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『夜想曲 』
深沢・美香6855)&(登場しない)

白い天井が見えた。
二日に一度のオフ。
目を覚ますと、部屋の中を照らす日差しはもう黄色味を帯びている。
遅い目覚めは、美香にとってはいつものことだ。
ソープ嬢の朝は遅く、夜も遅い。
昨夜はいつもどおり深夜にタクシーで帰ってきて、むやみに怠くて重い身体をベッドへと投げ出した。そのあとのことは覚えていない。
夢は見なかった。
これもいつものことだ。
――いや。
美香は思った。
だんだんと靄がかかっていた意識がはっきりとしてくるにつれ、眠気に追いやられていた記憶の断片が蘇りはじめる。
夢は、見たような気がする。
そうだ、たしかに見た。
あたたかな午後に、どこか公園のようなところの広場で自分は兎を抱いていた。
土の匂い、動物たちの匂いに囲まれて、赤い眼をした真っ白な兎とにらめっこをして笑う、幼い頃の自分。そばには影が差していて、誰かがいたような気がする。
それから。
邸の庭の隅に、誰かが立っていた。使用人に作らせた兎小屋の出来をたしかめていて、自分に兎を入れてごらんと促していた人。優しくほほえんでいた。
ああ、お爺さま。
思わず溜息が出た。
珍しいことだった。
普段夢はなかなか見ない。
見たとしても、あの頃の夢を見ることは滅多にない。
「……お爺さま」
美香は苦い気持ちで唇を噛んだ。
葬儀にも出なかった。かわりに自分は家を飛び出していた。あれから何年経っただろう。 夢の中の兎のやわらかくてあたたかな重みが、まだ腕の中に残っているような気がする。 自分がまだ幼かった日。
あの頃はすべてがきらきらと輝いて美しく見えた。
一日という時間はたっぷりと長く、「明日」という日の来るのが楽しみでしかたがなかった。
「ちがう」
美香は呟く。
「あれは。あれは全部、偽物だったのよ」
纏いつく夢の記憶と昔の記憶を、心の中で打ち払う。
気丈でありたいと思った。
あの日私は、張り裂けそうになる思いを抱えてこの街にでてきたのはなかったか。
父と母と一族が成した財産と家柄、父と母と一族に仕向けられて負わされた経歴、父と母と一族に作られた価値観。
そんなものすべてをかなぐり捨てて、私はこの身体一つで人生に勝負を挑みたいと思った。二言目にはお金、お金、金が欲しいと血眼になる気持ちで過ごした時代もあったが、今、私は私の身体ひとつで生きている。
この部屋も、あのバッグも、そこのテーブルの上にある花瓶の花も。
あちこちの雑誌を日々飾っているブランドアイテムと、一等地に建つマンションの広い一室。
全部私一人の力で得たものなのだ。私のこの身体だけで。
「……喉、乾いたなぁ」
呟いた声は黄昏時のがらんとした部屋に吸い込まれるように消えた。
布団を跳ね上げてベッドから抜け、身支度をする。
ベッドヘッドの目覚まし時計を見れば、夕刻も近い。
「コンビニでいっか」
スーパーに買い出しに行って何か作るのも面倒だった。なんだか今日は気力が無い。
レンジで温めて食べられるリゾットあたりにしようと考えたところで、玄関のチャイムが鳴った。
ルームウェアにカーディガンをひっかけ、スリッパを爪先を押し込んでフローリングの廊下へと出る。
モニターホンに返事をすると、モニターに映る人影が少し頭を下げた。
「深沢さんのお宅でしょうか。郵便局の者ですが」
郵便物なら郵便受けに入れていってくれればいいのに。
けれど、誰から?
そう考えて、ふっと脳裏を過ぎったのは、郷里で暮らしているはずの父と母の姿だった。私の行方を興信所か何かに頼んで密かにずっと捜していて、それで今になって便りをよこした、とか?
まさか。
浮かんだそばから、そんな考えを打ち消そうとする自分がいる。
私は戻りたくない。
窮屈で、息が詰まって、何もかも自分の思うとおりにならなかったあの場所になんて。
誰も私を見てくれなかった。
私は父と母の財産と家柄と価値観の上に立っているだけの少女でしかなかった。周りの人々は私を愛してくれたけれど、それは何も「私」でなくてよかったのだ。きっと。
父と母が作った財産と家柄と価値観の上に立つ者であれば誰でもよかったのだ。「深沢家のお嬢様」でさえあればよかったのだ。
だから、たとえ今頃便りが来たとしても、私は戻らない。戻りたくない。
たとえ、あの日に家を出なかったなら、白く穢れないままの自分でいられたのだとしても。
「……戻りたく、ないのかな」
口をついて出た自分の言葉に我に返る。
郵便配達の人がドアが開くのを待っているという現実へと、急速に引き戻された。
あわててドアを開けると、配達員は待ちくたびれた顔も見せずに封書を差し出した。
「書留なんで、印鑑お願いします。あ、サインでも結構ですよ」
差し出された封書を見るなり、空虚さが美香の心の中を吹き過ぎた。
それはカード会社からの封書だった。
カード会社からの書留郵便。
つまりカード会社が更新された新しいクレジットカードを送ってきたというわけだ。
 カラフルな印刷の施された封筒。セロファンの窓に除く印字された「深沢美香様」という角張った活字。
 そこにはインクの滲みも濃淡もなく、書き慣れない住所を一生懸命に書いたせいのぎこちなさというものもなく、手で貼られた切手の歪みというものもなかった。
 やたらと分厚い封筒の重みを受け取りながら、目頭がじんと熱くなった。もう少しで笑い出してしまいそうだった。
 ご苦労様です、という挨拶もそこそこにドアを閉める。
 廊下を駆けて、飛び込むようにベッドに突っ伏した。
 これが当然なのだ。
 今の私の手の中には、表書きのインクが滲んだ封筒なんてやってこない。
「元気にしてる?」「今はどこに住んでいるの」「何か送って欲しいものがあったら言ってちょうだい」。
 そんな便りが、届くわけもない。それを悉く切り捨て来たのは、他ならぬ自分なのだから。私に来るのは、こんな「これからもお金を使って下さい」というクレジットカードの会社からのダイレクトメールぐらいなのだ。
 は、と息を吐くと、ほんのかすかなきな臭さと塩辛さとが鼻の奥をついた。
 今日の自分はちょっと変だ。やけに感傷的だ。こんなことで泣くなんて。
 涙を拭いながら美香は思った。
 あんな夢を見たからかもしれない。
 部屋中に充ちている気がする自分の愚かさを振り払いたくて忘れたくて、美香は財布を掴んで家を出た。



