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『夢の狭間 』
海原・みなも1252)&(登場しない)


 自分は、果たしていつまで人間だったのだろうか‥‥‥‥
 冷たい床に横たわりながら、海原 みなもは薄目を開けて外の光景を認識する。
 眠い。目を閉じてしまえば、その時点で意識は断線し再び獣の意識が浮かび上がる。
 それは余りに怠惰で、希望のない日常。
 悪戯に時を過ごし、いずれ果てるのを待ち続けるばかり。
 時間の経過を認識することも出来ない。この檻からは、園内に設置された大時計を目にすることが出来るというのに、その数字の意味を解することが出来なくなっている。ただ日が昇り、日が落ちるまでを過ごす。何をするでもなく、時間が過ぎるのを眠りながら待つだけだ。
 ‥‥‥‥苦痛とは思わない。
 しかし、それを苦痛と思わないという事象その物が恐怖となり、みなもの心を縛り付ける。
 自らの置かれている状況が異常極まりないというのに、違和感を覚えずに受け入れる。しかし時折目を覚ます人間の自我は、それを否と唱えている。心のどこかで、違和感を覚えないことこそが異常なのだと訴えている。
 だが心身の主導権を握ることが出来ず、みなもの精神は川を流れていく木の葉の如く、押し寄せる誰かの意識に揺られて為すがままにされている。それに恐怖しないわけがない。みなもはガタガタと肩を振るわせながら、自身を包もうと広がる暗雲から逃げまどう。
 それも、どう足掻こうと無駄に終わる。誰かから「こうしろ」と命令されているのならば、まだ逆らうことも出来ただろう。だが自らの内から湧き出る動物の本能に、みなもの意識は包まれて隠される。心を侵していく闇。それは人が睡魔に襲われるように抗いがたく、時間を稼ぐことは出来ても屈服する以外に道はない。
 ‥‥‥‥自分を自分でなくしていく闇。偶に晴れ間を見せては、再びみなもを包んでいく。
 いっそ壊れてしまえば楽になれるのだろうが、時折訪れる人間の意識が呼び起こされる時間が、みなもの心を繋ぎ止めている。何度も眠らされ、引き戻されては眠らされ‥‥‥‥
 繰り返される拷問のような時間。なまじ希望が用意されているのが、絶望感を際立たせる。

(わたしは‥‥‥‥にんげんなの?)

 今、思考しているのは人間としての自分なのか、それと鼓動物としての自分なのか‥‥‥‥
 何も分からぬままに、みなもは再び目を閉じた。


●●●●●


 ‥‥‥‥自分が雇われの身であることを呪うことは、しばしばあることだった。

(まったく‥‥面倒なことを)

 閑散とした動物園を眺めながら、一人の男が溜息をついている。
 まだ二十代半ばらしい若者だ。無精髭を生やし、髪をボサボサと逆立たせている風体からして、あまり自分の見かけに気を遣うタイプではないらしい。手にはデッキブラシを握り、足下には水を静かに垂れ流しているホースが転がっていた。

「ムー」
「邪魔だ。向こうで転がってろ」

 足下にじゃれついてくる一頭のパンダを引き剥がし、小屋の清掃を続行する。
 パンダが飼育されているこの小屋は、外とは一枚のアクリルガラスによって隔てられていた。そのお陰で外から吹き込んでくる風によってゴミが運ばれてくるということはなかったが、それでも動物を飼育していれば、自然と床は汚れ、飲み水や抜け毛が散乱する。
 糞尿が垂れ流しにされていないのは、このパンダを育てていた飼育員の躾が行き届いているからなのか‥‥‥‥手間が掛からないのは喜ばしいのだが、事ある毎に足下にしがみついてくるパンダが少々鬱陶しい。

「お前、パンダにしては軽いよなぁ。もっと太れよ」
「ムゥー」

 パンダを遠くにまで抱き抱えて放り出し、その度に人影のない動物園内を眺めてしまう。ガラス越しに見える園内の光景は、人影らしい人影が見えずに、まるで休園日のようでもある。
 開園はとうの昔にしているのだが、ここ数日間は寒風の勢いが増すばかりで、お客の足も遠退いている。誰でも冷たい風に吹かれながら動物を眺めるよりも、友人とカラオケに行くなり、ウィンドウショッピングに足を運ぶなりしている方が楽しいだろう。

