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『炎の邂逅 』
瀬名・夏樹8114)&神木・九郎(2895)&(登場しない)

 いつになく教室がざわめいていた。
「こらぁ! お前ら、いいかげん静かにしろ!」
 教室の入り口から入って来た教師が号令をかけても一向に静まらない生徒へと一喝したのだったが、それすらも生徒たちの耳には入っていないようだった。
 不安げに両隣の生徒の顔を窺う者、後の席の生徒とひそひそ話をする者、辺り憚らず「ちょっと怖いよ、それ!」と悲鳴を上げる者。
 原因は、つい1ヶ月前あたりから校内で囁かれるようになった一つの噂にあった。
 それは、この高校に悪魔が取り憑いたらしい、というものだった。
 生徒に、ではなくこの学校に、だ。
 家では健康そのもので普段と変わったところもなかった生徒が、学校に来るなり青白い顔になり、あるいは全力疾走した時のような汗を流して、うわごとを言うようになる。挙げ句、全身を硬く突っ張らせて獣のような叫び声を上げ、卒倒してしまうのだ。異変を見せてから倒れるまでには1時間もない。そして、例外もない。異変が現れたら最後、その生徒は必ず昏倒してしまうのだ。
 彼らが卒倒するときの尋常ではない様子のために、"悪魔に取り憑かれる"という噂は瞬く間に全校に広まった。
「あれ、やべぇだろ……」
「中庭で倒れたあの子、救急車で運ばれてったみたいだけど、どこの病院にいったんだろうね」
「ウチの母さん、3番目に倒れた子のお母さんと仲がよくてさ。あの子、今昏睡状態なんだって」
「昏睡状態って、マジかよ……」
「そういえば一番最初に"取り憑かれた"子もまだ学校に来てないもんね。もうひと月経つのに」
 被害者は既に7人。ただ、生徒が自宅で倒れたという話はまだなかった。それゆえに、登校さえしなければ大丈夫らしいと自主的に欠席する生徒も近頃では多くなってきた。学校は学校で対応に追われているのか、授業に教師が立たず自習時間になる日が日増しに増えてきている。
 実際、不安を覚えた保護者が学校側に問い合わせているようだが、学校側からは「そのようなことはございません。倒れる生徒が続出とのことにつきましても、根も葉もない噂でございます。倒れたという生徒についても、体調不良の理由はそれぞれ別個でございます。ただ、倒れる生徒がたまたま続いたことにより、噂が一人歩きしている状態で」という返答が返ってくるのみらしい。
「けど、絶対おかしいじゃん。学校は何やってんだよ……!」
 クラスの皆の会話に聞き耳を立てていた夏樹の隣で、男子生徒が苛ついたように吐き捨てた。
「あぁ、まあ、間違いなく何か隠してんだろな」
 後の生徒が椅子に伸びて低く呟く。そして頭の後で手を組んで目を瞑り、
「ま、俺らがジタバタしても"取り憑かれ"る時にゃ"取り憑かれ"んだろってことよ」
 大きく欠伸した。



