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『名状し難き運命 』
星間・信人0377)&武神・一樹(0173)


 風すらひっそりと眠りについているかのような夜だった。
 星間信人の自室は明るい。
 彼は手の甲の印を隠す白手袋を外すことも忘れて読書に没頭している。よくあることだ。読んでいる本は、ページが黄変しぼろぼろになった古書だった。その古書は、かすかな屍骸の匂いを振り撒いていた。人皮で装丁されているからだ。
 ふと、彼は顔を上げた。風の無い夜であったはずだが、確かに、カタリと戸が揺れたことを感じ取ったのだ。
 信人は古書を閉じると玄関に向かった。すでに気配はなかった。代わりに、一通の封書が落ちている。毒々しい山吹色の封筒で、蝋の封印が成されていた。刻印は、信人の手の甲にある印とまったく同じ。
 彼がひそかに籍を置く教団からのものである。名すら呼べない神を信ずる同志たちだ。顔を合わせることは稀だが、こうして連絡を取り合うことはしばしばである。特に、最近は多くなってきているような気がした。
 信人たちがひそかに、しかし全身全霊を以って信じている神は、風である。水の神と敵対しているとされている――少なくとも、数々の言い伝えではそうだ。信人もまたそれを信じている。だからこそ、水の神やその信徒どもが動きを見せると、すぐにその目的の妨害をすべく行動を起こすのである。
 今夜の知らせも、その手のものであった。
 ふふ、と信人は嘲笑し、すぐに支度を始めた。


『ふんぐルい むぐるウなふ くするう るるいえ うがふなグる ふタぐん いあ! イア! くすルう! イア!』
 パチリ、
 依頼人は震える指で、カセットデッキの停止ボタンを押した。
 武神一樹は、その呪わしい文句が途切れたあとも、しばらく黙って顎を撫でていた。
 今日の骨董品屋『櫻月堂』はすでに暖簾を下ろしている。店主が重大な事件に関わろうとしているからだ。彼は今夜も、防人としてこの世を救う。
 依頼人は茨城の海辺の静かな町に最近越したのだが、夜な夜な気味の悪い足音や呪詛じみた言葉を垂れ流す声に悩まされていた。声と足音は夜毎激しくなっていく一方だという。依頼人は、その音声を録音した。それが、さきのテープの音だ。
 恐ろしくなった依頼人は、色々とその土地について調べた。彼が買った家の前の持ち主は、奇怪な風貌の男ということで有名だったらしい。一度見たら忘れられない、蛙のような外見だったそうだ。だが、半年前に姿を消した。
 そしてついに今日の朝、飼っていた猫が裏庭で死んでいるのを見つけてしまった。猫には頭と脚がなく、腹は破られ、内臓はなくなっていた。猫の屍骸の周りには、水かきのついた足跡が残っていた。
 一樹はことの重大さに改めて考えを巡らせる。どうすべきか。――いや、それはすでに答えが出ている。
「……い、一体、何なんです?」
 怯える依頼人に、一樹は無難な答えを返した。
「知らないほうがいいな」


 日本にも水神というものは存在している。それを信仰するものも然りだ。
 しかし、神というのも実に様々。今回の件もその神々のうちの一柱が絡んでいるのは確かだが、ここ日本ではその神の噂をあまり聞かなかった。星間信人にとっては、願ってもないことである――
 それでも、日本という国は、所詮は海に浮かぶ島なのだ。
 水と海が喰らい忘れたに過ぎない地なのだ。今までこの国が生き長らえていられるのは、こんな島を喰っても腹の足しにもならないことを、神々が知っているおかげなのである。
 黄の知らせに従うままに、信人は茨城の閑静な町に来ていた。
 潮と磯の匂いがする。
 その手の甲に印が宿る前までは、何とも思うことのなかった匂いだった。匂いではなく、香りとしてとらえることが出来ていた。しかし今は――すん、と一度吸い込むだけで、吐き気さえ覚えるほどの嫌悪感を抱いてしまう。
 風の神の使徒がやってきたことを察したのか、海は時化ていた。風と海とは、ぶつかり合っている。びょうびょうと風は吹き荒び、どうどうと波は風を呑みこむ。
 海を望むその家まで、忌むべき臭いを発している、いくつもの足跡が続いていた。信人は眼鏡を直し、その足跡を検める。……間違いない。じっとりと湿ったその足跡は、水かきを持った生物のものだ。
 足跡を避けつつも、足跡を追って、信人は海辺の家に近づいた。
 しかし信人はぞくぞくしたものを感じていた。冷たい風が引き起こす悪寒ではない。恐怖心でもない。悦びである。自分は今宵もまたひとつ、名も呼べぬ神の為に事を成す。己が敗れることなどついぞ考えていなかった。自分には、神がついているのだから。

