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『 Divine one――【4】 』
深沢・美香6855)&(登場しない)



 黒塗りのクラウンが深い夜の中を駆けていた。
 ところどころの信号は、黄色や赤に点滅しているばかりだ。
「この道を行くと次にインターが見えてきますから、そこから高速に乗ってください」
 透明なアクリル板越しに運転手の頭が見える。美香はそう声を投げた。
「……で、いいのよね?」
 思わぬトラブルで停まってしまった電車から降りたあと、タクシーに乗ることができたのはよかったが、普段はもっぱら電車を使うばかりで自ら車を走らせることがない美香のことだ。どの道を行けば自宅に帰ることができるのか今ひとつわからない。
 だが、いま美香の隣にいる男は、どうやら道に詳しいらしかった。
「うん、それでいいよ」
 そっと美香に耳打ちしては、タクシーの運転手をどう案内すればいいのかを教えてくれる。

 不思議な夜だった。

  ――君の「兄」っていうのでどうかな。
  ――そう、ちょっとしたゲームだ。
  ――今夜一晩、俺はきみのお兄さん。君は俺の妹だ。

 男はそう言った。
 あまりに唐突に言い出された「ゲーム」に面食らうだけ面食らった美香だったが、不思議と嫌だという気持ちはなかった。
 むしろ、今、美香の胸の中では小さな何かがぴょこぴょこと跳ねている。遠足の前の日には決まってよく感じた感覚だった。
 しかし、なぜ男は、美香の「兄」になる、などと言い出したのか。
「ねぇ。あなた、私の兄になるって言ったわよね? どうして一晩の、兄、なの?」
 ふつうはそういうものなのではないかと美香としては思っていた。ゆきずり同士、ひっかけひっかけられ、どこかの歌謡曲ではないが一夜の恋人か愛人あたりになるものではないのか。
 男は「ああ」と言って笑った。
「さあね。どうしてだと思う? それは俺から君へのなぞなぞだ。当ててみてよ」
 相変わらず、おどけた調子で言う。
「なぞなぞ? それって、ノーヒントなわけ?」
 美香が唇を尖らせると、男は声を上げて笑った。
「ノーヒント。……じゃあ可哀想だから、ひとつだけヒントを出そうか」
「うんうん。何?」
 聞き逃すまいと一生懸命に見つめる美香へと、男は横目をくれた。
「俺が君の客だったから」
 それだけ言うと、シートの背もたれに深く身を沈めてしまった。
 客だったからという理由でなぜ兄になるというのだろう。
「全っ然、わからないわ」
 白いシートをぱたぱたと叩いてみせたが、男は目を瞑って微笑んだままだ。だが、その後に静かな声が言った。
「俺はさ。君は覚えていないんだろうけど、美香を初めて見た時、不思議だなぁって思ったんだよ」
 低いエンジン音の、抑えたような震えが背中に伝わってくる。
「だってさ、君はまわりの子たちから浮いていたよ。雰囲気が違うんだ。海千山千の酸いも甘いもかみ分けたしたたかな女って感じじゃなくて、風が吹いたら飛ばされそうな……というのとも違うけど、何だか不器用そうで」
 男はそう言って少し思い出すふうに首を傾げた。
「泣いていないかなぁ、って、思った」
 リアシートに静けさが落ちる。
 くぐもったクラクションが窓の外を流れていった。
「……泣いてない。私、泣かないもの」
 私は泣かない。それは嘘だ。何度、枕を濡らしたことだろう。何か特別悲しいことがたくさんあったというよりも、心の中にぽかんと開いてしまった穴がいつまでも埋められないのが苦しくて、虚しくて、わけもわからずに一晩中泣いていたこともある。
 だが、泣き腫らした目は誰にも見られたくなかった。
 冷たい水で冷やして、部屋を一歩出るまでには、いつもの顔を何としてでも作らなければ。誰に向かって意地を張っているのかわからなかったが、そんなふうにして一日一日を過ごしてきた年月だった。
 誰にも見られたくなかったのだ。部屋ではこっそり泣いていることを、誰にも知られたくなかった。
 スカートの裾を握った。まだ湿ったままの布地は、体温に温められて少し生ぬるく感じる。握りしめた。
「……泣かないもの」
 男は「うん」と言った。
 肯定するでも否定するでもない、笑っているとも怒っているとも分からない調子の「うん」だった。
 いったいどんな顔をしているのだろうと見てみようとしたが、胸に抱えた書類鞄に頬杖をついているせいで、その横顔はよく見えない。
「じゃあ、あなたは。あなたは泣いたりすること、あるの?」
「……あるよ」
 頬杖をついたままだったが、男が頷いたのはわかった。
「大声上げたり、ハンカチが絞れるほど涙を流したりはしないけど、ある」
「……ふうん」
「男たるもの親が死んだときと財布を無くしたときぐらいしか泣いたらいけない、のかもしれないけど、俺は泣くなぁ。百発ぐらいブン殴ってやりたい上司のことで泣いたり。彼女に振られて酒飲みながら泣いたり。長い付き合いの友達と喧嘩して、俺が悪かったのにヘンな意地張ったせいで謝れないままそれっきりになってしまってさ、そんな自分が悔しくて、泣いたり。なんてね?」
 冗談めかして言う男の声は穏やかで、耳の底に響くようで心地良い。
「……ついこないだも泣いた」
「この間も? 何が……あ、ごめんなさい」
 立ち入ったことを聞くような真似をしてしまったことを謝ると、男はひらひらと手を振った。
「いいんだ。君にだったら話してもいいんだけど。――あ、次だ。次で降りる」
 男がフロントガラスの向こうを指さした。
 オレンジ色に浮かび上がるインターチェンジの看板が見えた。





