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『ふるさとへ 』
ククノチ(ec0828)&レオ・シュタイネル(ec5382)

 暖かな声が胸に残っている。
 『またおいで』そう言って愛しんでくれた、あの人の声。
 記憶の中に残る声とは違うけれど‥‥どこか懐かしい、声をまた聞きたくて。

●婆様の許へ
 寒風の合間に差す陽の暖かさにほっとする晩秋の頃。街道をゆく三つの影があった。
 対の雛が如き小さな二つの影と、大きな大きな影ひとつ。
「イワンケ殿」
 見上げてきた主――ククノチの呼びかけに、キムンカムイのイワンケは小さく鳴いて応じた。陽を浴びた毛皮はもこもこと暖かく、木枯らしを避けるようにイワンケへ寄り添えば、陽だまりに護られているような安らぎを覚える。
「レオ殿も、こちらへ」
 連れの少年にも声を掛ける。腕を広げて来い来いと呼ばうような仕草をするイワンケに少し笑って、レオ・シュタイネルはククノチの隣に並んだ。
 恋人の嬉しそうな様子が我が事のように嬉しい。
 レオは普段は巴里にいて、ジャパンは数える程しか来た事がないのだが、これから行く村の事はククノチからいつも聞いていた。村の思い出を語る彼女はとても穏やかで幸せそうで、だから彼は一度訪れてみたいと思っていたのだ。
『爺ちゃん婆ちゃんばっかりの村なんだよな』
 ここに居るのは二人と一頭のみだ。ゲルマン語で話しかけるのに遠慮は要らぬ。レオの問いに、こっくり頷いたククノチは、懐かしむような眼差しを行き先へ向けた。

 江戸から徒歩にして半日少々。山の麓にあるその村には、年寄りばかりが住んでいる。
 かつては若い家族も多く住んでいたのだが、年を経て子が成年を迎える頃には都市部へと居を移してゆく。江戸暮らしを好まぬ年配世代ばかりが残されて、いつしか爺婆村と化していた。
 ‥‥とは言え、村人達に悲壮な雰囲気はない。ただちょっと、加齢ゆえの不自由があるだけだ。
 村で執り行う流し神事の形代役を任せられる若者がいない――とか。
 重いものを持ったら簡単にぎっくり腰になった――とか。
 高い場所に上ったら降りられなくなった――というのは年齢関係ないが、運動神経の衰えは如何ともし難い訳で、手伝いが欲しい時にギルドを通じて冒険者達を頼んでいる。ほんの少し傍迷惑な方法で、なのだが。
『長老の爺ちゃん、どんな人だろうなー』
 レオの独り言にククノチはくすりと笑う。
 冒険者に手伝いを頼む際、この村の長老は決まって「妖怪が出た!退治してくれ!」などと別の口実を付ける。困った事に、いつもそれが本当になってしまうのだ。
 長老の口から出任せに振り回されるのは冒険者だけでない。長の代理でギルドへ出向く与平は五十を過ぎた壮年の猟師だが、村では若い部類で長の使い走りだ。毎度妖怪遭遇の貧乏籤を引いている。
 そして‥‥長老の茶飲み友達、おタカ婆。縁側で繕い物をしたり、自慢の梅干を茶請けに渋茶を啜って談笑しているだろうか。
 ――またおいで。
 おタカの優しい声を思い出す。もうすぐ会える、あの人の声。
(「喜んでくれると良いが‥‥」)
 土産にと買い求めた焼き菓子の包みを抱えなおし、ククノチは優しく目を細めた。

