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『トレープレフの鏡 』
夜神・潤7038)&(登場しない)

 さざなみの立つ穏やかな湖面に月の光が落ちていて、対岸の、夜より暗く黒い森へと白く輝く道をつくっている。
 つい先ほどまでは風が酷く吹いていて、この邸の周りにめぐらされた樹木の枝葉を殴るように落としていたのがまるで嘘のようだ。
 掌の中には鈍い銀光を放つ重い鉄の塊がある。父が大事にしていた拳銃だ。
『トレープレフ君が撃った鴎? それを僕が、記念に剥製にしろと言っただと? さぁ。覚えとらんなぁ』トリゴーリンの言葉が蘇る。
『息子が書いた本? あぁ、何かもらった気もするけど、どこに置いたんだったかしら。そういえば読んでなかったわ』母アルケージナの声が続いて脳裏を過ぎっていった。
『わたし、いまでもトリゴーリンのことが好きよ。どうにもならないくらいに好き。本当に、愛しているわ。――え? あなたがまだわたしを愛しているだなんて。まさか、どうして? わたしにはわからないわ』記憶の中の、かつての恋人ニーナの声が心臓を抉る。
 ニーナにも母さんにもトリゴーリンにも、きっと僕という人間は見えていなかったのだ。きっとそれは始めから終わりまでずっとのことで、僕はずっと透明人間だった。それを知らなかったのは、知ろうとしなかったのは、認めなかったのは、ただひとり、僕だけだった。
 僕は、血を吐く思いで作家のはしくれにはなったのだ。
 だが、何のために?
 誰のために。
 名声の権化たる文豪トリゴーリンに認められるため? 自己の名声を愛する女優の母の目の中に、僕の姿を映してもらうため? 同じく名声を――トリゴーリンを愛した恋人ニーナを取り戻すため?
 僕が透明人間でなくなるために。
 そうだったのか?
 もし、僕が求めていたものが、そうであったのならば、なんと烏滸がましいことだったのか。
 僕は、今も変わらず透明人間なのに……!
 ――そうだ。
 何も、何も変わらなかったのだ。
 僕がいったいどういう人間になろうとも。
 僕が「コンスタンチン=トレープレフ」という名の人間である限り、皆は、僕を愛していると言って僕を見ながら、心の底には微塵たりとも僕という人間を留めない。
 僕は愛されたかった。
 ニーナに、母に、トリゴーリンに、僕の周りの人々に。
 愛されたかった。
 静かだな。
 静かだ。
 ずっと手の中に握っているはずの銃身が、相変わらず冷えたままだ。
 僕の血潮の熱さは、人の心ばかりでなく、何もかもを素通りするのかもしれない。
 けれど。
 僕の血潮の温もりが大地をあたためることはできなくとも、大地の一部にはなれるかもしれない。
 これで終わる。
 この手に少しの力を篭めるだけで。
 終わりにすることができる。
 透明人間の僕を終えることができる。
 引き金が硬いな。
 そりゃそうだ、ずっと書斎の机の中にしまわれていたのだもの。
 ずっと、忘れ去られていたのだもの。
 忘れ去られているというのは、無いというのと同じだ。
 いないということと同じだったのだ。
 それだけのことだったんだよ、『トレープレフ』君。
 微かに聞こえる歯ぎしりのような引き金の軋む音。
 あと少し。
 ほんの、少しで――