 家は無人のようだった。日は沈んでいるが、世間はまだ家族の団欒を楽しんでいる時間帯だ。にも関わらず、その家の明かりは灯っていなかった。
 玄関のノブに手をかけようとして、信人は弾かれたようにその手を引っ込めた。月明かりが教えてくれたのだ。ノブはべっとりじっとりと濡れていることを。
 水のものの痕跡に手を触れるなど、考えただけでもぞっとする。
「……不潔ですね」
 やつらは自分たちの跡を拭き取ることを考えない。
 信人は玄関から距離を取ると、すうと手をかざした。
 途端、暴風が牙を剥いた。
 ドアが風にもぎ取られた。

 ふしゅるるるるう、
 耳障りな気配がぴくりと動く。

(にんげんがひとりいる)
(やぬしか)
(ちがうようだ。かぜをみかたにつけている)
(おまえは、うきぼりをみつけだせ。おれがかたづける)

 がはあっ、と彼なりの叫び声を上げ、その亜人はドアを失った玄関から飛び出した。
「知恵が魚類で止まっているようですね」
 その冷徹な声は、かれの頭上から降り注いできた。
 がはあっ、再び叫びながら、誰もいない(しかし、気配はする)外に飛び出した男は――曇る空を見上げた。眼鏡をかけた小柄な男が、浮いていた。風を味方につけているのだ。
 その男が、白手袋を嵌めた手をかざした。
 余裕だった。これを見届けよ、とでも言うように。


『我が声途絶えることも無し! 我が魂の歌途絶えることも無し!
 謳われることなく滅ぶべきは、我が神/我の御前に座するものども!
 涙流されぬままに涸れ果てよ!
 かの地かの星かのカルコサの如く!』


 異形の祈祷を、武神一樹は聞いた。
「……なんだ?!」
 これまで様々な祈りや呪詛や言霊を耳にしてきた一樹だったが、その祈祷は始めて聞くものだった。いや――辛うじて、『カルコサ』という名詞だけは聞いたことがある。
 今回の事件に関わる、ある世界のもの。人間が行ってはならない領域。
 だが今の声は、確かに人間のものだった。
 一樹は走った。


 神の風を浴びた魚人が、おぞましい悲鳴を上げながら腐り落ちていく。
 鱗を持つゴム状の皮膚が泡立ち、たちまち弾けて膿を垂れ流す。皮膚が残らず腐り果てると、魚の臭いのする肉がどろりと溶けて流れ落ちた。その頃には耳障りな――ちちよ、ちちよ、だごん、くとぅるう、ちちよ、たすけ――悲鳴も止んだ。
 信人は音もなく地面に降り立つ。
 ふう、と満足の溜息をついた。しゅうしゅうと煙を上げている腐った骨を見下ろしていた、そのとき――
「後ろだ!」
 矢のように鋭い声に導かれ、信人は振り返りざまに左手をかざした。
 白手袋は、さきの力を振るったときに、風の力で魚人もろとも腐り落ちていた。
 祈祷文を唱える余裕がなかったために、咄嗟の力には制限がついた。背後から襲ってきた魚人は、腐ることはなく、ただ風に吹き飛ばされただけであった。それでも、突風には違いない。魚人は宙を舞い、家の壁に叩きつけられ、長々と砂利の上にのびた。


「やあ、助かりましたよ」
 信人はにこにこと微笑みを浮かべ、一樹に礼を言った。
 自然な流れではあるが、その取り繕った偽りを、一樹は容易く見破った。だが魚人を敵と見なしているということは――少なくとも、一樹の敵ではない。いまこの場においては。
「あんたは……この家に何が起きたか、知っているのか」
「さわり程度ですが」
「……それくらいの力があるなら、心配はなさそうだな」
 一樹は信人の足元の黒い骨を見やり、呟いた。笑って言いたいところではあったが、その余裕はない。顎を撫でながら、暗い思いを巡らせる。
 信人もまた、和服のこの男に並ならぬ『気』のようなものを感じ、彼は逆に微笑んだ。凡愚ならば、信人の風や足元の骨を見たところで、「それは何だ」と問うはずだ。
 かたり、
 家の中で音がした。
 ふたりは同時に、ドアを失った家を見る。
「まだ居るらしいな」
「家ごと始末しましょうか」
「それはこまる。この家を買った人間から依頼を受けてるんでな。……ドアが壊れただけでも問題なんだ」
「ふむ」
「よし」
 一樹は顎から手を離した。
「俺が囮になろう。勝手口があるらしいから、そこから入って玄関から出てくる」
「それは助かります」
「俺を吹き飛ばさないでくれよ」
「ご心配なく」
 信人は微笑んだ。一樹の目には、偽りどころか、狂気さえ孕んだ笑みに見えた。一樹は早々に信人のその笑顔から目を背け、家の裏手にまわった。
 ふたりは、まだ名乗り合うこともないままに、協力することになった。
 それはお互いが持つ並ならぬ力と気が、お互いをある意味で認め合ったからである。


