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『 Divine One――【2】 』
深沢・美香6855)&(登場しない)

 最終電車の車内は実に混みあっていた。
 ドアが開くたびに乗り遅れまいと必死の形相で駆け込んできた客が、ドア付近にぎゅうぎゅうづめになって、奥へ詰めろとばかりに身体で押してくる。
 定刻よりも少し遅れてホームを出た電車の中で、美香は辛うじてつり革を握り、考えていた。
 あの方位磁針はポケットの中にある。占い師が貸してくれた方位磁針。
 あの占い師は何者だったのだろう。別れたあとに忽然と姿を消したように見えたのは、あの占い師のどこか謎めいた雰囲気のせいで、まるで人ではないものののように、そう見えたのかもしれない。
 ポケットの中に手をいれる。
 硬い金属質の感触が変わらず指先に触れた。
 隣を見れば、つり革を握る腕に額を押しつけて目を瞑り、電車の振動に揺られているサラリーマンがいる。もう一方の隣を見れば、ドア付近のバーを握って呂律も怪しいダミ声で話している初老の男たちがいる。目の前のシートには、メタリックピンクの革の鞄を抱いて、歳は美香と同じほどに見える若い女性が船を漕いでいた。閉じた目元の睫の下には隈が見えた。
 手に触れている方位磁針を握りこむ。
 占い師の声が脳裏に蘇った。
(『頑固で、そのくせ情に流されやすくて、なのに変なところで慎重だ』)
 あの占い師が言ったように、私はたしかに人の差し伸べてくれる手を振り切ってきたことは多かったかもしれない。崖っぷちにしがみついているときに伸べられた手を取れば、あと一歩で這い上がれるという時にその手を振り払われたことは少なくなかったからだ。だったら、始めから手を取らなければいい。崖から足を滑らせたのは自分だ。自分の責任で落ちてしまえばいい。余計な期待をした挙げ句それが目の前で消えるのは傷つくし、傷つくことには慣れていると思っていても、酷く疲れる。
 だから、もう長いこと伸べられた手は取って来なかった。
(『そのくせ情に流されやすくて――』)
 そうあの占い師は言った。
 見過ごせなかったのだ。
 自分がいったいどこにいるのかもわからないままに人に裏切られ、この先どうなっていくかを考えることも出来ず、茫然としたまま崖から落ちていこうとしている自分よりも年若い女の子たち。
 彼女たちは、家を出て間もなかった頃の自分にそっくりだった。
 自分そっくりな子たちを、見殺しにしたくなくて、何度もその手を取った。
 だが、わかったのは「人を助ける」ということはそうたやすいことではないということ。むしろとてつもなく難しくて、もし本当に助けたいならば、自分も一緒に崖から落ちてもいいという、自分の命を懸けるくらいの覚悟でやらなければならないものだということだった。
 田舎からほとんど無一文で出て来て早々にその道の男に捕まった女の子がいた。最初は猫なで声だったのだろう。何も知らずにとんでもない内容の契約書に判を押して衣食住の世話になったばかりに延々とつきまとわれ、夜の街で金ヅルとして働かされるだけ働かされて、外出もままならないというほとんど軟禁状態の生活に泣いていた。身体を壊しかけている様子を見るに見かねて、ノルマを少しでも軽くしてあげたくて、いくらかの肩代わりをしてあげた。いつしか負担が減ったためか表情も明るく、口数も多くなり、「美香さん」、「お姉さん」、「ずっと一緒ね」と可愛らしく懐いてくれるようになった。歳はそれほど離れていなかったが、まるで自分にはいない妹が出来たようにように思えて、あの時期は心があたたかかったのを覚えている。その約二ヶ月後、
(あの子は私を身代わりにして消えた)
