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『 Divine One――【3】 』
深沢・美香6855)&(登場しない)



 黒いトレンチコートを着た男が美香を見下ろしていた。
 いま、美香の肩を濡らすものはない。
「大丈夫?」
 歳の程は三十代の半ばから後半ぐらいだろうか、男は傘を持っていない方の手を伸べていた。
 濡れた金網についている膝が、金網の冷たさのせいか硬さのせいか、とにかく痛かった。
 それに不安定な恰好で屈んでいる体勢が苦しくて、思わずその手を握った。
 支えてもらって、立ち上がる。
 節ばった指が美香の手を力強く握りこんで、タイミング良く引っ張り起こす。
 男の手のひらは分厚くあたたかかった。
「ありがとう、ございます」
 それだけ言うと、すぐに手を離した。
「いや、全然いいんだけど。足、大丈夫? くじいたんじゃないか」
「いえ、大丈夫です。その、ちょっとつまづいただけですから……」
 頬のあたりに男の横合いからの視線を感じたが、あえて見ないようにした。
「……そう。だったらいいんだけどさ」
 男は、目を合わせようとしない美香をどう思ったのか、小さく溜息をついたようだった。
「きみ、傘がないんだね。これ、貸すよ」
 雨の滴をしたたらせる黒い傘の柄を美香の手にそえた。そっと握らせてから男の手は離れていった。
「え、こんな」
 慌てて傘を押し返そうとすると、男は首を振って美香の手を押し戻した。
「そんなに濡れてちゃ、風邪、ひくよ?」
 そう言って笑う男の髪が見る間に濡れて額にはりついていく。
「あなただって濡れてしまいます。こんなこと……。私、大丈夫です。慣れてますから」
「慣れてる、か……」
 なおも傘を返そうとする美香に、男は笑んだままに首を小さく傾げた。覗き込むように。
「……きみ、美紀、ちゃん?」
「え……」
 美香は思わず男の顔を見つめた。
「美紀ちゃん、じゃないのかな。人違いだったら悪いんだけど」
 美香の記憶の中に男の顔はなかった。だが、美香の顔を知っていて、かつ、「美紀」という源氏名で呼んでくる男といえば、どこで会った人間かはほぼ絞られてくる。
 男は頭を掻いた。
「俺のこと、覚えてないかな。いや、覚えてないだろうけど。二年前ぐらいに、あの店で、きみに……」
 男は言葉を濁したが、その先は言わずとも明白だ。客だったということだ。
「二年前……」
 美香は思い出していた。二年前と言えば、今いる店の前の、さらに前の店で働いていた頃にあたる。ということすら、思い出すまでにしばらくの時間を要した。
 それくらいには、自分自身にとってその頃というのは既に遠い過去の日々になっており、それだけに目の前の男の顔など思い出すべくもなかった。
 だが、この局面で男に向かって「ああ、あなたね、覚えているわ」などと言える性格ではない。かといって「全然覚えていない」とも言えないが嘘もつけない。そんな美香の表情を読んだのか、男はさっぱりと言った。
「覚えてなくて当然だ。あの後、きみを店で見なくなってからそれっきりだったし……。でも、こんなところで会うなんて、なんていうか、奇遇だね」
 そう言って男は、今度は今更のように、どんな顔をしたらいいのかわからない、といった困惑顔になって頭をしきりに掻きだした。
 だが、美香は別のことを考えていた。
 二年前にいた店のことだった。
 あの頃、美香はいつもの癖で、学費と生活費を稼ぐつもりでこの道に入ったという後輩の娘の相談に乗っていた。相談だけでなく、手助けもしたことはあったし、時折は軽はずみに身持ちを崩すようなことをしてはならない、洗えるならば早くに足を洗うようになどという忠告もしていたのだ。だが、娘にとって、美香の忠告は嫌味にしか聞こえなかったのかもしれない。美香の客入りの良さを羨むことしかできなかった娘は、オーナーに取り入ってあることないことを讒言した。根も葉もない噂に店全体の雰囲気が悪くなったのを察して、美香は店を辞めた、ということがあった。
 オーナーとはそれなりに長い付き合いだっただけに、他人の信用というのはこの程度かと思ったものだった。
「美紀ちゃん? どうしたの。大丈夫?」
 男が心配そうに美香の顔を覗き込んでいた。
「……あ。ううん、大丈夫」
 そしてどうやら、その店で最悪な時期を過ごしていた頃に、ちょうどこの男と逢ったらしい。
「どう? 歩けそう?」
「ええ」
「なら、もうちょっと先まで行こうか。この橋から降りたところに国道が走ってる」
「国道?」
