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『焔虎、覚醒【1】 』
瀬名・夏樹8114)&(登場しない)

 ペダルが漕ぐたびにキイキイと軋んで鳴る。
 向かい風が汗をうばっていく。
 夏の風は生ぬるく草の匂いがして、なんだか胸がいっぱいになる。
 照りつける強い光線にじりじりと焼かれて、髪のてっぺんが熱い。
 ハンドルのつけねの金属部から照り返す日光が視界の端に眩しかったが、夏樹はそれよりも土手の下に見える川のきらめきに目を奪われていた。
 近頃の夏樹の様子を変だと言う者が一族の中に多くなった。
 何かに憑かれているようだと評する者がいるらしいことも、小耳に挟んでいる。
 何かに憑かれている。
 それはある意味では正しいのかもしれない。
 近頃の自分が、以前の自分とは違うことも自覚している。
 毎日、この川縁を訪れる私がそうだ。
 橋が見えてきた。
 土手から川縁へと下る坂道へと自転車を入れる。
 吹き上げてくる風にスカートが膨らみ上がり、一瞬、視界を狭める。
 もうだいぶ後に置き去りにしてきた河川敷では、野球のクラブ活動に励む子どもたちや釣りに興じる大人の姿も見えたが、このあたりまで来るともう人の姿はなくなる。
 正面にだんだんとその威容をあらわす橋の下は、丈の高い草が生い茂り、これほど晴れ上がった空の下でも暗く、寒々しい空気が視覚を通じて伝わってくる。
 そのまま自転車は脇の草むらに放って、橋梁の下へと駆け出す。
 まるで幾重もの壁のような緑濃い雑草を掻き分けて進むと、岸辺まで延々と積まれた石積みが現れ、それを越えると高いフェンスが立ちはだかった。夏樹の背丈を超えて余りある高さのそれには「私有地につき立ち入り禁止」との看板が針金で括り付けてある。
 夏樹はその注意書きを意に介す風もなく、フェンスに手を掛け、勢いをつけて駆けのぼり、一息にフェンスを飛び越えて、向こう側へと身を躍らせた。
 ここは焔虎族が密かに持っている所有地だ。
 ちょうど橋桁の真下にあたり、橋上からの死角となっている上、周りに河川敷の補修用の石塁が積み上げられていて横からの視線も阻んでいる。真夏でも陰気な空気を漂わせる場所だけに、人は滅多なことでは近付かない。むろん、長い間続いてきた焔虎族の秘密の修行場に人が近寄らないのは、なんとなく近付きにくい場所だからという理由以外にも、焔虎族が故意にほどこした仕掛け、つまりこの辺りの場所にまつわる良くない噂の類が、いまだに近隣の人々の意識に対して効力を持っているからなのだが。
 ざり、というごく軽い音を立てて、地面に屈み込む。
 フェンスの外からは一見雑草が隙間無く茂っていそうに見えたそこだったが、いま夏樹がいるそこはちょっとした広場ほどの広さで、黒い地面が剥き出しになっていた。そして黒ずんだ鉄パイプでできた梯子にしては幅の広すぎるものや、台のようなものがおかれている。
 夏樹は学生鞄を台の上で開くと、中からまだ汗を浮かべている冷えたコーラの缶を取りだした。
「あっつい」
 額と首筋を伝う汗を拭い、冷たく炭酸が弾けるそれを一気に飲み干す。
 あっという間に空になったアルミ缶を手の中に弄んで、広場の隅に置かれている台へと向き直った。
「よし、と」
 夏樹の目つきが鋭くなる。
 手の中のアルミ缶を台の上に据え、退くこと十数歩。夏樹はアルミ缶と対峙した。台の上の缶までは10メートルほどあるだろうか。
 手のひらを見つめる。
 視界の中で、手の先から鋭い鈎爪が伸び、指の背側から赤金色の獣毛が早回し映像でも見ているかのように伸びはじめる。それはみるみるうちに指の腹、手の甲へと広がり、手首から肘へと覆い尽くしていく。
 幼い頃、自分のこの手を禍々しいものだと毛嫌いしたことがあった。
 身近にいる人たちを見て、それが一族としては珍しいことではないのだとわかっていたが、獣の体毛が生えている、優しさとはかけ離れた自分のこの手は大嫌いだった。
 その感覚は、だが、幼い頃の感傷に留まらず、つい最近まで続いていたのかもしれない。と、あいつに会って気付いた。
 そう、あいつに。
 ただの人間だ。あいつはただの人間なのだと自分に流れる異形の血が教えた。
 なのに、人間の力ではとうてい及ばないはずの異形を相手に堂々渡り合った。ひるむことなく、果敢に挑んでいた。恐らくは肉体の限界ギリギリのところで自身を鍛え、ああなったに違いない。
(私はなんて考え違いをしていたんだろう……)
 自分は、長い間、この身体に異形の血が流れていることを嫌悪するだけだった。
 まわりの人間たちよりも秀でていることに引け目を感じて、この力をできるだけ押し隠そう、抑え込もうと、そんなことばかりを考えてきた。
(なんて、傲慢な考え方をしていたんだろう)
 強力な力を持っていることで自分は人間よりも優れた特別な存在だと思い違いしている者たちが一族の中の一部にいることはいる。そういう彼らの姿が気持ち悪くてしかたがなかった。
 身体能力が人間よりも秀でているということや、炎を操れるという科学では証明できない力を持っていることも、きっと、人よりも視力が良いとか、人よりも早く走れるとか、そういう一部の能力が勝っているというだけのことで、総合的な一個の存在としての価値を考えたならば、相対的な価値にはなり得ても、絶対的な価値にはなり得ないだろう、とずっと思っていた。
 だから、能力を誇示したがる者を自分は冷ややかな目で見てきたし、一族のより強い血を受け継いだ自分の力を試す目的で、手合わせを希望してくるような輩もはねつけてきたのだ。
 そしてそんな自分の考え方や姿勢は間違いでないと思っていたし、自分たちのような異形の力を持っている者たちはかくあるべきだとさえ思ってきた節があった。
 はたして本当にそうだったのだろうか?
