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『   優しい思い出 』
篁・雛0436

「きゃ──」
「っと、大丈夫?」
 ラッシュの人波。踏み外した階段。よろめいた背を受け止めたのは、よく見かける青年だった。見上げたそこにある明るい瞳に引き込まれ、少女は言葉を無くした。
 ただ、顔を赤らめて。
 
 朝の混雑したホームに、その少女はいた。制服姿で手に花を持ち、ベンチに腰掛けている。人待ち顔の瞳が、時折時計を見上げた。時刻は七時三十分。少女が電車に乗る気配は無かった。
 篁雛は足を止め、少女を振り返った。行き過ぎる電車が雛の黒髪を泳がせる。少女は残留思念で象られた存在。この世の者ではなかった。
 雛は少女の横に腰を下ろし、花に目をやった。数は三本。白いスイトピーだ。誰かに渡すつもりなのだろうか。
「どうしたの?」
 雛が声をかけると、少女はゆっくりと視線を向けた。深い悲しみがそこに宿っている。
「人を……待ってるんです」
 少女はポツリと言った。
 ホームには絶えず人波が動き、電車が滑り込んでくる。騒音に負けそうになる少女の声を聞き逃すまいと、雛は身を乗り出した。
「人、を?」
「はい……、あの」
 少女はそこで言葉を切ると、乗降の客を目で追った。当てが外れたのか、深い溜息をつく。
「階段から足を踏み外した時、助けてくれた人がいるんです。ここで、いつも見かける人なんですが……。ひっくり返りそうになって……それを受け止めてくれて……。私──」
 少女は俯いて唇を噛んだ。言えなかった想い。それが少女を『ここ』に留まらせたのだ。
 切なさの滲む横顔に向かって、夜刀はフンと鼻を鳴らした。どんなドラマチックな展開かと期待すれば、何の事は無い。そこら中に落ちている日常のワンシーンだったからだ。
「そんなベタな出会いで」
 と、夜刀は雛を見た。その瞬間、やれやれと肩をすくめる。雛は真面目くさった顔で、少女の顔を覗き込んでいた。目には涙さえ浮かべている。
 あの日。
 そう、あの日。
 まさにこの少女と同じ経験をした。階段を踏み外し、そしてある青年に助けられたのだ。雛の口からはお礼を言うより先に、謝罪の言葉が出た。どうしてこんなにもドジなのか。微かにそれを呪ったりした。
 だが、青年は優しかった。笑いかけてくれた笑顔は、あの日以来、雛の心に住み続けている。
 それが恋かどうかは分からない。だが、確実に彼の事を大事に思っていた。
 目の前の少女を雛は自分と重ねていた。雛と少女は良く似ていたのだ。
「あの。よかったら……私に出来る事ありませんか?」
 雛の申し出に、少女はコクリと頷いた。その拍子に涙が零れ落ちる。少女は持っていた花束を雛に差し出した。『優しい思い出』と言う花言葉を持つその花は、トランスルーセントの包装紙にくるまれ、淡いピンクのリボンをかけられていた。
「これを渡すだけでいいの?」
 雛はそれを少女から受け取った。手と手が触れあった瞬間、少女がこの世で見た、最後の記憶が雛に流れ込んできた。
 迫り来るトラック。白い空。遠くで聞こえたサイレンの音。
 そして── 
 想いを寄せた彼の笑顔。
 雛は涙を拭って言った。
「彼に伝えましょうね……」
 ジリジリとけたたましく響くベル。再び大勢の客を乗せた電車がホームに滑り込んできた。二人の少女は、そこに彼の姿を探した。
 降りてくる雑踏に、彼はいた。学ランに身を包んでいる。
「待って下さい!」
 雛の声に、彼は振り返った。少女は涙ぐんで、彼を見つめている。
「このお花を、預かってきました」
「俺に?」
 彼は花を受け取り、首を傾げた。送り主が思いつかないと言った風だ。
「あの……階段から転びそうになった子を助けた事、覚えていますか?」
 雛が言うと、彼は「ああ」と笑みを浮かべた。
「覚えてるよ。その子なの? わざわざいいのに」
 と、照れて頭を掻く。少女の目から涙が溢れた。ポロポロとそれは止めどない。
 雛は彼に少女の事を打ち明けた。彼は驚きながらも、ずっと神妙な顔で聞いていた。
 それで気が済んだのだろう。
 伝え終わった時、少女の姿はその場から消えていた。
 
 もし今、この瞬間に命が尽きてしまったら──
 二人と別れてから、雛はその事ばかり考えていた。そそっかしいが故の出会い。少女の見に起きた事が、他人事だとは思えなかったのだ。
 ふと、暗闇に明かりが灯るように、雛の心にある顔が浮かんだ。
 ──ひにゃん。
 と、それは明るく笑いかける。
 あの日、助けてくれた青年の声を、なぜか無性に聞きたくなった。
 歩き出す。
 まだ気付かぬ、未熟な恋へと少しだけ近付きながら。

 
 
                        終わり
PCシチュエーションノベル(シングル) -
紺野ふずき クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年03月29日

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