(こんなに人気がないのに、掃除とかだけはきっちりしてなけりゃならないんだからなぁ‥‥‥‥せめて自分の担当のパンダなら、まだやる気も起きるんだが)

 飼育員は、心中で愚痴を零しながらも、しっかりと力を籠めてブラシで床を磨いていく。
 たとえ押し付けられた厄介事であっても、仕事は仕事、納得のいくまで業務をこなすのが彼のスタイルだ。自分とは縁もゆかりもないパンダの世話だろうと、飼育のプロとして手を抜くようなことはない。
 ‥‥彼は、先程離れた場所に放り出したパンダとは、縁もゆかりもない男だった。
 ここではない、とある大きな動物園。こんな寒々しい季節にも人が絶えない動物園に勤務していた彼は、雇い主である園長の命令によって、この閑散とした動物園に派遣されることとなった。別に左遷されたわけではない。この動物園でパンダ厩舎の飼育員を務めていた男が風邪に見舞われて休むことになったため、一時的に籍を置くことになっただけである。
 それには不満はない。パンダは貴重な動物であり、世話の出来る飼育員も限られている。自分の経験と技量が頼られているのならば出向くべきだと思うし、可愛らしい子供のパンダの相手をするのも嫌いではない。
 しかし、この動物園に対しての不満は、こうして働いている間にも燻っている。
 一人の飼育員が休んだだけで、パンダの世話をする者が居なくなると言う現状。
 これだけ客が離れているというのに、お客を呼び込もうという行動を見せない同僚達。
 そして何より、この子供のパンダに対しての成長記録や給仕、健康診断などに関する資料を一切作っていなかった、前任の飼育員‥‥‥‥
 いい加減な体勢を堂々と晒している動物園には、我慢のならないところがあった。

「ったく。ここの飼育員が戻ってきたら、一言言ってやらないとな」

 掃除道具を片付けながら、飼育員は床の上で転がっているパンダを見つめ、早々に小屋から出て行った。

(‥‥‥‥あのパンダも、いったい何なんだろうな)

 小屋の外に設置されている倉庫に掃除道具を仕舞い込み、外から寝転がっているパンダを観察する。
 ごろごろ、ごろごろとパンダは転がりながら、頻りに「ムゥムゥ」と鳴いている。飼育員に話しかけているかのように、こちらを向いて鳴いてくる。
 その仕草が、まるで子供が何かを訴えかけてきているように感じ、飼育員は首を傾げていた。
 ‥‥‥‥パンダの子供は、確かに人懐っこい動物である。
 だがそれにしても、ここのパンダは何かが違う。このパンダは、こちらから話しかけると必ず「ムゥムゥ」と返事を返してくるし、どれだけ邪険に扱っても助けを求めるように縋り付いてくる。
 勿論言葉の意味は分からないし、パンダもこちらの言葉を分かってなどいないだろう。
 だが‥‥‥‥飼育員は、今朝ここに来たばかりなのだ。
 初めて出会った相手に、人懐っこいと言っても、ここまで簡単に懐いてくるものだろうか?

(ま、考えていても仕方がないんだが‥‥‥‥)

 休んでいる飼育員が、よほど甘やかして育てていたのだろう。
 幼い頃から人間を見て育ったから、行動がどことなく人間に似ているだけ。それだけだ。おかしいことなど何もない。

「ムー?」
「おっと、そろそろ餌の時間だな」

 外からパンダの様子を窺っていた飼育員は、パンダから視線を外して園内の時計を見る。
 時刻は正午前。パンダの食事を用意するのにさして労力も時間も使わないが、自分の食事を考えれば、早めに行動をしておいた方が良い。
 小屋の中から飼育員に何かを訴え続けるパンダを背に、飼育員は厩舎の中に入っていく。
 パンダの声は、どことなく悲しそうに風に消えた‥‥‥‥


●●●●●


 夜‥‥‥‥
 動物園内には、夜行性の動物達の声が響き渡っている。
 だがその鳴き声は、園内の動物達の数から言えばほんの一割にも満たない。多くの獣達は眠りにつき、静かに檻の中に蹲っている。
 園内で飼われている動物達は、夜行性でも昼間に叩き起こされる。と言うのも、檻の前を大勢の人間達が闊歩し、注目し、騒ぎ立てている。檻の中を清掃するために予備の檻に移動させられ、おちおち眠っていられないのだ。
 その為、夜行性の動物達でも、基本的には夜に眠る者達が多くなる。園内に響いている動物達の鳴き声も、風に巻かれて消え去ってしまうほどに弱々しいものだった。