「ごめんなさい。私のパジャマしかないんだけど……」
 青いストライプのパジャマを貸すことにした。
 なるべくユニセックスな柄のものをとクローゼットの中を探してみたのだが、一番良さそうなモノトーンのパジャマは、あんまりにも長く奥にしまいこみすぎていたせいでクローゼットの匂いがついていた。
「なんで謝るんだ。美香が男物のパジャマをいっぱい持っていたら持っていたで俺はちょっとヘコむぞ。兄として」
 まじめくさった調子で男はそう言ったが、「兄として」のあたりに笑いをかみ殺したような響きがある。
「でも、つんつるてんなそれのせいで風邪を引いても、私、知らないわよ?」
「いいんだ。その時は美香に看病してもらうから」
 まるで子どものように言う。
 いつもだと広く感じる部屋が、今夜はふたり分の笑い声と吐息に満たされてちょっと狭く感じる。それが嬉しかった。
「大丈夫? 着替える前にお風呂に入った方がいいんじゃない? きっと身体、冷えているわ」
「ううん……。そのうち乾くと思うんだけどなぁ」
「ダメよ。今お風呂入れてくるから。ちゃんと温まってきて」
 パジャマ片手に立ち尽くしている男をリビングに残し、バスタブに湯を張りにいく。
 いつもだったらここまでテキパキと動き回ったりはしない。自分のためだけに作る夕食、自分のためだけに入れる風呂。そんなものに気合いを入れたりはしない。だが、今夜は違う。洗いたてのバスタオルを用意して、バスルームにあるものも整えて、見られるとちょっと恥ずかしいものは隠したりもして。
「タオル、置いといたけど、足りないようだったら洗濯機の上にも置いておくからそれ使って?」
 リビングから「ありがとう」と返事が聞こえた。
「あ。そういえば、あなた、下着は……?」
 どうしよう、さすがに自分のものを貸すわけにはいかない。美香が困り果てていると、後ろから声がした。ちょっと決まり悪げな笑いの混じった声。
「いいの。そんなところまで心配しなくたって。俺、さっきそこのコンビニでちゃんと買ってきたから。もう、俺が恥ずかしいでしょ。じゃあ、借りるよ」
 こつん、と美香の頭を小突いて男はバスルームに入っていった。
 まもなくバスルームの磨りガラス越しに漏れはじめた水音に、美香はあわてて男の服を洗濯機に入れて踵を返した。
 タクシーから降りたあと、「明日の朝ご飯を買いたいからちょっと寄っていいかな」と言うのですぐ近くのコンビニに立ち寄った。何気なくヨーグルトとパンと牛乳を買ったりしていたら、男はとっくにレジを済ませて待っていた。そういうことだったのか。
 バスルームの水音に混じる洗濯機のかすかな唸りが、まだ冷たいフローリングから足の裏に伝わってくる。けれど、その冷たさを感じないほど、フローリングを踏んでいる気がしない今の気持ち。こんなに明るい気持ちで部屋に人を入れたのはいつぶりだろう。