 校舎の建物にコの字型に囲まれた一角。楕円の形に土を盛り上げたところに青々と芝生が植わっている。そこに創立時からあるという松の大樹が老人の腕のような枝を互い違いに伸ばしていた。
(さっきの子は、たしかこの中庭で倒れたのよね)
 夏樹は松の老樹の肌に手をあて仰いでみた。
 松の枝越しに明るい青空が見えた。昼休みの校舎の窓から生徒たちの喧噪が届く。
 あたりに異様な雰囲気は感じない。
(場所は関係ないのかなぁ……)
 そんなことを考えながら、松の根元に腰を下ろした。
 校舎と校舎に挟まれた間の開けたところからグラウンドが見えた。
 あれは野球部のマネージャーだろうか。重そうなスポーツバッグを肩にかけ、何本かのバットを抱えてふらつきながら歩いていく女子生徒の姿が見えた。
(あーあ、あんなに頑張っちゃって。制服が汚れなきゃいいんだけど)
 他人事のようにその様子を見守っていた夏樹の視界に、もうひとつの影が映った。
(あ……?)
 学ランを着た男子生徒が一人。前を行く女子生徒を追いかけていく。
 その身のこなしが普通でなかった。
 足を運ぶ間も、頭の位置にズレがない。距離の離れたここからではわからないが、おそらく足音もないに違いない。
 人とは思えない動きに、とっさに夏樹は立ち上がった。
(あいつか! あいつが妖魔か! みんなあいつに襲われてこの騒ぎになっていたんだ!!)
 夏樹は駆けだした。
 ブレる視界に、学ラン姿の妖魔が女子生徒へと掴みかかる光景が、スローモーションのように映る。
「その子を離せぇっ!!」
 声を張り上げ、届いた手で学ラン妖魔の襟首をむんずと掴んだ。
 学ラン妖魔が目を見開き、首を振った。
「邪魔するな!」
 カチンと来たのは夏樹である。
「邪魔するなだぁ!? 化け物のくせに生意気よッ!!」
 力任せに引っ張ってみた。が、学ラン妖魔の身体はその年相応な体つきという見かけによらず、根っこでも生やしたかのように動かない。
「こんのぉ! 化け物っ!! ちょっと! その子をっ! 離しなさい、よッ!」
 首に両腕を回して無茶苦茶にを引っ張っていると、
「ああ、もう! 誰か知らんが、おまえはとっとと逃げろ!!」
 夏樹の身体に、痛みと衝撃が走った。
(あいたぁ……)
 気付けばグラウンドの砂地の上に転がっている自分がいた。
 どうやら学ラン妖魔に突き飛ばされたらしい。
 何が起こったのかわからずに身を起こすと、学ラン妖魔は女子生徒の顎下に向けて掌底を突きだしていた。
 やめろ、と叫びかけた夏樹は、思わずその声を飲み込んだ。
 絶対に入ると思った学ラン妖魔の掌底を、バットを投げ出した女子生徒が身を翻して躱したのだ。
 宙へと舞い上がるように飛び退る。制服のスカートが風を孕んで膨らんだ。
(どういうこと!? もしや、この少年ではなく、あの女の子が!?)
 学ラン少年が、続けざまに踏み込み、引いた腕の反動を乗せて回し蹴りを放つ。低い位置からの胴体のド真ん中めがけて走った踵には、相当な重みが乗っていると見ただけでわかった。
 まともに喰らえば肋の五本やそこらは軽く折れるに違いない。
 ただし、まともに喰らえば。
 女子生徒の肩からスポーツバッグのベルトが滑り落ち、中身のぱんぱんに詰まったバッグが放られて飛んだ。
 学ラン少年の踵がバッグの土手っ腹に食い込む。
 パァン、という予想外に高い音を立ててバッグが破裂した。
 ユニフォームが、タオルが、靴下が、弾けたジッパー部とともにあたりに散らばり落ちる。高らかな笑い声が響いた。
「あんたが尾行ているのはわかってたよ」
 眼前で笑う女子生徒の形相が見る間に変貌していくのを夏樹は見た。
 目が険悪に吊り上がり、肩までの黒髪がざわざわと伸び、爪も長く伸びていく。まるで早送り映像を見ているようだ。しまいに唇の端が真っ赤に裂け、女子生徒の制服を纏った女妖魔は学ラン少年を笑った。
「私を追いかけて来たってことはちょっとは自信があるんだろ? 少年。だが、たかが人間の分際で私を亡き者にしようとは見上げた根性だ」
 ねっとりとした声で小馬鹿にするよう言った女妖魔に対し、学ラン少年の表情は飄々たるものだった。
「おまえを無くしたいとか泣かせたいとか俺は考えてねぇ。俺はただ真っ当に勉学に励みたいだけだ。学費払ってるの俺なんで」
 まともに取り合う風もない学ラン少年の返答に、女妖魔は少し奇妙な顔をした。
「ガクヒ……? 少年、貴様は馬鹿か? おまえの命が天秤にかかっていると……いう、もの、をッ!!」
 女妖魔が頭を振ると、長い髪が蛇のようにうねって伸びだした。太さを増した黒髪が学ラン少年を巻き取りにかかる。
「俺は天秤に乗って遊んだことは、ない!」
 しかし学ラン少年は驚くべき速さで身を低め、異形の髪をかい潜って女妖魔の懐元へと飛び込んでいく。
「わけのわからん!!」
 眉間に皺を刻んだ女妖魔が吐き捨てるように言った。
「まあ、予想外のギャラリーもいることだ。細切れにしてくれる!」
 夏樹の顔へとチラと視線だけをくれ、学ラン少年の喉元を掻き切らんと鋭い爪の伸びた手を叩きつけた。
 その異形の手首をがっしと掴んだのは、学ラン少年の手、ではなく。駆け寄った夏樹のそれだった。女妖魔が驚愕に目を剥いていた。