 自分はいかにも正義ぶったあさはかなものの考え方をしてこなかっただろうか。
 あいつと一緒に戦って、そう思ったのだ。
 その閃きは夏樹にとって、まるで雷撃が全身を駆け抜けていったような衝撃だった。
 あいつは、自身には適わないだろう領域の存在と、自身の能力の限界を以て、命を賭していた。
 けれど、おそらくあの時、あの場に自分がいなかったならばあいつはあの異形に喰い殺されていたに違いない。
 強い者は強いのだ。
 人間と明らかに違う能力を持つ自分は、特別なのだ。もはや優越感の問題ではなく、ただ特異な存在であるということ。
 それが異形だということだ。
 人間とともに存在しながら、人間と同じ土俵には立てない自分たち。
 自分はひどい考え違いをしていた。
 人間は特別な力を持たないから弱いから、自分も同じように能力は極力使わず、弱いふりをしなければならないなどと、一歩間違えば、弱い人間を憐れんで自分の能力は使わないでいてやるという意味になりかねない考え方をしてきたのだ。
 けれど、それはあいつが間違いだと教えてくれた。
 持ってしまった自分の能力や宿命は打ち消せるものではない。ならば、それをむやみに否定することに何の意味があるのだろうか。自分の宿命とこの身体と力とに、真っ直ぐ対峙しなければならなかったのだ。受け止めなければならかったのだ。受け入れなければならなかったのだ。受け入れたところから、自分はこの力と能力と身体とで、何を目指していくかを考えていくべきだった。
(私はどうあがいたって、人間にはなれないんだ。そう、人間にはなれない。でも。)
 自分は勝負師じゃない。勝つだの負けるだのは二の次だ。人間だろうと異形だろうと、持てる力でベストを尽くして生きていくというのが、あるべき姿なのだと、あいつが教えてくれた。
 あいつはそういう意味で、自分などよりも相当強かった。
 私がずっと弱いと思い続けてきた人間たちの中には、あんなにも身体も心も強い者たちがいる。もしかしたら、あいつ以外にもそういう人間がたくさんいるのかもしれない。視野の狭すぎた自分が知らなかっただけのことで。
(あいつは、私の価値観を変えてくれたんだ。それも、ものすごく。)
 しなやかな筋肉も虎そのものに獣の剛毛を生やした腕が前へと突き出される。
 手の先に、ボウ、と燃え上がった炎が、真昼でも鮮やかな残光の尾を引いて一直線に駆けていく。
 前方の台の上で、缶が甲高い音を立てて破裂した。
「次!」
 炎を放った右腕を引き、左腕を横から振るう。
 指の先から解き放たれた炎の弾丸が、鋭い切っ先へと形を変え、台の上にひしゃげたアルミ缶のわずかに残った一片に人差し指ほどの大きさの穴を開けた。吹き飛ばされたアルミ片は空でカラカラと宙返りをして地に落ちる。
 次は連発技だ。
 両手から炎を矢継ぎ早に繰り出すことで敵に反撃の隙を与えないようにするために。
 意識を集中する。
 次の「敵」はあの梯子もどきだ。
 間隔も太さも不揃いな、梯子の横棒のようなそれらをターゲットにする。
 右手、左手、右手、と交互に、放つ姿勢を変えながら撃っていく。火球は並んでいる横棒に順々に当たって砕けた。
「敵」には息をつかせる暇など与えてはならないだろう。
 広場の端から端へと走りながら、横合いから腕を水平に払って、撃つ。
 青竜刀のような形に弧を描いた炎が、梯子の横棒に機関銃のような音を立てて次々に命中する。その炎が消えるより先に、振り向きざまの姿勢からまた放つ。
 そしてフェンスへと駆け上がり、登りきる前のバランスの危うい姿勢から二発。
 その天辺から後ろ向きに身を躍らせ、宙返りしながら三発。晴れ渡った青空が視界の中でひっくり返る。白炎をまとった火球が三つ、真っ直ぐに目標へと走っていくのが見えた。だが、一発外した。
「くッ! まだまだねっ!」
 今まで訓練らしい訓練を敢えて避けてきただけに、力をコントロールする練習を始めた当初はまったく思い通りにいかず、ひどい有り様だった。
 自分が持っているのは暴走する力でしかないのではないかと思ったこともあった。
(でも、あいつ、言ってた。あいつに何でそんなに凄い力を持っているんだって聞いたら、『鍛えれば、自分自身を知ってコントロールできるようになれば、誰にでもできるようになる』って言ってた。)
 その言葉を信じようと思った。だから、学校が終われば毎日ここに来て、訓練に打ち込んできたのだ。
 思えばここひと月でずいぶんと成長したと思う。だが、完全にコントロールできる状態に至るまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。