「はい、オッケー! そこまでそこまで!」
 監督の声が舞台に響いた。
「オッケーでぇーす!」
 カメラ係が手を振っている。
 世界が急速に戻ってくる。自然の色彩から、作り物の色彩へと。
「潤さーん! いい画が撮れましたよっ! まったくCMのオン・エアが楽しみですよ。ていうか、ポスターもこれでいっちゃっていいんじゃないですかね」
 潤はゆっくりと瞬いた。
 焦点が合わない。
 頭を振って、大道具である書斎のソファへと鈍い動きで腰を下ろす。テーブルへと手の中の拳銃も置いた。
 間髪入れずにマネージャーが差し出したミネラルウォーターのペットボトルを取り上げて、それから手渡された眼鏡をおもむろにかける。
 銀フレームの眼鏡の位置を指で調節していると、監督がやってきた。
「夜神くん。二年前のトレープレフも素晴らしかったが、今回はあれを超えそうだな」
 潤の肩に手を置いて、隣に深々と腰を据えた。
「……恐縮です」
 横目に監督を見て、ペットボトルの水を含む。
「いやぁ、迫真の演技とはこのことか、というやつだな。近頃の若手連中の中に君みたいな逸材がいると、俺としては心が安まるような安まらんような。いやはや気が抜けん」
 煙草のヤニにそまった黄色い歯むきだしに呵々と笑った。
 潤は小さく笑った。そして監督へと向き直る。
「と、監督。ちょっとお話が。さっきの『ニーナ、あの日、君は本当に僕を愛していたのか』の台詞なんですが、『ニーナ、君には僕は見えているんだろうか』じゃ駄目ですか。そっちの方が、僕……俺としてはしっくりくるんですが」
 普段はどんな場であれ自分のことを「俺」と言って憚らない風もある潤の言葉に、「僕」が混じる。まだ潤の中にトレープレフが居座っているのだ。
 そんな潤の違和感にほんのわずかだけ眉根を上げた監督だったが、監督は監督でこの道数十年の強者だ。慣れてはいる。潤の意見に低く唸ると、片手に丸めていた台本を開いた。しかめつらの顎をせわしなく撫でながら台本を睨み、脚本兼演出の白髪頭の男を呼びよせてしばらく小声で話し合った後、監督はソファの肘掛けをバンと叩いた。
「よし、それでいこう」
 潤は笑んだ。
「ありがとうございます」
 監督が立ったあと、トレープレフのフロックコートを脱ぎ白いシャツの襟元を寛げていると、衣装担当の青年が近寄ってきた。
「シャツのサイズ、ぴったりでしたね。良かったです」
「ああ、君か。いや、こうしていると丁度なんだが……。今いいかな、寸法を取ってもらいたい。というのは肩を上げる時にどうしても引っかかりを感じるんだ。これもだが、こっちのフロックコートの方が特に苦しい。もう少し余裕があった方がいい」
 青年は「すみません」と慌ててウェストバッグからメジャーを取りだした。潤の肩幅と脇と腕ぐりを測り、メモを取る。
 舞台袖のあたりで監督の手を打つのが聞こえた。
「おぉい、一旦休憩だ。潤くん、みんなで飯食いに行こうと思うんだが、君は行かんか?」
「すみません、監督。いつもお誘いいただいているのに悪いのですが、俺は」
 監督は笑った。
「そうか、やはりな。残念だ。が、君は熱心な男だ。じゃあ、小一時間ほど出てくるから」
「潤はこれからが役作りターイムだもんね!」
 そう言って潤の背中を突いていったのは、ニーナ役の女だった。
 だいたいスタッフの間ではそう通っている。
 照明係も潤の習いを熟知していて、ライトは消さずに出て行った。
 がらんとした客席。
 大道具も小道具も揃った舞台の上に、潤はひとり、佇む。
 潤にとっては二度目のトレープレフだ。
 二年前の『かもめ』は、初演早々その皮切りから好評を博し、この劇場で客席を埋め尽くす観客たちが息をのんで自分を見守っていた。千秋楽後も、後続のあまたの芝居に飲まれて忘れられることもなく、演劇雑誌にこぞって取り上げられた。いわく、「人の人と間に横たわる埋められない川。その彼岸と此岸を表現しきった名演」。いわく、「トレープレフの魂と対峙しようとしない人々に囲まれた、彼の孤独を見事に演じた」、と。
 潤はその記事を読んで心ひそかに笑ったものだった。
(俺が名演技というのを披露できたというのなら。それはトレープレフの孤独が、すなわち俺の孤独であるからだ)
 それは自嘲に近かったかもしれない。
 透明人間のようであったトレープレフ、ある面において彼の姿は潤の姿でもある。