 夏樹も驚いていた。
 目の前のいろいろなことに驚いていた。
 自分が妖魔だと見抜けなかった女子学生を、目の前の少年が見抜いていたこと。
女妖魔も言っていたように、人間であるはずの少年が人間の能力を遙かに超えた動きで戦っていること。
 夏樹は思い出していた。
 ある夏の日の記憶の断片が蘇る。
 あの日、自分は幼く、何もわからなかった。自分の力のコントロールの仕方も知らなかった。
 小さな掌の中に、血まみれになって縮れた髪の束と、何か酷く強大な力に引き毟られたらしい黒焦げの頭皮が残っていた。
 泡のように浮かんだ記憶が弾けて消えると、新たな記憶がぽかりと浮かんだ。
 小学校の運動会。父兄や全校生徒の歓声で湧いているべきグラウンドが、水を打ったように静まっていた。100メートル走で他の子たちがグラウンドを半周もしない内に自分はゴールに飛び込んでしまった。ゴールに立ち尽くす自分の耳に、方々からの「あの子、人間じゃないんじゃない……?」と口々に言う声が聞こえた。
 また記憶の泡が弾けて浮かんだ。
 中学生になって、周囲が夏樹の異常な能力に慣れて来たように見えだした頃、上級生から呼び出しをくらった。部室の前で、ずらりと並んだ上級生たちが腕を組んで自分を忌々しげに睨みつけていた。
『あんた、その卑怯な力、使わないでくれる?』
 体育会系の部活では引っ張りだこだった。選手に選ばれるのはいつも自分だった。良かった、私のこの力もちゃんとしたことに使えば使い道がある。そう思いはじめていた矢先だった。
『……卑怯な、力……』
 喉から嗄れた声をやっとのことで絞り出した。
 記憶はそこでぷつりと途切れていた。
 人が血の滲むような努力して、ようやく得られるかどうかという力。それを遥かに超える力を、何の因果か自分は生まれながらにして持った。努力して得たものではなく、自分の血のなせる力。夏樹の力を卑怯な力だと言った上級生の言葉が、心の深い部分に突き刺さっていた。「そうだ、フェアじゃない」と。
 高校生になった今でも夏樹は大会には出られずにいたのだ。
 あの日以来、部活でも日常でも力をセーブして、自分と同じ一年生たちの指導だけにあたっていた。
 ずっと、後ろめたかった。引け目のようなものをずっと感じてきたのだ。ずっと。
だが。自分の目の前にいる少年はどうだ。
 十中八九、尋常な人間の力ではない。どのように得たのかは知らないが、彼はその力を躊躇することなく行使し、得体の知れない妖魔と互角に渡り合っているではないか。
(そうか、私の力は、こんなふうに使えばよかったんだ)
「……よぉ、し」
 夏樹は呟いた。女妖魔の手首を握った拳へと、ギリリと力をこめた。
 夏樹の腕を紅の獣毛が覆いはじめる。全身から迸る闘気に逆立った獣毛が、肩先までを一気に紅に染めた。段違いに漲りだした力のせいか、女妖魔の骨の軋みが掌に伝わってくる。
「おのれ、貴様もか!!」
 目尻が裂けるほど目を見開き、女妖魔が吠えた。
 学ラン少年は夏樹の変化を見ても驚くどころかどうという顔もしなかった。それどころか、「さあやるぞ」とばかりに唇を窄めて息を吸い、掌に気を溜め込んでいる。女妖魔は激しく目を瞬き、そして叫んだ。
「待て!!」
「待たん!!」
 間髪入れずに答えた学ラン少年を、しかし女妖魔は見ていなかった。夏樹を睨み付けて、裂けた口元に笑いの形を刻む。
「良いのか!! この魂たちがどうなろうとも!」
 吸血鬼のような乱杭歯の隙間から青白い光の塊が覗いていた。
「魂、たち……?」
 夏樹は、はたと動きを止める。
「ちょっと、あんた、待ちなさいよ」
 気を溜めた掌をいまにも繰り出そうとしていた学ラン少年が、夏樹の言葉に黙って腕を退いた。
 女妖魔が言った。
「そう、生徒たちの魂だよ。活きの良い魂だ。私の大好物でね。だが、奴らは今頃、生死の境を彷徨っているだろう。私の臓腑の中でこうして徐々に消滅していく魂だが、逆に言うと、私を殺せば、諸共に。良いのか?」
 学ラン少年では取り引きにならないと悟ったらしく、夏樹を見て笑う。
 そして言い終えるや否や、わずかに緩んだ夏樹の腕を振り払い、高く跳躍した。
「あ!!」
 女妖魔は空を翔け、近くの校旗掲揚塔へと飛び移った。
「ええい! ちょろちょろふわふわと逃げ足の速いヤツ!」
 夏樹が歯噛みしていると、学ラン少年が身を起こした。
「おい、おまえ。ちょっと力を貸せ」
「え。力を貸せって言われても、ええと」
「あいつを殺しちまったら魂ってヤツも駄目になってしまうんだろう?」
「うん、そんなこと言ってたわね……」
「ウソかホントか知らんが、万が一ホントだったら寝覚めが悪いんで、今から俺があいつの動きを封じる。だから、おまえが軽く失神させてくれ」
 そう夏樹に耳打ちすると、学ランを脱ぎ落とす。
「失神!?」
 妖魔を軽く失神させろなどとははじめて聞いた。先ほどから妙なことを口走るやつだなとは思っていた夏樹だったが、
「で、あの口から魂ってヤツをガッポリ引きずり出してやればいいんだよな……」
ブツブツと呟いている少年を、呆気にとられて見つめる。
 そんな夏樹の視線に気付いているのかいないのか、少年は既に駆けだしていた。
 校旗掲揚塔の上からこちらの様子を窺っていたらしい妖魔が、ふん、と鼻で笑うのが聞こえた。
「ふたりで何をやろうってのか知らないが、おまえらは素直な子だな。騙しという言葉も少しは学習するがい……」
 挑発するかの声が、途中で途切れる。
 かわりに鈍く重い金属音が響いた。
 見ると、掲揚塔の足下、赤茶けた色に錆び付いた基部へと両腕を突っ張り、重心を落とした姿勢で掌を押し当てている少年の姿が見えた。
 組み上げられた鉄筋が震えているのか、不気味にオンオンと共鳴している。
 そして不意、基部が崩れた。
 不穏な様子で揺らいだ掲揚塔が倒れてくる。
 塔の突端に身を落ち着かせていた女妖魔もさすがに予想していなかったと見え、不様に足を滑らせた。
「ガキが舐めた真似を!! 二人とも纏めて始末してくれるわ!!」
 バネでも入っているかのように空中で突端を蹴り、身を回転させ、逆さまに墜落してくる。その突き出した両腕の掌で旋毛風が起きるのが見えた。
「カマイタチが来るぞ!」
 夏樹と同じに女妖魔を見上げていたが、一転して夏樹の方へと駆け出した少年が、低く短く叫んだ。
 女妖魔が腕を振り下ろし、大気を薙ぎ払う。
「危ねぇッ!!」
 駆けて来た少年が、夏樹の前に背を向けて立ち、両腕を広げた。
 超高速で切られた空気が立てる嫌な音を聞いた、と夏樹は思った。