「おお、寒いな」

 弱々しい動物達の鳴き声よりも、荒れ狂う夜風の方が厄介だった。

(まったく‥‥‥‥どうして気になるんだろうな)

 そんな肌を刺すような風の中、臨時で雇われた飼育員は足早にパンダの小屋に向かっていた。
 既に他のスタッフ達は、一人残らず帰宅している。だが飼育員は、他の動物達の飼育日誌を読ませて欲しいと頼み込み、動物園の宿直室に泊まり込んでいた。
 パンダの飼育日誌が存在しないのは、昼の間に確認している。しかし、どこかに記録は残ってるはずなのだ。パンダを飼育している動物園など、日本全国を見渡しても数えるほどしかない。そんな中で飼育しているのならば、必ず何らかの痕跡が残っているはずだ。
 どこで生まれ、どこから引き取ったのか。どのパンダが生み、もしくはどのような経緯でこの動物園で飼われているのか。もしくは何時からここにいるのか、何かが分かるはずだった。

(なんでだ。資料が何も残ってない)

 足早に向かいながらも、思考を止めることはない。
誰も居ないことを良いことに、気の済むまで調べ上げた。それでも一切の情報が得られないというのは、あまりに異常だ。どんな小さな店舗でも、店の帳簿や従業員の管理資料は残さなければならない。それと同様に、商品の目録や入荷、出荷記録も残さなければならない。
 動物園でも同じことだ。動物を無料で仕入れることが出来るわけがない。必ず“元”があるはずだ。
 だと言うのに、その気配が微塵もない。不審を通り越して明らかな不正の匂いが漂い始め、危険な場所に来てしまったのかと焦燥を覚え始める。
 飼育員は、その焦燥に耐えきれず、パンダを閉じこめている小屋に向かい、扉を開けた。

(何も、逃がそうなんてことじゃない)

 悪事をしているわけではないと自分に言い聞かせ、小屋の中を探る。
眠っているパンダに用はない。ただ、もしかしたらここに資料が残っているのかも知れないと探りに来たのだ。明日の朝まで待つことは出来ない。脳裏を過ぎる不安は、飼育員が眠ることを許さない。
 小屋の中、餌を調理するために用意された調理場、清掃用具をしまうロッカー、簡単なメモ書きや、飼育に関する書籍、書類が束ねられて置かれている棚に手を伸ばす。
 小屋の小さな明かりを頼りに泥棒のように動き回るが、手掛かりになりそうな物は何もない。
 不安が飼育員の胸中に広がっていく。自分が飼育するパンダが、もしかしたら何らかの犯罪行為によって連れて来られたのではないかと感じてしまえば平常心は保てない。

(いっそ、警察にでも‥‥‥‥)

 それが懸命だろう。
 だが、下手に突いて目を付けられてしまったら‥‥‥‥

「だ‥‥‥‥れ?」
「っ!」

 微かに耳に届いた声に、飼育員の体がビクリと止まる。
 心は電流を流されたように震え、動くことも出来なくなる。思考すら停止した。
‥‥それも無理からぬことだっただろう。
 夜が更けてから、かなりの時間が経っている。こんな深夜に動物園に忍び込むような泥棒も居ないだろう。

(見張られていたか?)

 耳を澄ませ、声の主を探る。
 園内を荒らし、情報を徹底的に伏せられている動物について調べ回っていたのだから、状況から見て同僚達に見付かることが一番危険だろう。いっそ心霊現象や泥棒の方が、いくらか気が楽だ。
 まさか、パンダ如きで人が人を殺すなどと思いたくもないが、もしも密輸された動物を公開していたとしたら‥‥‥‥何をされるか分からない。
 しばらくの間体を伏せ、耳を澄ませて外の様子を探る。だが何もない。風の音が聞こえるばかりで、足音も声も、人の呼吸すら聞こえない。気配を察知することに長けているつもりはなかったが、小屋の外に誰かが居るという気がしない。
 そもそも、この風の中、外の声が小屋の中に届くことがおかしいのだ。
 声が聞こえたのは、むしろ内の方から。パンダが眠っている檻の方向から聞こえたように感じられる。