 依頼人から借り受けた鍵束を取り出す。
 玄関の鍵は使いどころがなくなってしまった。
 一樹はどう言い訳をしたものかと考えながら、勝手口の鍵を開け、中に入った。むっとする魚と澱みの臭いに、思わず一樹は鼻と口を押さえる。
 床は強烈な匂いのする水で濡れていた。
 やつらは何かを探していたようだ。ひどく荒らされている。
 ぎるるるるる、
 そう広くはない家だった。魚人のひとりは、居間で唸り声を上げていた。丸い大きな目が、ぎらぎらと光り輝いている。瞼がないために、その光が途切れることはない。
 一樹は鍵束をぢゃらりと鳴らすと、物も言わずに走った。
 がはっ、
 魚人はどたどたと追いかけてきた。やつらはひどく残忍だ。年中腹を空かせてもいる。動くものを見れば、仲間でない限り何にでも襲いかかる。
 蛙のように跳躍し、魚の臭いを撒き散らせ、魚人は一樹に爪の一撃をお見舞いした。
 一樹はふわりとそれを避けると、再び走り出す。
 魚人が何か抱えていたのを認める余裕さえあった。
 一樹はやはり無言で、ドアを失った玄関から飛び出した。
 一拍置いて、魚人が――

 飛び出すと同時に、横に吹き飛んだ。今度は、吹き飛ぶだけでは済まされなかった。
 黄の風を浴びた魚人は、耳を塞ぎたくなるような祈りと絶叫を上げながら、腐り、溶け、黒ずんだ骨となり――砂利の中に沈んだ。
 だが、骨とともに転がったものがあった。古びた一枚の木のレリーフだ。
 一樹が手に取ろうとするより先に、信人が手を伸ばした。まるで奪うようにしてレリーフを手中にすると、彼はそれを山吹色の布に包んだ。
 一樹は見た。
 レリーフを拾い上げた信人の手の甲に、禍禍しいかたちの印があるのを。
 そして、さきほど風に吹き飛ばされて気を失った魚人もまた、その位置で骨になっていたのを。


 何事もなかったかのように、信人はまたしてもあの歪んだ笑みを一樹に向ける。
「……本当に、助かりました。ええと――」
「武神一樹。……骨董品屋だ」
「ああ、失礼。星間信人と申します。図書館司書です」
 それぞれの職業に、嘘偽りはない。だがそれは、信人の笑顔のように上辺に過ぎないのだ。それはお互いに、語る必要がないことを知っていた。
「武神さん、本当に助かりました。またお会いできますか」
 神の風が言っている。この男は油断ならぬと。
「……ああ、会えるかもな。しかし……あまり深入りはするな」
 もう、手遅れだと知っている。あの印こそ、その証。
「ふふ」
 信人が笑った。その笑みは、比較的まともな笑みだった。感情がこもっていたのだ。
「そのときも、お力を借りる立場であることを祈りましょう――神にね」
 荒れていた海は、鎮まりかえっていた。だが、風は強い。一樹の和服と髪とは、ばたばたと弄ばれていた。
 信人だけは、その風の中にいなかった。

 星間信人は音もなく立ち去った。武神一樹は、しばらく海辺の家の前にいた。
 黒い三つの骨が、さらさらと風に溶けていく。
「まったく俺は、まともなやつと知り合えないのか?」
 物の怪に、術者、神の使徒。一樹がこれまでに積み重ねてきた出会いは偶然なのだろうか、それとも必然なのか。少なくとも、信人の神の導きだとは思いたくない。
 彼はようやく微笑んだが、それはひどく自嘲的なものだった。


(了)

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2003年06月24日

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