「ありがとう。さすが我が妹。美香の言いつけを守ってよかったよ。ずいぶんと温まったしさっぱりした」
「でしょ? あんなの絶対明日には風邪引くんだから。でも、やっぱりそれ当たり前だけど短かったわね。窮屈じゃない?」
 美香はあたたかいコーヒーを淹れて、美香のパジャマに着替えてベッドに腰掛けて頭を拭いている男のもとへと戻った。
「うん、窮屈。で、ちょっと妙な気分だ。……けど、大満足。気持ちよく眠れそうだ。だっていい香りがする」
 そういえばクローゼットの臭い消しの代わりに、香水のボトルを入れていたのだったか。その香りが移っているのかもしれない。
「もう。じゃあその香りで窮屈さは我慢してよ?」
「もちろん。俺は幸せ者だなぁ。こんなかいがいしい妹に恵まれて。――と、美香。かいがいしい妹に甘え放題な兄ですまないんだが、ちょっと水をもらえるかな」
「え? ええ、いいけど」
 見ていると、ソファで大きく伸びをした男は胸元から何か小さなプラスチックのケースのようなものを出した。
 すぐに水のグラスを用意する。
「それ、薬か何か?」
「ありがとう。……いや、ただの栄養剤だよ。サプリメント。寄る年波には勝てないって言うかね、日頃から気をつけようと思ってさ。体調を崩したらいけない」
 たしかに、今なら風邪の一つや二つ引き込んでもおかしくない。
「……そういえば、あなた、仕事は大丈夫なの? 明日の」
 明日は平日だ。平日でなくとも仕事がある場合もあるだろう。そう尋ねてみると、男はグラスから顔を上げた。
「休みなんだ」
「そうなの。よかった、ちょっと心配だったから……」
「というか、しばらく休暇だ。だから気楽なもんさ」
「休暇……?」
 一瞬、頭の中を色々な憶測が過ぎっていったが、さすがに根掘り葉掘りと聞くことはできない。かといってとっさに継ぐ言葉も見つからずに困っていると、「それよりさ」と男の方が聞いてきた。
「俺はともかく、美香はそろそろ休んだ方がいいんじゃないか?」
 チェストの置き時計が、午前4時ほんの少し前を指していた。