(まさかな‥‥‥‥)

 そんな場所に誰かが居るとは思えなかったが、しかし確かめずにはいられない。
 檻へと続く扉を軽く開き、隙間から中を覗き込む。暗い檻の中は、奇妙なまでに静まりかえっていた。パンダの寝息も、風の音もほとんど耳には届かない。他の檻とは違いガラスで隔離されているため、外の寒風が吹き込んでくることがなかったのだ。
 むしろ適度に暖房が効いているため、心地が良いほどだ。故に、人が潜むことも可能だろう。あれだけ人懐っこいパンダならば、一緒に眠っていても危害を加えられることはまずあるまい。
 目を凝らし、暗闇の中を見渡し人が居ないかを確認する。
 ‥‥‥‥声の主は見付からない。
 人の気配はやはり皆無。扉を開けたことで室内の明かりが小屋の中を照らし、顔を伏せていたパンダがのっそりと顔を上げた。

「‥‥‥‥おまえだけ、だよな」

 この場には、飼育員とパンダ以外の生物はいなかった。人や動物、空気を入れ換えるために開けられている穴から虫が入り込むことすらない。
 停滞した空気は振るわず、開かれた扉がキィキィと微かな音を立てるばかり――――

「たす‥‥け‥‥‥‥て」
「‥‥‥‥まさか」

 心臓が跳ね上がる。
 聞き違いではない。錯覚でも幻聴でもない。
 声の出所に顔を向ける。そこには一匹のパンダがいる。それだけだ。他には人間も動物も虫も幽霊も何もいない。影も形もなく、そこには一匹のパンダが横たわり口を開き、弱々しく飼育員に這い寄ってくる。

「おねがい‥‥‥‥たすけて」

 風に消えそうなか細い声。
 飼育員が目を見開いた。口をパクパクと開閉し、震える体を動かして後退る。
 それほどの衝撃。よたよたと力無く近付いてくるパンダは、そこらのホラー映画で出てくるゾンビを彷彿とさせ、心中に燻っていた恐怖心を刺激する。夜の暗闇によって視界が遮られているために、余計に恐怖が駆り立てられているのだろう。このまま逃げ出せば逃げられるのだと心のどこかで思いながらも、足は震えて言うことを聞こうとしない。

「た‥‥す‥‥‥‥」

 パンダは足下まで躙り寄り、縋り付く。

「――――――――!!!!」

 飼育員のこれまでの人生に置いて、この時以上に声を上げたことはなかっただろう。
 絶叫は壁に反射し、外にまで漏れ、眠っている動物達の顔を上げさせる。
 間近で聞いたパンダは、目を回してコテンと倒れて転がった‥‥‥‥


●●二日目●●


 俺は、果たしていつこんな世界に足を踏み入れたのだろうか‥‥‥‥
 じゃれついてくるパンダを転がしながら、俺は何でこんな事になっているのかと、自分自身に問いかけていた。
 答えは出ている。この動物園に踏み込み、このパンダに関わってしまったからだ。挙げ句の果てに自分でパンダの素性を調べようとあっちこっちを引っ掻き回し、昨晩この小屋を訪れたことが一番の原因。ある意味自業自得とも言える。はは、なんて言うかな。自分に呆れて涙が出るぜ。

「このパンダが。変なことに巻き込みやがって」
「むー! むー!」
「ふはは。どうだ? 転がされて悔しいか?」

 パンダを転がして遊んでいる俺は、外でパンダと俺を見ている客から見れば変人にしか見えないだろう。客が心に抱いているのは、パンダと戯れる俺への哀れみか、それとも可愛らしいパンダを思うがままに玩具にしている俺への嫉妬か‥‥‥‥何にしてもろくなことではないだろう。この動物園での仕事が、短期間で助かった。ここでどんな恥を掻いたところで、俺が本来勤めている動物園にまでは伝わらないだろうからな。