(でも、完全にコントロールできなきゃダメだ。完全に、できなきゃ)
 一族の仲間たちは、自分のこれまでからすると人が変わったかのような訓練への没頭ぶりが不思議でしかたがないらしい。
(全然おかしくなんてないよ。だって、私、自分の力を制御できなかったのが一番、一番悔しかったんだから)
 今まで力の行使を故意にやろうとしなかったことと、いま自分が力を鍛えたいと必死になっていることとは、自分の中ではなんら矛盾しない。
 膝についた土を払って、立ち上がる。こめかみを流れる汗を拭って一息ついた。
 鞄の中からコンビニで買ってきた雑誌を抜いて、地面の上に置く。
 三歩ばかり退いて、意識を集中させ、じっとそれを見つめること数秒。
 夏樹の脳裏に映る映像の中で雑誌が炎に包まれる。
 その映像を、実際に目の前にある雑誌へと重ね合わせる。
 唐突、低い音を立てて雑誌が燃え上がった。
 紙の束が熱気に踊りながら見る間に灰になっていく。
 発火はクリアだ。
 だが、発火させるだけでなく、消すこともできなければ炎を自在に操れる状態とは言えない。
 ふたたび精神を集中させる。
 今度は炎を散らすイメージを頭の中に作り上げた。
 急激に慣れない力を使いすぎているせいかどうにもブレがちなイメージを、無理矢理火に包まれている雑誌へと重ねあわせた。
 意識の中のイメージが消えないうちに、その念を、燃えている雑誌へと打ち込む。
 ボッ、という音をあげて、炎が掻き消えた。煙だけが風に流れる。
 夏樹は大きく溜息をついた。
「今日は、うまくいったぞ……っと」
 発火させるのは比較的簡単だが、なぜか消すのは容易でない。
 昨日は見事に失敗したが、今日は一発で消すことができた。
「でも、時間がかかりすぎだよね」
 頭の中にイメージを作りだしてから発動するまでにしばらく時間がかかってしまうとかでは駄目なのだ。
 もっと早く。イメージしたと同時に、火を移したり消したりができるようでないと。
 そうでないと、《真・獣化》したときにとんでもないことになってしまう。
 そう、《真・獣化》。
 自分は、数世代もの間をあけて《真・獣化》ができる焔虎族として生まれた、完全な焔虎だ。けれど、完全な焔虎が自分以外にはいない今、自分に《真・獣化》状態のコントロールの仕方を教えてくれる者はいない。長老にも聞いたが、「わからない」という返事が返ってきただけだった。
 長老にもわからないなら我流でやるより他はないが、こんな雑誌の火を消すのですらようやくといった状態の今の自分では、万が一力が暴走した場合には、自分の周りにある人や物すべてを火焔地獄にたたき落とすことになってしまう。とうていその始末をつけられるとは思えない。
 力のコントロールの仕方がわからない、それを知るものが誰もいないという不安。
 自分の中に、まるで一片の光すら差し込まないブラックボックスを飼っているような気がする。
 けれど、こんな話を一族の仲間たちに話したところで、屈折した羨望の目で見られるだけだろう。
 この感情を打ち明けられるとしたら。
 一人の少年の後ろ姿が瞼の裏に浮かんだ。
 (私は、あいつみたいになりたい。)
 きっと、人間という枠の中で、限界に挑みながら肉体と技とを研鑽してきただろう少年。
 自分と同じ歳にしてすでに自分という存在を把握していて、そして、あんな揺るがない瞳で敵対する存在と向かい合っていた。
(あいつが鍛えたらできるようになるって言っていたんだから、私にだってきっとやれる。私も負けてなんていられない)
 ひとたび、目指す道を決めたからには、自分を誤魔化す言い訳はもうしたくない。
 だが、今はまだ自分の方が圧倒的に及ばないのだ。自分自身を把握できていないという点において。自分の《真・獣化》をコントロールするための手がかりはまったくなく、想像もつかない。
 肌寒い橋梁の下の日陰から川辺の方へと目を向けると、陽差しを受けてさざなみを打つ川面が見えた。眩しく陽光を照り返す色鮮やかな川辺が、なぜだかいまの自分には辿り着けない場所のように思えた。
「一度あいつに相談してみようかな……」
 そんな夏樹の呟きを、額を撫でる川風がそっと奪っていった。





<続く>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
工藤彼方 クリエイターズルームへ
東京怪談
2009年12月07日

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