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『櫻眠 』
朏・棗0545

 眠りに落ちるのは心地好くて好きだ。
 そして、いままさに眠りに入ろうとする瞬間、あのうとうととした刻も好きだ。

 暖かな日差しに抱かれた縁側で、ぼんやりとまどろみに身を委ねていた朏棗は、ふっと思い出したように重くなりかけていた目蓋を押し上げた。
 世界を満たすのは、早春の陽光。今まさに眠りから目覚めたばかりの新たな生命の気配は、香立ちそうな程の鮮やかさで、冬の気配を拭い去って行く。
 冷たさと柔らかさがない交ぜになった風が頬を撫でる。まだ眠気の余韻を引きずる視界に、さくら色の花弁がひらり、と踊った。
 まるで棗を呼び寄せるように。

 眠りに落ちるのは心地好くて好き。直前のうとうとした瞬間も好き。
 けれど、風に誘われるがままに散歩に行くのも良い。

 くるくるとまるで蝶のように舞う花弁に手を引かれ、棗は銀の毛並みが美しい猫の姿に自身を変え、魅力的な縁側に一時の別れを告げた。


 うきうきと弾む心をそのまま表現したように、塀の上を歩く銀猫の足取りが軽やかなステップを踏む。
 小さな、けれど元気の良い鳴き声に視線を馳せると、そこには母猫に乳をねだる産まれたばかりの三匹の仔猫の姿。
 最近、見掛けないなと思ってたらそーゆー事か。
 近所でも評判の器量好しと知られた顔見知りの彼女に、尻尾を振って挨拶をすると、驚くほど優しい声で返事が返って来た。
 春、だなぁ。
 ついしみじみと思いに耽ると、鼻先に羽虫が一匹。ピクリと髭を震わせると、慌てて飛び去っていく。
 追いかけていたさくら色の花弁はいつの間にか見失ってしまった。
 けれど、それ以上に惹き付けるものが周囲には溢れている。
 人間の姿を取っている時とは異なる視線の高さと広さが、普段は見逃してしまう春の先駆けを拾い集める。
 まだ緑のない木々の枝先で、綻び始めた柔らかな新芽。アスファルトの切れ目から僅かに覗く土の大地を、力強く押し上げるつくし。
 どれもこれも長い時間を棗と共に繰り返し繰り返し生きて来たもの達。生きる場所を変え、時には自分と同じように姿を変えて来た。そんな彼らが冬の眠りから目覚めるこの季節は、やはり嬉しい気持ちが膨らんでくる。特に今日みたいに晴れて風の気持ちの良い日は。

 こんな日は、やっぱ公園が良いよな♪

 散歩の目的地を定めた棗は、一度しなやかに背を逸らせ大きく伸びをすると、風のような優雅さで光に満ちた街を駆け出した。


「やっぱ、ここの櫻は早いよな」
 閑静な住宅街の真ん中。今は児童公園になっているそこに一歩足を踏みいれて、棗は馴染みの櫻と挨拶を交わす。
 街の幾箇所かにある桜と違って、ここの櫻はなぜか花を付けるのが一足早く、その分この櫻を眺めに公園に足を運ぶ人間の数は多い。しかし棗が訪れた時間が丁度昼時であったからか、そこには遊ぶ子供の姿一つなかった。
 穏やかな早春の陽の光が、聴覚では捉えられない天上の音楽を伴って満開の桜の花に降り注ぐ。
「懐かしいよなぁ」
 時代の流れと共に、周りの環境は絶えず変化し続けて来た。この櫻も棗が出会った時は、群生する桜の中の一本だった。辺りには人里はなく、季節が巡る度に自然の中でその花を咲かせては散らせていた。
 やがてぽつりぽつりと人間達がそれを愛でるように集まり村が出来た。そうしている間に桜の木は一本一本姿を消して行き、幾度かの戦乱の末、この櫻だけになってしまった。
「お互い、少しは年をとったかな?」
 櫻の下に置かれたベンチを踏み台に、大きく広がった太い枝に飛び上がった棗は、空中で滅多に戻る事のない本来の姿に身を移し、ふわりと舞い降りた。
 長く細い銀の髪が、まるで桜の花を縫い止める幻の糸のように、光を乱反射させながら風に流れる。
 時代めいた白装束の裾が僅かにはためき、まだ冷たさを残した空気が肌を刺す。身を震わせる程ではないそれを、棗は暖かな幹に身を寄せる事でやり過ごした。
「いろんな時代があったよな」
 頬を寄せると、永い年月を経た木肌に、棗の頭から姿を見せる黒曜石のような美しい角が当たる。けれど、櫻はそれを嫌がるのではなく、懐かしむように受け止めた。
 様々な出逢いがあった。
 そして別れもあった。
 か細い苗木だった櫻が幾重もの年輪を重ねて来たように、喜びがあり、悲しみがあり、その度に棗の心にも色々なものが刻まれて来た。
「血も……流れたよな」
 ふっと自分の両の手に視線を落とす。脳裏を過る、今は懐かしい顔。
 この手は幾人の手に触れ、そしてそれと同じだけ手放して来た。
 不意に棗の瞳が淡い紫に煌く。
 その紫光に魅せられ、大気が奮え、桜の花が棗の姿を世界から覆い隠してしまう。まるで愛し児を護る母の腕のように。
「俺? あぁ、幸せだよ。今は……今はそう思える」
 無音の問い掛けにそう答えた棗の瞳が、元の朝露に染まった青に戻る。その瞳の前に、さくら色の花弁が一枚。
「あぁ、そうか……お前が俺を呼んだのか」
 捕われることを待つように、眼前でふわふわと揺れる花弁をそっと手の中に納めて棗は優しく微笑んだ。
「大丈夫。俺は幸せだよ」
 ざぁっと音を立て、桜の花が割れて世界へ道が開ける。棗は一度だけ名残惜しそうに幹に触れると、そっと宙へ身を躍らせた。
 地面に足が触れると同時に、現れたのは薄茶の髪と瞳を持った儚げな雰囲気を纏った美しい少年。これが、今、の棗の姿。彼女、の隣に在る棗の姿。
「また来るよ」
 さわさわと歌うように揺れる櫻と約束を交わす。
 随分と背の高くなったそれを振り仰いだ棗の瞳は、薄く陽炎のような櫻の精。
 小さく手を振り笑むと、咲き誇る花のような笑顔が返って来た。
「それじゃ、またな」

 少しだけ喧騒の戻り始めた街の中に、ゆっくりと棗は歩を踏み出す。しかし世界は相変わらず、昼寝に最適な麗らかなまどろみを湛えている。
「やっぱ、春だからだな」
 自分の眠り好きを棚に上げて、再び襲って来た睡魔を『春眠暁を覚えず』のせいにして棗は一人ごちた。
「こんな良い天気、一人で満喫するのはもったいないってな」
 ポケットに手を入れて歩きながら、一人の少女の顔を思い出す。
 思い出して、思い至る。

 今度はもう一人道連れに連れてこよう。
 たまには二人で外で昼寝をするのも良いだろう。
 あの満開の櫻の下で。


【終】
PCシチュエーションノベル(シングル) -
観空ハツキ クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年03月28日

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