「むーーー!」

 抗議のつもりか、パンダが両手を広げて俺に襲いかかってきた。
 ‥‥‥‥しかし残念だったな。
 大人ならまだしも、子供のパンダに負ける要素はない。

「誰に所為でこんな事になってると思ってるんだ」

 襲いかかってきたパンダをひっくり返しながら、俺は昨晩の悪夢を思い出す。
 夜中、俺の絶叫に驚いて転がったパンダは、しばらくの間「おこして、おこして」とひっくり返ったままで藻掻いていた。
 それまでパンダを相手に恐怖を覚えていた俺は、その瞬間に気が抜けていくのを確かに実感した。なんてことはない。この人語を解し、助けを求めているパンダは、昼間に散々じゃれついてきていたパンダだ。それまで震えていた体が動く。こんなパンダに恐怖を抱いて声を上げていた自分が無性に恥ずかしくなり、自然とパンダに詰め寄っていた。

「驚かせやがって。このパンダめ!」
「ひゃぁっ!?」

 倒れているパンダを抱き抱えて上下に揺らす。可愛らしい悲鳴を上げるパンダ。思わず抱き抱えていた手を離し、俺を見上げてくるパンダに視線を返す。
 ‥‥‥‥このパンダがメスだと言うことは知っていたのだが、それでも少女の声で悲鳴を上げられると抵抗がある。憂さ晴らしに弄ってやろうとも思ったのだが、パンダは「たすけて」と繰り返すばかりで、俺に縋り付くことも止めていた。とても意趣返しをしてやろうなどとは思えない。
 どれだけの時間が経ったのか‥‥‥‥
 実際には数分も経たない時間だったろうが、俺はパンダを前に何も出来ず、溜息混じりに座り込んだ。

「あーもう、何なんだ。お前」

 気味の悪さに声を上げたが、俺は早々に、この喋るパンダに慣れ始めていた。容姿が可愛らしく、声が少女のものだったからか‥‥‥‥自然と恐怖が抜け出てしまっていたのだ。
 気を許したわけではないが、子供のパンダを警戒しているのも馬鹿らしい。と言うより、恥ずかしい。先程まで怖じ気付いていた自分を誤魔化すように、俺は強気にパンダに問いかける。

「何でお前、人間の言葉を話せるんだよ。おかしいだろ」
「それは‥‥‥‥」

 パンダは自分の生い立ちを語る。
 それは至極非常識で、非現実的で、悪夢のような体験談。
 自分自身の変貌。
 精神の変質。
 自身に向けられる好奇の視線。
 真実を知りながら、当然のように調教を施す飼育員。
 救済はなく、ただ偶に訪れる人間の時間。それは過ぎ去る日々を想うだけの時間。
 未来はなく、過去を想い、なけなしの思い出だけが自分を繋ぎ止める。
 壊れてしまえれば楽になれるのだろうに、それが出来ない。人間の記憶は日に日に失われている。しかし“零”にはならない。一つ、また一つと何かが失われているのに、まだ絶望を絶望と認識出来るだけの知識と心が微かに残っている。
 それは、一介の少女に対しての仕打ちにしてはあまりに過酷で、残酷な真実。
 俺は海原 みなもと名乗ったパンダの話を聞きながら、この小屋の異質さを改めて認識して歯噛みした。

(これは‥‥‥‥本気か?)

 みなもの話を信じようとする俺自身を、自分で本気かと疑ってしまう。または、パンダが自分を人間だったのだと本気で言っているのか、動物園は本気で人間をパンダにするつもりなのか‥‥‥‥様々な疑惑が俺の心中を渦のように掻き回し、混乱させる。
 ‥‥‥‥だがその混乱の中で、この状況に納得している自分がいた。
 動物園の中でも、特別に隔離されている檻。それは過去、イベントに使われたために特別に引き離されたとだけ教えられていたが、それは違う。特に危険な病原菌を保有する患者を隔離するかのように、みなもが完全に人外に変質するまでは隔離しておくつもりなのだろう。それなら、この小屋だけがアクリルガラスで厳重に閉ざされている理由もよく分かる。みなもの人間としての声が、外に漏れないようにするための境界。意識が戻っても何も出来ないよう、希望など存在しないと誇示する見せ物小屋‥‥‥‥
 そして先程まで俺が調べていた、パンダに対する資料が何も残されていないという事実。それを合わせて考えれば、みなもの言葉が真実であるか否かを判断することは出来る。しかし判断が出来たからと言って、それでどうするというのだ? 人間を人間でなくすなど、それは正気の人間の手で行われる所行ではない。と言うより、あまりに非現実的すぎて警察も動いてくれないだろう。当たり前だな。「このパンダは人間でした!」なんて声高に叫いたところで、こっちが塀の高い病院に送られるのがオチだろう。