 悲鳴を上げていた。
 目の前でカマイタチに八つ裂きにされたらしい少年の身体から、何本もの赤い帯のように鮮血が噴き上がる。ぐらりと傾いだ身体が、夏樹に倒れかかり、仰向けに、どう、と崩れ落ちた。
「ああぁっ!!」
 思わず少年の身体に取り縋り、肩をゆさぶる。
「ふん、私を辱めるような真似をするからだ」
 そんな女妖魔の声を聞いたような気がしたが、夏樹にはどうでもよかった。
 肩も腕も首元も全身を切り刻まれた少年の身体から、血がどくどくと流れている。
 まだある脈動に合わせて溢れる血液を止めたくて、夏樹はすっぱりと切れた傷へと手を当てた。だが、手はふたつしかないのだ。覆っても覆っても別の箇所から次から次へと黒くて熱い血が溢れてくる。
「止まって、止まって、止まってよ!! 嫌だ、いかないで、止まって……!!」
 血に塗れてぬるつく手を無茶苦茶に傷口へと押し当てる。
 夏樹の視界がぼやけた。
 名も知らない少年だったが、夏樹にとっては大きな意味を持つ少年だったのだ。
(私はこの力を持っていてもいいんだって、あなたを見たから、あなたに逢ったから、生まれて初めて思えた。まだ、あなたに名前も聞いていないのに)
 異常に重く感じる少年の頭を膝に抱えて項垂れる。
「あぁ……」
 頬を濡らしているのは自分の涙らしいと、遠のく意識の中で思った。
 身を丸めて座り込んでいる夏樹の背に、炎の柱が立った。



