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『ノイズ 』
深沢・美香6855)&(登場しない)

煙草と排気の匂いの混ざりあった、なまぬるい風が路地にわだかまる。
『ビデオ鑑賞・竜宮城。1時間500円』。『ファッションヘルス愛』。『ストリップ・ゴールデン劇場』。『テレクラ6969』。
怪しげな玩具屋に風俗店が立ち並び、店々の看板が雑居ビルの壁面を原色で埋め尽くしてひしめく。その下には客待ちのタクシーが並んでいて、運転手のドアに凭れて一服休憩を決め込んでいる姿がある。賑やかしくぎらつくネオンだとか、自動ドアが開閉するたびけたたましく喚き出すパチンコ屋だとか、異国の言葉を話す黒尽くめの男たちだとか。夜ごと繰りかえされるあれらの光景は、いったい幻なのか。
時折そう思うのだ。美香は、朝日の中のこの街を見て。
今日はいつもよりも4時間ほど出勤が早い。
まだ昼までには時間がある。
 ゆうべはあれほど輝いていた電飾も、今は埃っぽく色褪せた看板の上に裸電球を虚しく並べているだけで、街は眠っているように見える。
路地の脇に並ぶ店々はこぞってシャッターを下ろし、店先には人影もない。たまにゴミを漁る浮浪者が、道端に捨てられたスポーツ新聞だのコーヒー缶だのを拾って、ゴミ袋を引き摺り歩いているぐらいだ。
 ネオンの通りから路地を一本入ると、途端にあたりの静けさが増す。日の光から遮られ、夜のけばけばしい街の灯りすらも届かない一角。その奥まったところに、美香の「職場」はあった。
 絵本で見る城の門構えを象ったかのような、わざとらしいつくりの雑居ビルの入り口を美香は見上げた。ドアだけは中が見えないようにという配慮なのか、頑丈で一瞬の隙もなく、まるでマンションのそれのようだ。
『ソープランド El Dorado』。
 ドアの表に、彫金を模した金メッキの看板が掛かっている。
 黄金郷との名のついたそれは、はたして誰にとっての「金」を示しているのか。夜になれば、その道の男たちが店に顔を出す。店を預かっている者に口荒い言葉で何事か告げて、黒塗りの車に乗って立ち去っていく。
 それもこれも、美香にとっては関心外のことだった。
 他の女たちのように店長に取り入りたいわけでもない。
 他の女たちから客を奪いたいわけでもない。
(私は男たちから「嬢」と呼ばれる商品以外の何物でもない)
 野望は無いのだ。
 目の前にあるのは、漠然と続く未来だけだ。漠然と。
 美香はドアのおもてをぼんやりと見上げた。
 あれらのネオン看板がそうであったように、これも埃っぽく、白っぽく、朝日が似合わない。
「嬢」以外の女たちは、滅多なことではこのドアを押すことがないのだ。
 このドアに手を掛ける女は、この店の男たちの情婦であるか、この店の女たちの誰かに恨みを持っていて酒に酔っぱらいながら喚いて殴り込んでくる女かだ。
 それか、それぞれの過去を背負い、美香と同じ道を進もうとして尋ねてくる女たちか。
 美香はドアを開いた。
 朝も昼も夜も変わらず薄暗い店内へと乾いた声を投げる。
「おはようございます」
 美香の声は、響かなかった。



 同じ時間帯に出勤した嬢たちが集められ、スタッフからほかの嬢たちの出勤スケジュールと準備の担当とを言い渡されると、名ばかりのミーティングは終わった。あとは客がちらほら来るようになる時間帯まで待機するのみだ。
「ほぉい、弁当来たよぉ」
 咥え煙草のスタッフが、近所の弁当屋から配達されたビニール袋をドンとローテーブルの上に置いていった。待機時間中に摂る昼食だ。待機中とはいえ、まれに早い時間帯に客が連続して入ることもある。早く摂るにこしたことはない。
 まだ温かい弁当のフタを取ると、中には、白飯に鶏の唐揚げとソーセージ、それからケチャップであえたスパゲティーが下敷きになっていて、さらにその下にはレタスが一枚萎びていた。容器の隅には、ほんの愛想程度に柴漬けが添えてある。
 美香の隣でスリムサイズの煙草から煙をくゆらせていた筆頭稼ぎ主の嬢が、弁当の中身を見るなり不満げな声を上げた。
「なぁによ、これ。こんなモン食べられるかっつの」
 高く組んだ脚のハイヒールが、テーブルの脚を蹴った。
「ごめんごめん、いつもんトコが臨時休業とかでさ。電話かかんなかったの」
 スタッフの男が苦笑いを浮かべて手を合わせる。
「だったら他の店でももっとマシなとこ当たりゃいーじゃん! あぁ、もーやだ。あたし、ちょっと外出てくる」
「え、駄目だって! 俺が絞られンだよぉ」
「知らねぇよ!」
 叩きつけるように言うと、女は心底うんざりとした様子で立ち、弁当を放って出て行った。男も慌てて追いかけ出て行く。
 静かになった煙草臭い室内で、まだ生あたたかいソーセージを囓った。
 歯と唇の間に肉質の弾力が挟まる。パリ、と皮が弾けた。
 茹でたソーセージには脂っ気がなかった。
 塩気だけ感じるその味を、何かに似ていると美香は思った。よく知った何か。
 不意に喉の奥からえづきがこみあげた。
 日々私の肉体を通り過ぎていく男たちの体温が、愛する男のそれであったならば、私の心はどれだけあたたかなものになっていただろう。やさしい温もりと愛しい重みを抱いて感じて、耳打ちされる囁き声に心を震わせ、「あと何分耐えれば」などと考えることもなく、早々に白む夜空を恨んでいられただろう。たとえつましい生活をしなければならなかったとしても、私はその衣食住にきっと満ち足りていられただろう。
 喉の奥からこみ上げたそれは、美香のもっと深いところからのえづきだったのかもしれなかった。だがそれが本当に吐き気だったのか、それとも嗚咽だったのかは美香にもわからなかった。
 かわりにひとつ思い出した。
 感じた塩気は、悔し涙の味によく似ていたのだ、と。