「おねがい‥‥たすけて‥‥‥‥ください」

 目に涙を湛えて懇願するパンダ。俺はその目から視線を逸らし、舌打ちする。
 ‥‥みなもを救うことで得られるメリットなど何もない。むしろ助け出す過程に置いて、俺が越えなければならないリスクは計り知れないだろう。人間をパンダに変貌させる術は知らないが、みなもだけでなく俺までそうなってしまっては堪らない。
 そもそも、みなもをパンダから人間に戻した後、俺はどうするのだ?
 パンダが脱走したとでも言えと? 管理責任を問われて、業界を追われるのは目に見えている。みなもを救えたとして、俺が破滅してしまっては元も子もないだろう。懸命な生き方を選ぶのならば、ここは首を横に振るべきだ。

「‥‥‥‥分かったよ。そんな目で俺を見るな」

 だと言うのに、俺は首を縦に振っていた。
 ああもう、ずるいだろ。マジでずるい。
 甘ちゃんでいるつもりはなかったが、どうやら俺は甘いらしい。俺がいなくなった後、みなもがどんな人生を歩むのか‥‥‥‥それを想像しただけで、既に俺が取る行動は決まっていた。
 ここで見捨てては、俺は必ず後悔する。あの時助けていれば、みなもは助かっていたかも知れない‥‥‥‥そんな可能性が残ってしまう。それを気にして生きていくのも御免だ。今なら助けられる。出来ることはある。ここで見捨てては、後味の悪さ以外は何も残らない。
 そうして、俺はみなもを人間に戻すことに協力することにした。
 それが昨晩の一幕だ。
 今はこうして、みなもと戯れながら、飼育員としての仕事をこなしている。
 しかし‥‥‥‥こうして戯れているだけだと、なんとも不安になるのだ。

「このパンダめ。あまり世話焼かせんな」
「むー」

 抱き付いてきたパンダを引き剥がしながら、思う。
 まさか‥‥‥‥夜の遣り取りは、全部夢だったとか言うオチじゃねぇだろうな?


●●三日目●●


 ‥‥‥‥みなもが人間の意識を取り戻すことが出来るのは、一日か二日に一度、あるかないからしい。
 日付の感覚などないため、みなもには分かっていなかったのだ。
 みなもを責めることは出来ない。しかし二日目、みなもが一向に人間としての意識を取り戻さないことに不安を覚え、戸惑っていた俺の胸中を察して欲しい。
 みなもは延々とパンダのままで、あの夜の出来事は夢だったのではないかと本気で疑ってしまったほどだ。

「もっと、そっちから何とかすることは出来ないのか? 俺に出来ることなんて言ったら、こうして話しかけるぐらいしか出来ないぞ」
「うぅ、そう言われても‥‥‥‥あたしも頑張って起きていようとするんですけど、どうしても眠ってしまうんです」

 三日目の夕刻、意識を取り戻したみなもは、俺に申し訳なさそうに頭を下げた。
 既に園内のお客も引き上げていて、今は動物達の夕食の時間である。みなもの希望でお握りを持ってきたが、パンダに食べさせても大丈夫だろうか‥‥‥‥まぁ、大丈夫だろう。基本的に果物とか色々食べられるし、元々は人間なんだから、よほどの刺激物でない限り問題もないだろう。
 人目あるうちにみなもと会話をするのは少々不安だったが、今を逃すと何時みなもと話せるか分かったものではない。他の飼育員に気疲れやしないかと冷や冷やしていたが、幸いにも、この園ではパンダの世話は基本的に一人で行っている。会話を聞かれることは、まずないだろう。
 ‥‥しかし気になることはある。
 何が気になるのかは俺自身にも分からないが、みなもとの会話に僅かな違和感を覚えるのだ。

「良い方法はないのかね‥‥‥‥少しは意識が保てるようになってきたか?」
「そんなすぐには‥‥‥‥」
「急いで貰わないと困るんだ。俺も、そう長くはここに居られない」

 あくまで、俺はみなもをパンダに変えた飼育員の代理としてここに来ている。飼育員の病状がどれ程深刻なのかは知らないが、園長からはただの“風邪”だと聞いていた。せめてインフルエンザとか、そう言った伝染性のタチの悪い病気ならば一週間や二週間は保たせられただろうが、風邪ではそうはいかないだろう。
 既に三日目。職を持っている成人男性にとって、三日間も風邪で休んでいるのは、十分に長い方だと言えるだろう。