 美香は心のうちに笑った。
 ああいう子たちは、自分よりもよほどしたたかで、風向き次第で軽く前言撤回してみせる大胆さと、ふてぶてしさ、そして何よりも、無用な自責の念にかられない太い神経を持っているのだ。きっと。自分が生きるためには仕方が無かったこととわりきっているのだろう。
 自分は馬鹿だなぁ、と思う。
 あの子を恨んでいないのかと言われたら、自分は恨んでいると答えるだろう。私はなにも聖人じゃない。
 だのに、あれから私は何度同じようなことをしただろう。その度に自分の身を半ば滅ぼすようなことをしただろう。その結果が今の自分だ。
(でも、私、駄目なのよ。あの顔を見ちゃうと、あの目を見ちゃうともう駄目)
 手を伸べずにはいられないのだ。
 それが自分の破滅を意味するものであったとしても。
 なるほど、あの占い師が言ったように、適性のない世界に自分は身を置いているのかもしれない。
(なんだっけ、あの子たちの表情。あの子たちの目。悲しみや苦しみも感じられずにいるみたいに、ただただ呆然として私を見ていたあの顔。テレビで見た何かに似ていた……)
 ああ、とつぶやいて美香は思わず目を閉じた。
 思い出した。
 テレビの中で小さな子犬が鳴いていた。ただし、錆び付いた鉄格子の中で。1匹や2匹ではなく、すし詰めに詰め込まれた犬たちが、喚き散らすように吼えていた。その中には収容檻の隅のあたりで小さく丸まって動かないのもいた。
 間もなく行われる『処分』を待っている犬たち。
 午後のワイドショーの一場面だった気がする。飼い主から見捨てられた犬たちが、たったひとときの残酷な余生を過ごす最後の場所。
 薄暗がりに狭苦しく蹲っている灰茶色したポメラニアンの子犬が、まん丸に見開いた黒い瞳を向けて、ものも言わずテレビの中から美香を見上げていた。
 あれを見た時、美香はしばらくテレビの画面から目を逸らすこともできなかった。
 罪もない小さな命がかわいそう、だとか、無責任な飼い主に憤りを感じる、だとかいう理由からではもはやなかった。思い出してしまった今、瞼の裏に焼き付いて早々離れそうにない。あの、瞬きもしない茫然とした瞳。
(みんな、同じ目をしていた……)
 次の停車駅を知らせるアナウンスが聞こえた。
 目の前のシートで船を漕いでいた女の子の上半身がぐらりと大きく傾いで隣の乗客の肩に頭を乗せる。隣のサラリーマンは一瞬迷惑そうな顔をしたが、押し返すこともせずに目を閉じた。
 鼓動のように規則正しい電車の機関音が眠気を誘う。
だらりと力の抜けた女性客の投げ出された手と脚を見ながら、美香は思った。
 たとえわずかの間であっても、この背に乗る重みを共に背負ってくれる人が、私の未来にはいるのだろうか。
 美香はそっとポケットの中から方位磁針を取りだした。透明な覆いの中で、針は静かに回り続けている。
 ガクン、と靴の裏に衝撃を感じた。
 何だろう、と思う前に頭上の照明が消えた。ひしめく客の姿を飲み込んで、車内に闇が満ちた。
 水を打ったように静かになったのはほんの一瞬のことだった。一転してどよめきが起きる。それはみるみるうちに膨れあがった。主電源が落ちると自動的に稼働するのか、小さな非常灯がともり、驚く乗客たちの表情がわずかに見えるようになった。
 足の下に車輪とレールが擦れ合うような嫌な軋みを聞く。身体にかかる力で列車が止まりかけているのがわかる。
 見知らぬ客同士が互いに顔を見合わせ、口々に何が起きたのか、と呟きだした。
「ご乗車のお客様にお知らせいたします」
 乗務員の雑音混じりの声が頭上から降ってきた。
「この電車は、まもなく停車いたします。急停車する場合がありますので、お近くの吊革におつかまり」
