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『幸せの形 』
藤咲・愛0830

 都会の夜は長い。長いからこそ様々な出来事があり、出会いがある。
 だからだろうか。
 寂しい心の隙間を埋めるように、人は夜の繁華街へと足を運び、一時の夢を手に入れたがるのかもしれない。

「愛さん、お疲れ様」
「お疲れ様。今日もいい声で鳴いてもらったわ」
 今日は土曜日ということもあり、お客は引っ切り無しにやって来ては、愛の妖艶な姿に見惚れ、そして快楽の声を上げて悶えていった。愛はそれにまた微笑み、客は更に感情を昂ぶらせて喜ぶ。それを何度となく繰り返し店の灯りが消える頃、時計の針は深夜三時を指し示して、夜が明けることを徐々に知らせた。
 愛を初めとする従業員達の、一日が漸く終わる瞬間だ。
「そうだ!愛さん、これからご飯食べに行きません?」
 ロッカールームで着替えていた愛に、着替えを済ませた女の子が誘いの言葉を口にする。普段なら「そうね、行きましょうか」と誘いに乗る愛だったが、今日ばかりはその誘いに乗るわけにはいかない。
 スーツ姿に着替えた愛はパタリとロッカーを閉め、客に見せる妖艶な笑みじゃない、にこりとした微笑みを浮かべて見せた。
「ごめんなさいね。今日は先約があるの」
「うわ〜誰かと待ち合わせですか?いいな〜♪」
 女の子が羨ましそうに、そう口にするのも無理ないだろう。
 笑った愛の表情は、とても優しい笑みを浮かべていたのだから。
「待ち合わせじゃないけど、とても大切な用事なの。それじゃお先に失礼するわね」
 ふふ、と一人笑みを浮かべて、ロッカールームを出て行った愛を他所に、その場にいた数名の女の子達が、微笑みに見惚れていたのは……内緒だったりする。


 タクシーで自宅近くまで帰宅し、愛がその世界から抜け出たのは、深夜四時になろうという時刻だった。いつものように静寂に響くヒールの音を、極力消しながら自宅へと帰り着く。
「ただいま〜」
 返事が返ってくるわけではないが、慣れ親しんだ挨拶は自然と口からついて出た。深夜というよりは、もう明け方と言ってもいい時間帯。返事がある方が奇跡に近いだろう。
 だから期待していたわけではない。
 ただほんの少し、キッチンから漂う夕飯の匂いと、明るい部屋。それと──おかえり…、という科白を心の中で思い出してしまっただけだった。
 愛は想い出を振り払うように洗面台に向かうと、化粧を落として素顔の自分へと戻っていく。
 蛇口を閉め、鏡に映る自分に、そっと「お疲れ様」と声を掛けるの毎日の日課だ。
 それから同居している弟が起きないよう自室に入り、本当ならこのままベッドに雪崩れ込んで、眠りという甘美な世界へ旅立ちたいところを我慢する。
「さてと……やらないとね」
 妖艶なスーツ姿からジーンズにシャツというラフな格好に着替えた愛は、長い髪は邪魔になるからと、手馴れた動きで纏め上げた。
 そしてそのままキッチンへ向かうと、冷蔵庫から予め下処理をしておいた、鶏肉やら卵やらを手にシンクの前に立つ。
 今日は唯一の肉親である弟にとって、とても大切なサッカーの試合日。高校生になり、自分のことは自分でするようになった弟だが、流石にお弁当作りまではこなせないらしい。
 先週の土曜日。いつもなら寝ていて起きてこない弟が、リビングで寝てはいたものの自分を待っていたのだ。驚いた愛がどうしたのかと訊ねれば、半分寝惚け眼のまま、今日の日程と弁当作りを口にした。
 メモでも良かったのに…と思う反面、弟なりに自分を気遣っているのだと判り、胸の辺りが温かくなる。
「〜♪♪」
 先週のことを思い出した愛は、自然と鼻歌を口ずさみ、てきぱきと体を動かした。
 仕事の疲れは……どうやら忘れてしまったみたいだ。

 かちゃ、かちゃ、かちゃ……

 卵を解き解して味付けすると、熱したフライパンに一気に流し込む。ジュワーと焼かれていく卵を菜箸を動かして形にしながら、その間に油を温め、から揚げの準備をすることも忘れない。ご飯は出勤前にタイマーを掛けておいたので、そろそろ炊き上がるだろう。

 ──両親が生きていたなら、こんな時間は流れたかしら…

 大学四年の時、既に一流企業の内定を得ていた愛の身に起こった悪夢のような事故。両親を失い、弟と二人で生きていく為に、仕方なく内定先を断って今の職業を選んだ。仕事は愛の秘めた能力と、結局のところ性に合ってたらしくすぐに慣れ、気が付けば人気ナンバー1にまで昇りつめる事が出来た。
 それは嬉しいことだし、誇りにも思っている。
 けれど──…
 ふと手の動きが止まった。
「………普通の女性が味わう幸せも……って考え事している場合じゃないわね」
 火加減を調節しながら、愛は自身に苦笑しながら玉子焼きを仕上げる。出来上がったふんわりと黄色い塊に、愛はにこりと微笑んだ。
 そのままから揚げを作るべく、油にゆっくりと鶏肉を落としていき、他のおかずも作っていく。
 これが弟ではなく妹だったなら、タコさんウィンナーを作っていたのだが、残念ながらそれは作ることが出来ない。前に作って弟が偉く怒った記憶があったのだ。

 ──別にタコさんくらいで、あんなに怒らなくてもいいじゃないの…

 大きなお弁当箱に、おかずを盛り付けながら、心の中で少しだけ愚痴ってみる。それすらも楽しんでいるのは、決して間違った認識ではないだろう。
 愛は今のこの時間をとても楽しく過ごしているのだから。
 両親が生きていたなら、きっと内定が決まっていたあの企業でバリバリ仕事をこなし、そのうち素敵な誰かと恋に落ちて、バーなんかでグラスを傾けつつ大人の会話を繰り広げていたかもしれない。
 それも一つの幸せの形ではあるだろう。
 けれど今の愛が感じているこの幸せも、きっともう一つの幸せの形。
 誰かのために料理をしたり家事をする。疲れた体を引き摺ってまで、誰かのために何かをしているこの現状は、普通の女性が感じる小さな幸せと一緒ではないだろうか。
 それが愛にとって、大きな幸せであろうとも。

「おかずヨシ!おにぎりヨシ!フルーツも切ったし、スポーツドリンクも用意したわよね」
 テーブルに並べられたお弁当の確認をして、愛はまた小さく微笑んだ。
「ん〜起きててあげたいところだけど……限界みたい……」
 そう口にした愛が、テーブルに突っ伏して寝息を立て始めるのに、そう時間は掛からなかった。
 弟へ「頑張れ」と言いたかったけれど……、頭の片隅でそんな科白を浮かべながら。

 それから僅か数時間後。
 愛の部屋とは別の扉が静かに開かれ、そっとテーブルに乗せられたものをリュックに詰め込んでいく。何かを愛に呟いたようだが、熟睡している愛の耳には届かなかった。
 そしてトントンと玄関先で靴音が響き、その人影は扉の奥へと消えていく。

 目覚めた愛が見るものは無くなっているお弁当と、鏡に映った自分からではない『お疲れ様』と書かれたメモだろう。

 これも小さな幸せの形──…

【了】
PCシチュエーションノベル(シングル) -
浅水陽人 クリエイターズルームへ
東京怪談
2003年02月24日

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