「もうそろそろ、復帰されてもおかしくないんだ。あと一日か二日か‥‥‥‥すぐにでも効果が出る方法を試していかないとな」
「でも、そんな簡単には‥‥‥‥」
「そうか? 簡単にパンダに変わったんなら、簡単に人間に戻る方法もあるんじゃないか?」

 ちょっとした切っ掛けで人間に戻る可能性があるから隔離しているのだとすると、まだ方法はあるはずだ。

「それが分かったら苦労はしないんだけどな」
「そうですよねぇ。でも、意識は最近ハッキリしてきているんですよ?」

 何の効果が出ているのかは分かりませんけど、とみなもは付け足した。
 これまで、パンダの本能に体が支配されている時には、みなもは眠っている状態だったという。つまりは何も聞こえず、何も見えない。夢を見るように過去のことを思い返すことはあっても、それすらも朧気で要領を得ない。
 意識が浮き上がってもそれは常に夢見心地で、思考することすら出来ず、視界も暗く、音も遠い。ただ、自分が自分であると言うことだけは分かる。感じられる。それだけの世界だった。

「今は違うのか?」
「眠ってる時でも、あなたの声が聞こえるんですよ。目が覚めてからも、意識がスッキリしてますし」

 みなもの言葉に、俺はそれまで感じていた違和感に気付く。
 言葉だ。みなもの言葉が、実にしっかりとした声になっている。
 初日の夜中、初めてみなもと言葉を交わした時には途切れ途切れだった言葉が、今ではしっかりと発音されている。感覚的にだが、“ひらがな”ばかりだった台詞に“漢字”が加わったようだ。辿々しかった言葉がより鮮明に、人間と話している時と何も変わらぬ感覚で受け取ることが出来る。

「もしかして‥‥それなのか」
「何がですか?」
「言葉だ。もしかしたら、それが特効薬なのかも知れない」

 俺は何故、この小屋がアクリルガラスで覆われ厳重に隔離されているのかに気付き始めた。
 俺はここに来てから、何度となくみなもに話しかけていた。パンダが自分の言葉を解しているなどと知る以前から、俺はみなもに話しかけていたのだ。
 その言葉が、みなもの精神を揺り動かしている。人間の言葉がみなもの精神を浮かび上がらせ、人であることを繋ぎ止めている。
 この小屋が、厳重に外界と隔てられているのはその為だろう。
 完全ではないが、外の音はほとんど小屋の中には届かない。お客達の声も、みなもの耳には僅かにしか届かず、それではみなもの精神には聞こえない。よって、みなもが人として立ち戻ることも少なくなり、動物としての本能が強くなっていく。
 この小屋は、最初からみなもを閉じこめ、獣に変えるために用意された檻なのだ。担当の飼育員をたった一人に限定したのも、みなもに余分な声を聞かせないように配慮したのだろう。それが裏目に出て俺がここに送られたのだが‥‥‥‥

「三日や四日では戻らないと分かっているからか? いや、そもそもパンダに積極的に話しかけるような飼育員もいないだろうな」
「つまり、あなたと話していれば自然と元に戻るんですか」
「絶対とは言えないけどな。今のところ、それしかしてないのに効果が出てるぞ」

 そう言えば‥‥‥‥具体的な行動は、今のところ何もしていない。
 ただ、パンダとして過ごしているみなもに愚痴や文句を言っていただけである。それだけでここまでの効果が見込めるのならば‥‥‥‥試してみる価値はあるかも知れない。

「続けてみるか。間に合うかどうかは知らないが」
「そんな! ここまで来て、見捨てないですよね?」
「助けようとして自分が犠牲になる‥‥‥‥なんてことは御免なんだよ」

 俺は、突き放すようにそう言った。
 みなもに嫌われたところで構わない。ただ、これだけは言っておかなければならない。俺は本気で、自分の命を賭けてまで他人を助けようとは思わない。それでは本末転倒も良いところだ。みなもは顔を俯かせ、悲しそうに頷いた。