「そう、そこならタクシーを呼べるよ。時間が時間だから、来るまでにはかなり待たなきゃならないかもしれないけどさ。とにかく行こうか」
 たしかに後ろがつかえていた。二人の横を横這いするようにすり抜けていく者も何人かいたが、まだ後ろにいる人々が、美香たちが前に進むのをヤキモキしながら待っているのは明らかだった。
 傘を、と思ったが、二人並んで歩けるような歩行通路ではない。肩越しに見た男のトレンチの胸元は、すっかり雨に濡れて光っていたが、受け取ってもくれなさそうな様子に黙って借りることにした。
 不思議だった。
 ついさっきまでは、この人混みの中でたった一人の自分だった。孤独だった。誰と言葉を交わせるわけでもなかった。なのに、今は違う。以前に逢った時のことは相変わらず思い出せないが、なんとなく心があたたかい。一緒に歩いている人がいる、という心強さがそうさせているのかもしれなかった。
 傘の柄を握りしめる。
 自分の代わりに濡れながら歩いている男が後ろにいて、彼は恋人でも何でもないけれど、雨はもう自分を濡らさない。
 歩行通路の出口が見えた。
 一列に並んで歩く人々の傘の影が、土手の横合いの道に三々五々、ばらけて出て行くのが夜目にも見て取れる。先導していたらしい乗務員が旗を振っているのも見えた。
「あの土手を下るんだ。そうして少し歩いたら国道に出るから」
後ろからの声に美香はうなずいた。
 自分の行く先を教えてくれる声。きっと、この先の土手の道を降りたら、ちゃんと国道があって、少しは時間が掛かっても、いずれ自分は家に帰ることができるのだろう。
 美香は思った。
 二年前にこんな男に逢ったことなんて本当にあったのだろうか。
 いや、きっと自分が今しがたまでひどく心細かったからそんな風に思うのだ。そうに違いない。
「ほら、見て。向こうに国道の明かりが見える」
 男の声がまた聞こえた。
 美香の耳元へと後ろから伸びてきた腕が指さす先を見ると、まばらに流れる光点の列が見えた。
「……きれい……」
 男の小さく笑う息遣いが聞こえた。だが、悪い感じはしなかった。
「……きれいだね。星みたいだ」
 雨雲に覆われて薄ぼんやりと白んだ夜空より暗い大地に、どれも小さな黄色や白の光が流れて、それに逆らうように赤い光が流れていく。
 なんだか一生懸命に進んでいくように見える頼りなげなそれを、高層ビル群がつくる溢れ出るような夜景よりも美しい、と美香は思った。
「大昔の旅人は、北極星を目印にして旅をしたのよね」
「そうらしいね。嵐の海に揉まれても、波が凪いだら夕べには北極星を探したのかも」
「……でも、雲が残っていたら見つけられないわよね」
「だろうなあ。だから、雲間が途切れたときに必死になって探していたとか?」
「じゃあ、北極星を見つけられたら、歓声をあげたりしたのかしら」
「ああ、俺だったら腹の底から絶叫してると思う。『やった!』ってね」
 そう言って笑うのが聞こえた。美香も笑った。
 あれほど遠くに思えていた土手を、美香はいつの間にか降りていた。
 男と話をしている間に、と言う方が正しいかもしれない。流れ星は流れるのが早過ぎて願い事を唱える暇なんてないよね、などという他愛もない話から、なぜあの店から自分がいなくなったかということ、これまでのこと、普段の美香であればけっして話さないようなことまで、どうしてか拘りもなく口にしていた。男は美香が話している間、ほどほどに相づちを打ったり、黙ったりして聞いていたが、そのほどよい沈黙が美香には心地よかった。
 長距離トラックと深夜のタクシーが何台か美香の前を横切っていった。
 目の前を走り抜けていく車のライトに細かな線が入っていないことに気付いて、いつしか雨がやんでいたことを知った。
「これ、本当にありがとう。でも、あなた大丈夫? びしょ濡れだわ。風邪、引かない?」
「いや、これ、意外と雨を通さないんだ。本当に大丈夫だから」
 男は薄いトレンチの胸元を摘んで見せたが、どう見ても服まで、いや肌まで染みていそうに見える。
「それよりさ、俺もタクシーで帰るからきみのも一緒に呼ぶよ。お金は大丈夫?」
「……ええ、大丈夫」
 携帯をかける男の横顔を見つめる。
 心から安心している自分がいる。何に怯えるでもなく、警戒するわけでもなく、この男と一緒にいて、自分は楽に息をしていられる。
 いや、楽に息をしていられた。
 だって、もうすぐこの不思議な時間は終わるのだから。
 携帯のボタンを押して通話を切る男の指先を見つめた。
 タクシーが来たら、それにそれぞれ乗り込んだら、もう、会うこともない。ただ、すれ違ってちょっと話をしただけの関係で終わるということだ。