 早口気味の音声に、ゴツ、という音が混じり、アナウンスはぷつりと聞こえなくなった。 アナウンスが途切れたことにいっそうの不安を募らせた乗客たちの声は、もはや呟きではなくなっていた。
 窓の外は闇一色だ。いつ雨が降り出したのか、水滴が窓の表面に次から次と流れ落ちていた。車内の人いきれに白くなった窓ガラスの向こうには、滲んで街の灯りが見える気がするが、たとえそうだったとしてもあまりにも遠く感じる。
 たしかさっき停まった駅の名前からして、いま電車がいるのは川近くだろうか。
 隣のサラリーマンは飲み屋の帰りか酒の匂いを漂わせていたが、顔は素面そのものだ。両脇と後ろの客から肩をこづかれ、背をこづかれながら、美香は思った。
(私、どうなってしまうんだろう)
「……のお客様にお知らせいたします」
 テレビの砂嵐のような雑音に混じり、まるでしわがれ声に聞こえるアナウンスが天井から降ってきた。
 客たちがはっと顔を上げて、耳を澄ます。
 ざわついていた車内は、しん、と静まった。
「落雷の影響により、当車両は急停止いたしました。――には大変ご迷惑をおかけしております。復旧の目処がつき次第――」
 切れ切れのアナウンスはそこでまたぷつりと止んだ。
 だが今度はさほどの間を置かず、スピーカーからノイズが吐き出された。
「ご乗車のお客様にご連絡いたします。現在、当電車の復旧の目処はついておりません。つきましては次駅にて代行輸送を行います。次駅までは乗務員がご案内いたしますので、ご降車の際は乗務員の指示に従い、先頭車両のお客様から順次――…」
「復旧の目処はついていない」というあたりで一挙に起こったどよめきにアナウンスの続きは半ば掻き消されたが、相変わらず薄暗い車内の中で中で美香は必死に聞き耳を立てていた。
(電車を降りて、次の駅まで案内って……)
思わず窓を見る。蒸気で曇った窓ガラスにバチバチと音を立ててぶつかり弾ける黒い雨雫が見えた。斜めに叩きつけられているそれを見る限り、風もあるらしい。
 今朝のニュースでは夜半には雨が降るだなんて言っていただろうか。傘は持ってこなかった。
 隣駅までどれほどの距離があるのかわからない。川の上だとすれば、どこをどれだけ歩くことになるのだろう。
 冷たい風が足もとを攫った。ドアが外から開けられたらしい。
「こちらの車両のお客様、前の方から順番にお降りくださーい!」
 乗務員の張り上げる声が聞こえたとともに、美香の車両の客たちはどっとドアに詰め寄せた。押され、爪先を踏まれ、背中にバッグのものらしい角がぶつかった。
 出口を求めて流れる人並みに押し倒されそうになって思わず吊革を握ったが、それでもともすれば身体が持っていかれそうになる。まるで自分は川の流れに逆らっているかのようだ。
(降りなきゃならないんだろうけど、降りたらどうなるの? このハイヒールじゃそんなに歩けないし、どれだけ雨に濡れることになるのかわからないし)
「押さないで! 押さないでくださーい!」
 乗務員の声が聞こえた。
「歩道が狭くなっています! 危険ですから押さないでください! 一人ずつ、縦一列に並んで進んでください。川の上の歩道ですので、歩道が狭くなっています! 低い手すりになっておりますので、大変危険です! 一人ずつ縦に並んでゆっくりと進んでください! そこのお客さーん、ゆっくりと進んでくださーい!」
 出口のあたりから若い男女の悲鳴が聞こえた。
「うわ、つめてぇっ」
「ちょっと! 足もとが揺れてるんだけど! 怖い!」
「やだ! 前、見えないよ!?」
 不安だった。
 先が見えない不安。
 このあとどうなるんだろう、という考えで頭の中がいっぱいだった。
 風が吹いて、何かに足を取られて、川の中へ真っ逆さまに落ちたとしたら?
