉のない二人が互いに顔を合わせるのに、老バーテンダーは少し笑むと、千白の前のグラスにマドラーをそっと入れてくるりと回した。
 その動作だけで、カクテルは一瞬で淡い桜色に変じる。
「これは冬の内に秘めた熱……『fires of passion』と、写真を頂いた方から一緒に名も頂きました」
敬司が派手に咳き込んだ。
「……美味しい」
千白は生まれたばかりのカクテルを一口呑むとそう笑んで、カウンターの置かれたままの敬司の煙草に手を伸ばした。
「禁煙してるんじゃないのか?」
咳に涙目に…そしてさほど呑んでもなく弱くもない敬司が頬を朱に染めるのに、千白は軽く眉を上げた。
「してる」
常に禁煙パイポを携帯する彼女が、実際に煙草を口にする様を見るのは久しぶりだ…ついでにライターも奪われ、爆ぜた炎が生み出す柔らかな色彩に、千白の肌がふと熱を帯びたような錯覚を覚えさせた。
 煙を吸い込み、吐き出す…少し綻んで細められた目元、視線が敬司にちらと向けられる。
「はい」
声に、指の間に煙草を挟んだで口許を覆われるのに、半ば反射でフィルターを銜えた…少し寄り目に見た煙草の吸い口に移った紅は、千白の今日の口紅の色と同じ。
「敬司さんが撮った写真だよね?あの、桜」
千白がようやく、真っ直ぐに敬司の目を見た。
「キレイだね」
そして笑む。
「……言うのが、遅くなったが」
ようやく消えたぎこちなさに、敬司は安堵に肩の力を抜く。
「遅れて、すまなかった……それから、とても、よく似合ってる」
そう煙草を指に挟んで、移った紅を掲げてみせた。
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東京怪談
2003年06月28日

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