 でも、だったら自分はどんな関係を望んでいるというのだろう。
 きっと気の迷いだ。苦しい時や心が弱っている時にちょっと親切にしてくれる人がいると、特別いい人に思えたりするものだ。後から思い返したら、なんてことはなかったと思うかもしれない。きっと気の迷いなだけで――。
 深夜帯だけにつかまるタクシーも少ないのか、二件目に電話をかけだしたらしい男の後ろ姿が見えた。
 名前も、電話番号も聞いていない。
 ここで別れたら、この背中を二度と見ることはない。
 でも客として知り合ったらしい男にそこまですることなのか、なぜ自分はこんなに迷っているのか、とそこまで考えて、思い出したものがあった。
 占い師の顔。
 そして、あの方位磁針。
 さっきはやけに針の動きが鈍くなっていた。
(もしかして)
 すかさずコートのポケットを探る。
 握りだして、手を開いた。
(やっぱり)
 針は止まりかけでありながらもまだふらふらと揺れ動いていたが、振れ幅はごく狭くなっている。
 針は等幅で振れながら北東の方角を指していた。
 そして、ちょうど男の、背中を。
 それ以上考えるより先に。
「よかった、美紀ちゃん、つかまったよ。さすがにこの時間はなかなかいないね。三件かけてようやくだ」
 男が振り返った。
 考えるより先に美香の口の方が開いていた。
「ねえ、あなた、うちに来ない?」
「え……?」
「だって、そんなに濡れているんだもの。私が傘を借りたせいだし。見ればわかるわ。中の服だってぐちゃぐちゃでしょう?」
 聞きようによってはとんでもなく大胆なことを言っている気がしないでもない自分の言葉に、だんだんと顔が熱くなってくるのがわかったが、言い出したからにはなりふりかまっていられなかった。
「お風呂に入ってから帰って。じゃないと私が心配で眠れなくなっちゃうから」
 目を丸くしていた男が、
「……それ、本気?」
 少し考えるようにしてから言った。
「……って、言ったら失礼かな。俺には断る理由なんてないんだけど。……本当いいの? お邪魔しても」
 そう聞き返してくる男に真っ向から「いい」と言うのもどこかためらわれて、半端にうなずくことで返事にした。まるで中学生の頃に味わったような、妙な気恥ずかしさで胸のあたりがむず痒い。いてもたってもいられないようなこの気持ちをどうにかしたい。
「そういえば、あなた、名前、なんていうの?」
 沈黙が落ちたら最後、喚いてしまいそうで、何か喋らずにはいられなかった。それに男の名前は気になっていたことでもあった。
「俺の名前?」
 だが男は、そうだなあ、なぜか口籠もった。
 あれほど避けたいと思っていた沈黙が男との間に落ちる。
 いったい何を考えて黙っているのか、自分の言ったことについて考えているとかだとしたらもう耐えられない、と思った時に、聞こえた。
「……じゃあさ、きみの『兄』っていうのでどうかな」
 今度驚いたのは美香の方だった。
「『兄』……?」
「そう、ちょっとしたゲームだ。今夜一晩、俺はきみのお兄さん。きみは俺の妹だ」
 おどけた風に言う男の顔を見つめ返す。
 どういうことかわからない。どうやら名は名乗りたくないらしいということ以外は。
 男が不意に真顔になった。
「もちろん、きみが嫌ならこのゲームはなしにするよ?」
「嫌とかじゃなくて、……なぜ?」
 なぜ「兄」などと言い出したのかわからない。そんなゲームを唐突に思いついたのかがわからない。
 そんな美香の気持ちを顔の表情から読み取ったのか、男は言った。
「……俺は、きみの泣いているところを見たくない、って思ってさ」
 そう言った男の目は口調とは裏腹に真剣で、真っ直ぐに美香の瞳を見ていた。
 泣いているところ、と美香は心の中で呟いた。
 男が何を考えているのかはさっぱりわからなかったが、自分に対する悪い意思は感じなかった。何かを気遣っているらしいということもわかった。
「そら、タクシーが来た。美紀ちゃん、……じゃなくて、『美香』だったね」
 両方のウィンカーを点滅させながら滑り込んできたタクシーが、後部座席のドアを開けた。
 男は美香の手を取った。
「……帰ろう、美香。俺たちの家に」







<続く>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
工藤彼方 クリエイターズルームへ
東京怪談
2009年12月17日

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