 この暗闇とこの混乱、もしも自分が川に落ちたとしても、誰一人として気付かなさそうだ。
「そこの女性の方、こちらからどうぞ。足元に気をつけてください」
 帽子の先から水滴を滴らせ、肩も腕もずぶ濡れの乗務員に促され、しかたなく乗降口から降りる。ためらうための時間はもらえなかった。
 乗務員が言っていたとおり人が一人半分ほどしか通れなさそうな歩道の足下は、金網なのだとわかった。ハイヒールの踵が一歩歩くごとに編み目に引っかかり、潜り込む。
 降りるなり、前髪から伝った水滴が顔を濡らしはじめた。氷のように冷たい雨が、顎から鼻先からしたたり落ち、胸元を濡らす。吹き付けてくる川風のせいか、あっという間に濡れた肩先から寒気が襲いはじめ、手すりを握った手も冷たくなっていく。
 ふと見ると、前を行く女性の背は雨風にそうさらされてもいなかった。黒い蝙蝠傘でしっかりと身を守っている。そして、そのさらに前には友人なのか恋人なのか中年の男がいて、しきりに後ろを振り向いては案じ顔に「大丈夫か」と声を掛けている。男は濡れ鼠になっていた。なるほど、この女性の蝙蝠傘はもしかしたら男のものなのかもしれない。
 女性は、寒いだの歩きづらいだのと言いながらも、「大丈夫」と返事をしている。声が少しほほえんでいた。
 辛く苦しく先の見えない道行きであっても、手と手を取りあって進めばほんの少しは楽に感じる、のだろうか。
 がく、と足首が折れ曲がった。熱く灼けたような激痛が走る。
「いたっ!」
 ヒールが金網の目に挟まったらしい。なかなか靴が外れない。挫いた足首を撫でながら、かじかむ指でヒールを掴んで引き抜こうとしていると、少し後ろのあたりから若い男のもののような声が上がった。
「ちょっと! なにしてんだよ、早く進めよ!」
 頬に血が上るのがわかった。
 足が痛い。
 もう、しゃがみこんで泣いてしまいたいほど痛いのに。
 鼻の奥がつんと熱くなった。
 目頭にこみあげてきた潤みが、よくは見えない視界を滲ませる。
 いま鼻の脇を伝っていくのは雨の滴ではない。
 歪んだ視界をどうにかしたくて、誰に見られるはずもない涙を誰にも見せたくなくて、ハンカチを探した。
 コートのポケット入れた手が、硬い物に触れた。
 方位磁針。
 何を考えたわけでもなく、次にはそれを握りだしていた。
 美香の手のひらの上で方位磁針はその針を音もなく回転させ――
(え!?)
 美香はその目を疑った。
 針の回転が目に見えて遅くなっていた。
 きっとさっきまではこんなに遅く回っていなかった。もっともっと軽快に回転していたはずだ。
 針が、止まりかけている。
 方角を示す八つの矢印が刻まれた盤の上で、赤と黒に塗られた針がどこかを示そうとしている。
 占い師の顔が目に浮かんだ。
 これが、私の未来を決めてくれるのか。
 今まさに、私の未来が決まろうとしているというのか。
 ふっと、手のひらを冷たく叩く雨粒を感じなくなった。
 違和感を覚えて顔を上げる。雨はやんでいない。
 おかしいと思って見上げると、黒い傘が大きく天蓋を広げるように頭上を覆っていた。
 背後から伸びている傘の柄。
 美香は振り返った。





<続く>


―――――<ライターより>

いつもありがとうございます。工藤です。
「Divine One」の【2】をお届けします。
今回は美香さん受難の巻でございました。
が、現在、例の胡散臭い占い師が貸した
方位磁針の針が止まろうとしております。
次回の発注文には、八方位のいずれかの方角を
お書き添えください。
これが美香さんの後ろから傘を差しだした人+αを
決めるものになります。
(ですが、もし特定のPCを指定したいなどのご要望が
おありの場合は、どうぞそちらでご指定ください)
私信をありがたく拝読いたしております。
美香さんの未来がどんなものになるかは、
完全に運任せ要素という感じになりますが、
楽しんで頂ければ幸いでございます。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
工藤彼方 クリエイターズルームへ
東京怪談
2009年11月30日

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