 潤はこれまで200年余りも生きてきた。ライプツィヒの戦いも見たし、フランスの七月革命も見た。阿片に冒された中国も見てきたし、ワーグナーの交響曲とファシズムに狂喜する人々の群れも見たのだ。
 そんな人間が他にいるわけがない。
 潤は作り物の壁にかかっている鏡を見た。
 トレープレフの書斎の鏡。古色を模した飴色の木枠で縁取られた鏡だ。
 その鏡の中に、20代のままの自分の顔が映っていた。
 変わることのないこの顔。
 早晩、人々の記憶から「夜神潤」に関わる記憶を消さねばならない。
 100年前にハプスブルクを歩いていた男が、同じ顔で現代の日本を歩いていると人間たちに認識されてしまっては大騒動だ。
 今までもそうしてきた。
 魅了の力で人間たちの意識を操作し、一定の時間を経たあとには自己消滅する記憶を埋め込んできた。その後に潤を見ても、人間たちがかつての潤を思い出すことは完全に無いのだ。
 芸能人という立場は、テレビや音波を媒体により多くの大衆の記憶を間接的に操作できるという点で実に好都合だった。
 100年後に、いや、50年後。それとも20年後だろうか。その時、俺を覚えている者はいない。
 俺のトレープレフを覚えている者もいない。
 たとえ俺の写真や記事が載っている雑誌を読んでも、録画された映像の中に俺を見ても、人間たちの記憶は途端に曖昧としてしまう。俺がたとえ何を残したとしても、人間たちが、夜神潤が俺であり、俺が夜神潤であることを思い出すことは永久にない。それはまるでエッシャーのだまし絵のように、どれだけの精神力で記憶の断片を追いかけたとしても繋がらないのだ。そう、俺が仕組んだのだから。 トレープレフ、君は人々にとって透明人間であった自分に絶望した。一方の俺は、俺が俺であるためには、透明人間であることが必要だった。
 肉体が死んだあとも人々の記憶に残ることを「ある種の生」だと言う者がいる。ならば、完全に忘却されるということは、「完全なる死」を意味するのではないか。
 トレープレフ。
 俺は君の気持ちが少しだけ、わかる気がする。――その、虚しさを。
 潤はまたも思った。
 彼は、拳銃で己の命を絶った。
 彼は己の肉体のどこを撃ったのだろう。
 妄想を強いる己の脳を呪ったのだろうか。
 それとも、己の意志とは関係なく生きることを強いる心臓へと向けてその銃口を押し当てたのか。
 恐らくトレープレフは己の脳を呪ったのだろう、と潤は思う。
 だから、きっとこめかみのあたりを撃ったのだろう。
 だが俺ならば。たとえ八つ裂きにされようとも、心臓に杭打たれようとも、たとえ拳銃の銃口を脳に突っ込まれて引き金を引かれようとも、俺は死なない。死ぬことができない。
 なあ、トレープレフ。
 透明人間であることに絶望して死を選んだ君と、透明人間であることを選んで死ぬことはできない俺と。
 どちらがより不幸で、より幸せなんだろうな。


 コンコン、と小さな音が聞こえた。
「あのぅ、お邪魔してすいません。潤さん、ちょっといいですか」
 見ると、舞台袖近くの非常口ランプの下で、ドアの隙間から衣装係の青年が顔を出していた。
「みなさん今戻りました。で、これから会議室3で打ち合わせなんですけど……」
 申し訳なさそうに潤を見ている。
 人の中には、なぜ潤がこうまで芝居に熱心なのかわからないと言う者もいる。だが、潤が芝居にのめり込むのには理由があった。
 人間でない自分が、死ぬこともできない自分が、人間の生と死を役を演ずる中で体験できるということがひとつ。
 もうひとつは。
 毎回毎回が一度限りの舞台の上で、熱いライトの光を浴びながら、やがて自分の記憶を失う観衆たちからの拍手と大歓声とにいだかれる。
(それが、俺にとっての唯一の「生」だからだ)
 他にもれず、そう遠くない未来に潤に関する記憶をすべて失うだろう衣装係の青年へと、潤は柔らかく笑いかけた。
「いや、もういいんだ。……今行く」
 潤はトレープレフの書き物机へと、銀フレームの眼鏡を置いた。





<了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
工藤彼方 クリエイターズルームへ
東京怪談
2009年10月23日

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