 囓りかけのソーセージも白飯も唐揚げも残した弁当容器をテーブルの脇によせ、やりきれない気持ちを紛らわせたくて、ソファに放られていた女性雑誌を手に取った。
 退屈した日々の慰みに、人々はそれを買う。なぜなら灰色の誌面の中の出来事は究極の他人事だからだ。不祥事やら問題発言やらをスッパ抜かれ、栄光から凋落する有名人の不幸を見て、「これなら一般人の自分の方がよっぽどマシだ」と笑い、ひそかに胸を撫で下ろす。嫉みと欲望と屈折した憧れの種と、そして美容整形だのの広告を供給するだけのもの。
 待機中の嬢たちが井戸端会議でやりとりする内容と、それはなんら変わりがない。
「熱愛発覚!」だの、「電撃入籍!」だのの見出しを興味もなく捲っていた美香の目に、見開きを埋め尽くすコピーの大文字が飛び込んだ。
『あの清純派アイドルがソープ嬢に! まさかの転落人生』
(ああ……また……)
 美香は目を瞑った。きつく。
 雑誌も閉じていた。
 ソファの上に蹲るように背を丸める。唇を噛みしめる。
 職に貴賤は無いなどと言ったのは誰だ?
 職に貴賤はあるのだ。上を見れば雲の上もかくやと言うほど果てのない、ピラミッドのようなヒエラルキーがある。下を見ればまた。
 そして、この雑誌の1頁が自分のいるところを教えてくれている。嫌というほどに。
『まさかの転落』先が、今の美香の境遇だ。
 底辺、という言葉が脳裏を過ぎった。
 私が今街をさまよいゴミ置き場を漁る浮浪者をやらずにいられるのは、単に若い女性であるからだ。だから、見た目は「人間」でいられる。金もある。身綺麗にもしていられる。けれど、私はもう「人間」ではないのだ。「商品」なのだ。「物」なのだ。
 そして、この先もわからない。
 時間は止まらない。
 生まれた環境とか、生い立ちとか、家族とか。そういう自分の宿命や過去を放棄するということは、なんと難しいことなのか。そして、傲慢にもそれをしたのが私なのだ。
 結果、私一人の力では、「人間」になることも出来なかった。
 私は。私はこれからどうなるのだろう。どうしたいのだろう。たとえどうにかしたくても、第一、何を選べるというのだろう。
 墜落していく思考を断ち切るように、スタッフの声が聞こえた。
「美紀ーぃ、美紀! お客さん! Bに入ってー」
"美紀"とは美香の源氏名だ。
 美香は顔を上げた。
 今日もまた一日がはじまる。
 黒いスーツを着た男の姿が、カウンターに見えた。
 昼間からの客だ。夜から「仕事」の人種なのか、肩をいからせて「美紀ちゃんどこにいんのヨ」などと胴間声で呼ばわっている。
 私は"美紀"という「商品」。
 美香は"美紀"のマスケラを被る。
 ぐっと鳩尾に押し込んだ。嫌悪も、不安も、後悔も。自分に対する静かな怒りも。私は、私の心を掻き乱し引き千切るそれらから、目を瞑り、耳を塞ぐ。
 穢すといい。殺すといい。
 陽の光を目指して足掻くことも許されないならば、私の心を穢して、拉いで、殺すといい。
 飢えた心は、痛む心は、麻痺させることでしか感じなくさせることは出来ないのだ。
(だから、私は"美紀"でありつづける)
 自分という「商品」を指名した男の、火照った分厚い手を握る。
 "美紀"は口元に艶然とした微笑みを作った。
「いらっしゃいませ。美紀がお部屋までご案内いたします」





<了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
工藤彼方 クリエイターズルームへ
東京怪談
2009年10月21日

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