『あの家が、おタカ婆ちゃんちだな』
 初めて訪れるレオにも簡単にわかった。村に到着した二人が目にしたのは、おタカ宅の物干し竿に干された客用布団ふたつ。事前に巴里から文を出してはいたけれど、図々しい訪問ではなかろうかと気掛かりに思っていたククノチの心配は杞憂だったようだ。
 訪問者に気付いたか、家の中で人の気配がした。
「おタカ婆様‥‥?」
「おかえり、待ってましたよ」
 ククノチの呼びかけに現れた懐かしい顔。おタカは孫達の訪問を心から喜んで出迎えて、おや此方がとレオに向き直った。
「その‥‥レオ殿、だ」
『おタカ婆ちゃん初めまして!俺レオって言うんだ、よろしくな!』
 言語の違いなど何ら問題はない。レオの様子、ククノチの同時通訳で彼の友好的な挨拶はおタカにしっかりと届いている。はにかんだククノチの仕草に何か察するものがあったのか、おタカは嬉しそうに微笑んだ。
「おう来なすったか」
 家内にはまだ人がいた。再会を喜ぶ庭先に現れたのは、ちんまりした好々爺とがっしりした体格の老人。長老と与平の主従達だ。出迎えの準備をしていたと言うのだが――
「おタカさんが布団干す言うて聞かんでな‥‥来て早々じゃが、手伝うてはくれんかのう」
 何でも物干し竿に上げた所までは良かったが、肩に無理がかかってしまって取り込むのに難儀していたらしい。にこにこと用事を言いつける長老とは対照的に、与平は何だか申し訳なさそうだ。
「済まないな、客人に用を言いつけて‥‥」
「手伝いに来たのだ、気になさらずに」
『そうそう!爺ちゃん、婆ちゃん、何でも言ってくれな〜』
 早速、一仕事と相成った。二人と一頭で陽を浴びた布団を取り込む。ふんわりと膨らんだ布団はお日様の匂いがして、とても良い夢が見られそうだ。
 空を見上げれば快晴の青空、明日も晴れるだろう。明日から村の皆の冬布団を干そう。皆が気持ちよく眠れるように、冬の間も心地よく過ごせるように。

●孫達の冬支度
 翌日。
『ククノチ、おタカ婆ちゃん、行ってくるな〜!』
 言葉の壁など何のその、心は通じ合えるものだ。命を分けて貰う大切さを知るレンジャーと猟師が揃って山へ入って行く。
 弓を携え元気に家を飛び出すレオと与平を見送って、女達は保存食の仕込みにかかった。
「おタカ婆様、軒下の大根は頃合だろうか」
「そうさね、半月ばかし前から干しているから、もう良い頃だねえ」
 しんなりたわむように干しあがった大根を降ろして、まだ青々とした葉を残す採れたての大根を下げてゆく。まだ瑞々しくでっぷりと太った大根は軒下に重たげに揺れて、そのまま齧っても甘そうだ。
「婆様、今夜の鍋には、大根も」
「おお、入れようねえ。ぶつ切りの大きいのを煮て‥‥きっと美味しいよ」
 白菜に椎茸、鶏団子には刻んだ蓮根を混ぜ込んで歯応え良く仕上げて。和気藹々と睦まじく夕食の話をする二人は本当の祖母と孫のようであった。
 夜になって、戻って来たレオも交えて鍋を囲む。
『レオ殿?肉も良いが野菜もしっかりとな』
『‥‥うん』
 ともすれば鶏団子ばかりを選って食べているレオから椀を取り上げて、ククノチは白菜をどっさり入れてやる。
「おやおや、世話女房だねえ」
 おタカに茶化されて、ククノチが頬を赤らめた。
『なーククノチ、おタカ婆ちゃん何て言ったの?』
 赤面した恋人の様子が気になってレオが尋ねるものの、何と説明すれば良いのやら。困って頬膨らます娘が愛らしくて、おタカは微笑むばかり。和やかに夜は更けていった。

 それから数日は冬支度に大忙しだった。
 川魚を捕れば開いて塩を振って干物にし、渋柿をもいでは皮を向いて軒先に吊るし。保存食だけではない、村のあちこちで若い労働力は感謝された。
 はしっこいレオは手先も器用だ。身軽に屋根へ上がって雨漏りを修繕する。高い場所へ登ったついでに、村全体を見渡してみた。
(「雪吊りもした方が良さそうだなー」)
 村人達は高い場所へは登りにくいだろう。自分達がいる内にできる限りの冬支度は済ませておかなければ。
 次の仕事を見つけたレオは、うんとひとり頷いて屋根を下りて行く。

