▼作品詳細検索▼  →クリエイター検索


『スノー・グローブの日常』
綾和泉・汐耶1449)&綾和泉・匡乃(1537)
-----------------------------------
あの日を境に、何が変わったわけでもなかった。
兄が火をつけたはずもなく、汐耶の本は今も大事に保管されている。
ありえるはずがないのだと分かっていても、汐耶は時折、本を取り出してその無事を確かめるクセがついた。
本の重みを手のひらに感じるたびに思い出すのは、あの靄の中、これ見よがしに彼女の本に火をつけた青年のことだ。確かめたその顔が兄のそれとすり変わるまで、そこには確かに汐耶の知らない男がいた。知性を感じさせるその声もまだ記憶に新しく、彼が見せた幻は今でも汐耶を憤然とさせる。同時に、幻の名残を引きずっている自分に気づいて余計苛立った。
夢の残滓を拭いきれず、汐耶はあの青年の真意を考え続けてせっかくの休日を潰している。
彼女の思考をさえぎったのは、玄関で鳴ったインターコムの呼び出し音だった。すぐに反応しかねて手間取っていると、間を置いてもう一回。椅子から立ち上がって、汐耶は早足でドアに向かった。
「……はい」
「僕だ」
ノイズ交じりのスピーカーから流れるのは、聞き慣れた声である。汐耶がドアを開けると、来客は長身を屈めるようにして汐耶のマンションの扉を潜った。綾和泉匡乃(あやいずみ・きょうの)。4つ年上の、汐耶の兄である。
「ちょっと足が向いたんだ。元気にしていたか?」
「来るなら前もって連絡をくれって、いつも言ってるでしょう」
勝手知ったる様子でソファに腰掛けた兄にため息を投げる。匡乃が汐耶を訪ねてくるのはいつも突然で、部屋に上がりこんだら食事をするまで帰らない。そのくせ、材料が足りなくて手を抜こうものなら執念深く覚えていて、それこそ一年でも恨みを忘れないのだから困った兄である。
外食ばかりだと家庭料理が恋しくなると匡乃は嘆くが、27にして未だに手料理を食べさせてくれる女性が現れない兄を持ったわが身をこそ、嘆きたいと思う汐耶だった。
「肉じゃがでいい?」
「たいへん結構」
兄は足を伸ばしてくつろいでいる。その背中をちらりと眺めて、汐耶は今朝からずっと纏まらなかった思考を頭から追い出した。
靄の中で見せ付けられた幻は、本人を前にしてしまえばあまりにも馬鹿げている。今回ばかりは兄の気まぐれに感謝しながら、汐耶は下ごしらえを始めるのだった。

「仕事はどう?」
「悪くないね。僕の指導で子どもたちの成績が上がるのは気持ちがいい」
夕食を済ませて向かい合った兄妹は、とりとめのない会話を交わして食後の一時を満喫する。彼が指導している塾の生徒の話をする時、匡乃の表情は楽しげだ。
匡乃は近年の学校の学習過程を論じ、塾のあり方を語り、使われている学習教材の問題点を指摘する。それから、思い立ったように汐耶に水を向けた。
「それで、そっちはどうだ?」
「どうって、何も変わらない。いつもどおりだよ」
数日前に経験した不思議な体験の事がちらりと脳裏を掠めたが、汐耶は頭を振ってその記憶を脇に追いやる。そんな汐耶の顔を眺めて、匡乃は口元に小さく笑みを閃かせた。
「何かが引っかかっているような顔をしているぞ」
指摘されて、返答に窮した。見ていないようでいて、兄はしっかり汐耶のわだかまりを察知していたらしい。
「よくわかるわね」
「伊達に教師をやってない。見直したか?」
「……食後のデザートを出してもいいかと思う程度には」
汐耶の返答に兄は笑い、紅茶もいれてくれ、と付け足した。