「そうだ。俺まで‥‥終われるかよ」

 自分に言い聞かせるように、俺は何度もそう繰り返していた‥‥‥‥


●●五日目●●


 飼育員の人があたしに話しかけてくれるようになって、ずいぶんと時間が経った気がします。
 動物の本能に襲われて眠っている時でも、飼育員さんの声が聞こえるようになりました。ただ暗くて、静かで、怖かった場所が、今では少しだけ明るくなっています。
 飼育員の人は、いつでもあたしの傍に居てくれました。
あたしと話すために、動物園に泊まり込んで付きっきりで話しかけてくれます。
 会話の内容はとりとめもないことばかり‥‥‥‥偶にあたしに対しての愚痴や文句を言ってきますけど、絶対にあたしの側から離れようとしないんです。
 本当に優しい人。
 でも、だから少しだけ心配です。
 あたしのために、無理をしようとしないでください。
 それだけです。
 お願いですから、無理だけは――――


●● 日目●●


 ‥‥‥‥あたしが飼育員さんと話し始めて、もう何日が経ったのかも分かりません。
 飼育員さんがあたしの傍に居続けてくれたお陰で、パンダの本能は日に日に小さくなっていきました。お陰で、今ではどんな時でも人間として意識で居続けることが出来るようになりました。肉球も少しずつ小さくなって、毛も少しずつ抜け始めて、あたしには分かりませんけど、顔の形が変わり始めたって、飼育員さんも言ってくれました。
 もう‥‥‥‥一人でも大丈夫です。
 もう、動物の本当になんて負けませんから。
 お願いですから、もう止めて下さい。
 お願いですから、言い争いなんてしないでください。
 あたしの傍になんて居なくても良いですから。
 助けようなんて思わないで下さい。
 もう見捨てて下さい。
 止めて下さい。
 その人を、放して下さい。
 もう喋りませんから。
 お客さんに、可愛がられるようになりますから。
 パンダのままでも良いですから。
 その人には、手を出さないで下さい。
 お願いです。
 お願いです。お願いです。お願いです。お願いです。お願いです。
 その人は――――助けて下さい


●●        ●●


 あたしは、いつまで人間だったんだろう。
 記憶を辿っても見付からない。何もかも分からない。
 夢も見ず、何も考えずに過ごしている。
 新しく来た彼も、きっとそう。
 今では何も喋らず、ただあたしの傍に横たわる。
 ‥‥‥‥あたしも眠い。
 もう、このまま目覚めなくても‥‥‥‥いいか、な――――――――



 Bad end



●●Game Over●●

 良いところまでは言ったんですけど、残念でしたねぇ。
 みなもさんは後少し‥‥と言うところまで人間に戻っていたのに‥‥‥‥惜しいところで期限が過ぎてしまいました。今回のポイントは、“飼育員さんと親しくなりすぎたがための悲劇”と言うこと!
 飼育員さんは、思ったよりも情に脆い人でしたね。親しくなりすぎると中途半端に人間に戻ったみなもを庇うため、身を挺してしまいます。彼が一体どうなったのか? それは誰にも分からない。たぶん。うん。きっと、みなもさんの傍にいるとは思いますけどね。
 今回のヒントは、初日に原因に気付いても、きっと期限からして間に合わないと言うこと!
 期限を無理矢理延ばすために、一度、檻から脱‥‥‥‥おっと、もう少しで答えを言ってしまうところでした。危ない危ない。
 では、そろそろセーブポイントに戻って再チャレンジしてみよう!
 なんて、いつまでこのネタを引っ張るつもりなんだと自分に突っ込む、メビオス零です。
 今回の作品はいかがでしたでしょうか?
 前回をも超える悲劇‥‥‥‥ただ見捨てられるだけでなく、自分を救おうとしてくれた飼育員を巻き添えにしてしまったみなもさんの心中は悲しみに満ちてしまいます。
そして待っていたのは、絶望を通り越して諦めの境地。
 自ら獣の意識に身を委ね、眠りについてしまいます。もう目覚めることもないでしょう。むぅ、この動物園は地獄です。まさかここにいる動物達は、みんな人間じゃあるまいね?
 まさか、ね。
 っと、気が付いたら後書きが長くなっていたので、ここらで締めに入ります。
 作品に対するご感想、ご指摘、ご叱責などがございましたら、何度でもファンレター経由でお送りください。余さず読み込み、今後の作品に生かしていきたいと思っております。
 では、今回のご発注、誠にありがとうございました。(・_・)(._.)
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東京怪談
2010年01月20日

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