『イワンケ、その柱をこの辺りに立てて。うん、そのままそこにいて』
 屋根ほどの身長を持つキムンカムイのイワンケに、レオが指示を出す。己の身長ほどの長さの丸太を抱えていたイワンケは素直に従い、力強く地へ立てた。
 待機しているイワンケの肩を借りたレオは芯柱の頂上へ登った。地上のククノチと協力して、幾本もの縄を伝わせ枝を吊り固定する。
「見事なもんじゃのう」
 ただの雪害回避に留まらぬ芸術的な雪吊りに、長老が目を見張った。樹木を労わるだけでなく冬の景観も楽しみじゃと喜んでいる。
『春前になったら、外しに来なきゃなー』
 同時通訳していたククノチがはっとした。
 春が近くなったなら‥‥それは再訪を疑わぬ言葉で。彼女自身も願わずにはいられぬ事で――
(「また、こうして過ごせたなら‥‥」)
 静かに瞼を伏せたククノチの様子をいぶかったか、イワンケが首を傾げて見つめている。
 イワンケを伝って下りて来たレオがククノチと並んで言った。
『連れて来てくれて、ありがとな。こうやって一緒に居れるのが、ホント嬉しいよ』
 ククノチは伏目のまま、遠慮がちにそっと彼に寄り添った。
『‥‥レオ殿、ありがとう‥‥また‥‥』
 最後まで言えずに口篭った可愛い恋人へ、レオは「また来ような」頼もしく応えたのだった。
「桃の節句の流し神事に、是非またおいでなされ」
 少し過酷な、この村の春の風物詩。悪気なく長老が誘いをかける。睦まじい恋人達は笑顔でその誘いに頷いていたのだった。

●また、いつか。
 里を出る時に、二度と帰らないと決めていた。
 帰らない、否、帰れないと‥‥思っていた。自分は師の期待に応える事ができなかったのだから。
 師たる里の婆様は厳しさの塊のような方で、おタカ婆様とは違う‥‥はず、なのに。
 ‥‥少しだけ、重ねているのかもしれない。
(「おタカ婆様に会えて、良かった」)
 この村に来て、おタカ婆様と出逢って。自身に凝っていた何かが、少し解けたような気がした。

 合間に休憩を挟むのも楽しみのうちだ。
「キリのいいところで、お茶にしようねえ」
 ぽってりした素朴な湯呑みと自慢の漬物を盛った皿。日当たりの良い縁側へ持ち出せば、他には何も要らない贅沢な時間に変わる。
『婆ちゃん、この漬物美味いな〜』
 良い音を立てて沢庵を齧っているレオが少し大人びて見えた。食べてしまうのが惜しいねと、巴里の焼き菓子を一口ごとに味わっているおタカは小さい子のようで可愛らしい。
(「おタカ婆様にも、お子や本当の‥‥お孫殿がおられるのだろうか」)
 愛しんでくれる老女は自分が知る限り独り暮らしだ。自身の事は多くを語らぬおタカの身の上を面と向かって尋ねるのも憚られて、ククノチはそっとおタカへ視線を向けた。
「‥‥連れて来てくれて、ありがとうね」
 貴女の大切な人を、此処に連れて来てくれて。
 ククノチにのみ聞こえるような小声で囁いたおタカは、娘の雪白の手にそっと老いた手を重ねた。
 水気の抜けた手は干し大根を思わせて、老女が過ごした長い年月を偲ばせる。固くかさついた手はひんやりとしていたのに何故か暖かく感じて、ククノチは小さく首を振ると枯れた手を両手でそっと包み込んだ。
「会って欲しかったのだ‥‥おタカ婆様に」
 愛しんでくれた婆様と大事な人とを会わせたかった。どちらも大切な人‥‥きっと、これからも。
 願いと祈りを込めて、ククノチはぽつぽつと、だけどはっきりと言葉を押し出した。
「‥‥婆様、また四季の折々に‥‥良いだろうか‥‥?」
「勿論ですとも。いつでも帰っておいで」
 故郷は帰る者の為にあるのだから。おタカはそう言って包み込むように微笑む。何も問わず、何も語らず。だけど絆は確かにあった。
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2009年12月04日

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