 俺は床で寝る、と男は言った。
 背中が冷えるからベッドでと強くすすめても、男は頑として聞かなかった。
「兄たる者、妹を守らずしていかがする」などと時代がかったことを戯れめかして言っていたが、どうやら相当本気だったようで、しかたがないのでベッドの隣の床に夏に使っていたマットレスを敷いて、その上に予備に置いていた布団を掛けて使ってもらうことにした。
 明かりを落とした暗闇の中、床の辺りから静かな掠れ声が聞こえた。
「美香、明日は何時から? ずいぶんと夜更かしさせてしまった気がする。……大丈夫か」
「大丈夫よ。出るのはお昼からだから。充分眠れるわ」
「……そうか。だったら良かった……」
 時計の針の、時を細かく刻んでいく音が微かに聞こえる。
 布団の中で身体が温まってきても、目は冴え冴えとしたままだった。決して嫌な緊張ではなかったが、いつもとはまるきり違う状況に、身体と神経はさすがに覚醒したままだ。
 それはどうやら男の方も同じだったらしい。
「……美香は、小さい頃何になりたかった?」
 囁きに近い小声が、耳元に触れた気がした。
「……小さい頃?」
 小さい頃。
 何をしていたっけ。
 そういえば子どもらしくおままごとをしていた頃もあったなぁ。近所の友だちと人形遊びをしたことも、シロツメクサで首飾りを作ったこともあったっけ。そういえば、小学生の頃の家庭教師は時々ごほうびに面白い絵を描いてくれて、好きだった。
「なりたいものなんてたくさんありすぎたかも。しかもどんどん変わっていくのよね。……最初は、ピアノの先生だったかな。習っていたピアノの先生がとってもきれいで優しかったの。それから看護婦さん。うちに祖父の往診でいらしていたお医者様がいつも看護婦さんを連れていらっしゃったのね。その看護婦さん、祖父の具合がいいときには一緒に遊んでくれたの。笑った顔がすてきな看護婦さんだったわ。……あ、今って看護師さんって言うんだっけ」
 自分が「お嬢様」だった頃の話は誰にもしたことがなかった。芋づる式に思い出せば思い出すほど辛くなるから、人にも話さなかったし、なるべくなら考えないようにもしていた。それでも時々思い出しては悲しくなっていたけれども。
 でも、今は、なぜか心は痛まなかった。
 ひどく遠く感じる日々の景色を思い出しながら、切ないような懐かしさだけが、心を浸している。
「それから、それからなんだったかなぁ。そう、お花屋さん。私、生け花をやっていた頃があったのね。母もやっていたから、出入りの花屋さんがうちにはよく来ていたの。いつもきれいな花とか木の枝とかを見せてくれて、いい香りがして……毎日あんなのに囲まれて過ごせたらとってもすてきだわ、って思ってた」
 思えば、あの頃、自分は優しい人たちに囲まれていた。
 何かに脅かされることもなく、意地悪をされることもなく、みんなが大切にしてくれた。
 それなのに、自分はいったい何が不満だったのだろう。いや、それは何度も自分に問うてきて、とっくに答えが出ていることなのだけれども。
 あの頃、自分のまわりは優しくて明るい光に満ちていた。
 雨は止んだようだが、今夜は曇り空だからか、いつもならカーテン越しに窓辺から差し込んでくる月明かりもない。
「美香はさ」
 それまで静かに聞いていた男が言った。
「100年後にはいない自分のことって、考えたこと、ある?」
「……100年後?」
 吐息を乗せた低い声だった。
「100年前ってさ、爺さんやひい爺さんが生きていた時代だって考えたら、そんなに遠くないと思う。100年後も、もし俺や美香に子どもがいたとして、その子どもが生きているかもしれない世界だって考えたらそんなに遠くない気がする。……でも、俺たちは、よっぽど医療や科学が発達するかギネスに載るようなことでもない限り、俺たちは100年後にはいないんだよね。そう考えると100年後ってのは、遠くはないのに、手の届かない未来だ」
「……届きそうで、届かない未来……?」
「……うん。俺たちの時間って、そんな枠の中でしかないんだなぁってね」
「……そうね。でも、たった100年足らずなのかもしれないけど、その100年足らずの時間の中でも、いろんなことがあるわよ? 私、時々……ううん、しょっちゅう疲れちゃうもん。もう嫌だって」
 男の笑う気配がした。
「そうだよなぁ。俺だってそうだ。一抜けた、とやりたくなる。全部放り出したくなる。でも」
「でも?」
「でも、俺たちは何一つ100年後には持って行けない。金や物やこの身体なんかは言うまでもないし、この心も持っていけない。楽しいとか嬉しいとかいう気持ちも持って行けないけれど、憎い苦しい悲しいって感情だって持って行けない」
 急に、胸を締め付けられるような寂しい気持ちになった。
 広大無辺な宇宙の中にたった一人きり、置き去りにされたような。
「何も、持って行けないんだ。やりたかったことも、みんなだ。……花屋をやりたかったんだろう?」
「……うん……」
「だったら。美香、やればいい。やりたいことを」
 衣擦れの音。
「君はまだ若い」
 男が身じろぎするのを感じた。





<続く>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
工藤彼方 クリエイターズルームへ
東京怪談
2010年01月22日

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