汐耶から紅茶のカップを受け取り、湯気の立つそれを一口飲んで、匡乃は満足そうに椅子に座りなおした。
「それで、どうしたんだ。お前にしては珍しいな」
カップを弄びながら匡乃が切り出す。頭を整理するための間を置いて、汐耶は兄にゴーストネットでの体験を話して聞かせた。妹が話す間、匡乃は手のひらでカップを包み込んで話に耳を傾けている。
幻の中で本が燃やされたくだりには僅かに眉を顰めたが、匡乃は余計な相槌も挟まず、頷くだけで汐耶の話を聞きおえた。
「どう思う?」
椅子の背に凭れて顎を撫で、匡乃は少し間を置いた。
「コンピューターの前に座っていて、突然異世界に飛ばされるなんてことはありえないよ」
言い切っておいて、考え深げな顔をする。兄の言葉がまだ続きそうだったので、汐耶は口を挟まずに待った。
「まあ…しかし、催眠にかけられて妙な体験をしたというのなら、まだ納得できる」
「どういうこと?」
「面倒だから説明は省くが、モニターの前で、お前は非常に催眠暗示にかかりやすい状態だったということだ」
催眠にかけられた状態なら、指が勝手に動いて汐耶にしか知りえない情報を打ち込んだのも頷ける。そうやって汐耶に関する情報を得、それを元に相手は彼女に幻を見せたのだ。
紅茶の紅い色に視線を落として、汐耶はため息を吐く。
汐耶が幻の中で見た青年。あれが「アキラ」だと、ナミという名の少女は言った。この手の込んだ幻は、恐らくアキラが作り上げたものなのだろう。ナミはアキラのことを気にかけていたが、汐耶には彼女がアキラにこだわる理由がわからない。汐耶は、アキラの幻によって不快な気分と衝撃を味わった。好意を持てというほうが無理な注文である。
「兄さん」
「なんだ?」
「そうして人の弱みを曝け出すことに、なにか意味があったのかしら」
この問いに匡乃は苦笑し、すっかり温くなってしまった紅茶に口をつけた。
「まあ、そういう事に快楽を覚える人間も、世の中にはいるかもしれないな」
「アキラという青年が、そういう人物だと思う?」
明快な答えはすぐには返らず、やや間があってから兄は呟いた。
「……何かを試しているような印象は受けた」
「そう」
それは汐耶も感じていた感覚だったので、一つ頭を振ってため息を吐く。
汐耶が中々夢の余韻から抜け出せないのは、このせいだ。
人を傷つけて喜ぶ快楽犯なら、気分は悪くてもここまで事件を引きずらなかったと思う。
問題は、アキラの意図だ。人の不幸を喜んだり、懊悩をあざ笑ったりするのではない、もっと冷静な視線。
汐耶の行動の一つ一つが研究対象にでもなっているようで落ち着かなかった。あの世界から抜け出した後も汐耶に付きまとい、それが彼女にあの夢のことを忘れさせない。
「自覚あるモルモットってこんな気分なのかしら」
常に研究の対象になっているような気がする。
汐耶があの事件をきっかけに本を気にするようになることも、アキラは予測していたのかもしれない。心配になって本を取り出し、その無事を確かめるたびに、アキラの思うとおりに操られているような気分になって落ち着かないのだ。
考え込んだ汐耶の懸念を打ち壊すように匡乃は笑い、冷えた紅茶を一息に飲み干した。
「なんにしろ、電脳世界は日常生活に侵入してはこない。その夢から覚めたお前は、もう気を揉まずに今まで通りの日常を繰り返せばいい」
「……そうね」
頷いた汐耶を振り返って、匡乃は空になったカップを揺らした。
「紅茶をもう一杯。今度は熱いのが飲みたい」
兄の依頼を遂行すべく立ち上がりながら、汐耶はようやく燻っていた気持ちに区切りをつけた。
今はもう、後味の悪い夢の名残に悩むのはやめよう。
いずれまた「アキラ」と関わる日が来るとしても、夢はもう醒めたのだ。
兄はソファの上で足を伸ばしている。
改めて、夢の中で本を燃やす兄などありえない、と気が付いた。
「もう少し早く兄さんに会っておけばよかったわ」
「なんなら明日の夕飯も一緒にいてやろうか」
のんびりと返ってくる返事を聞いて、汐耶は笑う。明日も夕食にありつこうと企む兄と軽口を交わす今ならば、確かにあれは悪い夢だったのだと、実感できた。

それからしばらくの間、思いついては本を手に取る汐耶の習慣は変わらなかったが、次第にその回数は減っていった。今では汐耶の本は前と同じように、滅多に取り出されることもなく、部屋の隅にひっそりと保管されている。


→ --- ←
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
在原飛鳥 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年06月17日

投票はログイン後にできます。

ログインはこちら












©Frontier Works Inc. All Rights Reserved.