 何冊かの雑誌のページをめくってコンビニを出ると、日はすっかり暮れていた。
 秋の日はつるべ落としとはよく言ったものだ。
 大通りからは中に入った裏道には、ラッシュ時にはめずらしく車の通りもなかった。
 夜は美香の味方だ。
 昼の日差しの下では楽に息が出来ない自分がいる。
 昔にくらべればずいぶんと慣れたが、いまだに明るい光のもとでは漠然とした後ろめたさを感じる。
 あの郵便配達員のように生きていたら、昼の日差しは怖くなかったかしら。
 自分を覆い隠してくれる夜の闇を優しいとは思わなかったかしら。
 いま夜闇に守られて美香は車道の真ん中を戯れに歩いてみた。
 夜道にそこだけ白々と浮かび上がる車道の白線を見つめるうちに、美香の目に映るそれははだんだんと一本の道へと変わっていった。
 生きるということはこんな細さの道の上を歩くようなものだと美香は思う。
 綱渡りの綱とも違う。平均台と言った方がいいのかもしれない。
 ただし下にマットはない。かわりに暗く口を開けた千尋の谷底がある。
 でも、下さえ見なければその断崖は見えないし、命綱がないことも忘れていられる。マットがあると思い込むことも出来るし、何より、それと知らずに目を瞑れば、広々とした道を歩いているようにも錯覚できるのだ。
 下さえ見なければ。下さえ見えなければ。何も知らなければ。
 けれど。
 ある日突然、ぷっつりとそれは途切れるのだ。
 この、車道の中央線のように。
 美香のサンダルの下には、冷えたアスファルトの暗いコールタール色が広がっていた。



 ローテーブルの上にはリゾットの空き容器と破られたピル・シート。
 深夜番組を映すテレビの中で、笑い声が弾けた。
 愉しい愉しい絵空事の世界が液晶の画面一杯に広がっている。
 年若い女性タレントが、今夜のゲストらしい男性芸能人に言った。
「お仕事はお好きですかぁ」
 テレビの前で膝を抱えながら、美香は彼の代わりに頷いてみた。
「……好きよ」
 わずかに禿げたペティギュアを丁寧に塗り直し、息を吹きかけて乾かす。
「だって、仕事をしている間だけは、いろんなことを忘れていられるもの」
 ベッドヘッドの時計が、小さなデジタル音で午前2時を告げていた。

PCシチュエーションノベル(シングル) -
工藤彼方 クリエイターズルームへ
東京怪談
2009年10月14日

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