「うあああぁぁ……ッ!!」
 嘆きの声が太く獣じみた声へと変わり、火柱も太さを増して夏樹の身体を包み込む。
 やがて燃え盛る炎を背負い、夏樹は立ち上がった。
 もはや「夏樹」とは言えなかったかもしれない。獣面に近い顔が牙を剥き、真紅の舌を覗かせている。四肢はおろか全身をも、緋色と漆黒の縞が荒々しく走る獣毛に包み、仁王立ちする紅蓮の虎女がそこにいた。
 地を踏みしめている脚も紅の獣毛に覆われ、虎の剛爪が地面を噛む。
 金色に染まった目は瞬くことも知らない。双眸に電光すら帯びた虎女の大音声が辺りを揺るがした。
 火の移りそうなものなど何も無いグラウンドに、身の丈をゆうに超える炎の壁が立ち上がる。
 天へと落ちる滝のように噴き上がった炎。それは夏樹を中心に放射状に走り、地面すら溶かしながら、辺り一面を舐め尽くしていく。熱気のせいで起きた大気のゆらぎの中に、咆哮を上げる虎女の影が暗く揺れた。
 夏樹はどこかで上がった断末魔の悲鳴を聞いたような気がしたが、視界はただただ赤く染まっていて、もうわからなかった。



「あちぃ……」
 掠れた小さな声だった。
「あち、い」
 続いて咳き込むような音。
 耳に届いたその声に、夏樹は我に返る。
 あたりは一面火の海だった。突風を起こして燃え上がる火のただ中、焼けずに残っている一箇所に自分は佇んでいた。
 自分が何をしていたのかわからなかった。記憶のない間に何をしていたのかはわからなかったが、またやってしまったのだ、ということはわかった。だが、感じた罪悪感は不思議と薄かった。
 それよりも、聞いたのだ。聞こえたのだ。声が。
「生きてる!? ちょっと! 大丈夫!? ねぇっ!」
 息を吹き返したらしい少年の元へと駆け寄る。
「俺は……大丈夫。急所は、外して……ある」
 そう言いつつも口から血泡を吐く少年の上半身を、夏樹は慎重に抱き起こした。喉に溢れているはずの血液で窒息してはいけない。
 だが、少年の顔は笑っていた。
 夏樹はそのことに驚いた。この年がら年中無表情でいそうな少年が笑っている。
「あー……。魂ってやつが飛んでくトコってはじめて見たぜ。ホントに飛ぶんだなぁ……」
 どうやら感心しているふうなのに、ほっと胸を撫で下ろすやら腹立ちがこみ上げてくるやら、夏樹は唇を尖らせて見せた。
「もう、そんなこと言っている場合じゃないでしょ! いま……」 
「なかなか……やるじゃねーか、おまえ……」
「ちょっと静かにして、いま人を呼んでくるから……って、え?」
 耳に捉えた少年の言葉に、思わず聞き返してしまう。
「おまえ、なんてぇの? ……名前」
 そう言って自分を見返してくる少年の血みどろの顔に、夏樹はふたたび目尻にこみ上げてくる熱いものを覚えた。
 胸を焼くような熱い息を逃そうとこっそり深呼吸した。
 そして、そっと息を吸う。
「私、夏樹。瀬名、夏樹……」
 語尾がこらえた嗚咽に震えてしまったのを、この少年は気付いたかもしれない。でも、もうそれでもよかった。
 少年は、口だけを動かして「ナツキ」と声無く呟き、それから「ふぅん」と言った。
「夏樹、かぁ。……俺は九郎だ。ええと……あ、神木だ。神木九郎」
 自分の名前を忘れていたかのような九郎の返事に夏樹は笑った。泣きながら声を上げて笑った。こんなに心の底から笑うのがいったいいつぶりのことなのか、夏樹には思い出せなかった。
 目尻を濡らす涙を拭って、込み上がって止まらない笑いを無理矢理おさめながら、夏樹はそっと九郎の身体を地に横たえる。
「頭、息が苦しくなかったら横にしてて。人、呼んでくる」
 そう告げて立ち上がりかけた夏樹に、九郎が低く唸った。
「ていうか、あの、夏樹」
「ん? 何?」
「その、なんだ……その前にまず、隠した方が、いいんじゃねぇかな……」
 九郎の言葉に、はっと自分の姿を見下ろした。
 胸も腰もその下にも、隠すものひとつくっついていない自分の身体の肌色が目に飛び込んできた。虎女に変化したときに、制服も下着もすべてがあとかたなく焼けてしまったらしい。そしていま、自分の身体は人間の姿に戻っていた。
 頬に一気に血が駆け上がる。考えるより先に拳が出ていた。
「早く言いなさいよぉ!! こンの、どぉスケベがぁーっ!!」
「いっでぇーッ!!」

 相変わらずの火勢で燃えさかる炎の海のただ中に、ぶん殴られてもんどり打つ少年と、慌てて少年の身体を揺さぶる少女の影がもつれあっていた。



 《焔虎》の末裔瀬名夏樹の、神木九郎との運命の邂逅である。





<了>
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
工藤彼方 クリエイターズルームへ
東京怪談
2009年10月26日

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