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『香雪告げし初春の 』
ククノチ(ec0828)

 一目逢っておきたかった。
 愛おしんでくれたひと。心ほぐす切欠をくれたひと。
 婆様に――江戸を離れるその前に。

●春告花
 江戸から徒歩半日ほどは慣れた場所に、年寄りばかりが暮らす村がある。
 若い世代は皆江戸へ居を移し、残ったのは老いた者ばかりの村――と言うと姥捨て山の暗澹さが漂うが、村人達は皆朗らかだ。
 自分達で出来る事はする、それで出来なければ助力を頼めばいい。あっさりしたもので、有事の際には江戸へ使いを走らせる。江戸ギルドを通じて得た、冒険者との縁も深かった。

 年明けて三が日が過ぎた頃。
「おタカ婆様!」
 若々しい声が響いた。村には珍しい、訪問者だ。
 名を呼ばれたおタカは、聞き覚えのある声に相好を崩した。孫のように思う愛らしい冒険者の声を間違えるはずもない。
 歩みの足ももどかしく、転げるように庭へ出る。そこには見覚えのある大熊――キムンカムイのイワンケとククノチの姿。
「来て‥‥くれたんだねえ」
 ククノチを迎え入れたおタカ婆の笑顔は、何だか泣き笑いのように見えた。

「おタカ婆様、明けましておめでとうございます」
 屋内へ招き入れられたククノチは、三つ指ついて改めて新年の言祝ぎを述べる。
 手土産にと差し出した包みからは柔らかく甘い果実の香り。これはこれはと返礼し、おタカが受け取った土産の中身は林檎の焼き菓子だ。
「それと‥‥おタカ婆様の味に近付きたく‥‥」
 続いて控えめに出されたそれは、大根の糠漬け。作ってくれているんだねえとおタカは嬉しそうだ。暫しの滞在を請うククノチを拒むはずもない。数日の里帰りを喜んで受け入れて、孫と婆は江戸の冬を過ごす。

●雪中梅
 外は雪。
 背筋をぴんと伸ばして囲炉裏端で針を運んでいるククノチの心は、戦いに臨む時と同様に澄み切っていた。
 いつだって真剣に全力で。大切な人が教えてくれた事でもある。
 イワンケが持っていた荷の中身は、生地一反と沢山の毛糸玉。ククノチが望んだのは村人達との何気ない暮らし――そして、おタカの裁縫指南であった。ククノチが袷を縫っている傍では、おタカが編み針を動かしている。
 しんしんと降り積もる雪に耳を傾けると、時が止まったような錯覚に陥る。
「ああ、そこは縫込み過ぎると攣れるからね」
 無心で針を運んでいたククノチは、おタカの声に意識を戻した。
 攣れないように少ぅしだけ縫わずにおくんだよ。おタカはそう言って、淡橙の身頃を受け取り手直ししてやる。生地を少し扱いて緩みをつけて、再びククノチに渡すと編み物の続きに取り掛かった。
 小柄な娘が着る衣装。淡い橙の地色に小梅が映える生地は、ククノチにとてもよく似合うだろう。
 自然微笑んでしまうおタカから身頃を受け取ったククノチも、ありがとうと微笑み返す。婆と孫の和やかな時が流れていた。
 毛糸を編んで布地を作り上げる技術はジャパンでは珍しい。おタカは初めて扱う編み針と暫し格闘していたものの、年の功かすぐに慣れたようだ。模様編みの方法を尋ねては器用に編み上げてゆく。
「ここの目はどうすればいいのかねえ」
 今度はククノチが師だ。編目を滑らせて交差させるのだと教えると、おタカはなるほどねえと編み進めた。
 仕立てたいもの、編み上げたいものが沢山あった。おタカが手伝っているのはイワンケの襟巻き、もう随分編んでいるような気がする。
「おタカ婆様、イワンケ殿の襟巻きは、どれ程の長さを編めば良いだろう?」
 そうだねえ、とおタカは編み生地を膝に置いて首を傾げ‥‥そう言えば、と続けた。
「イワンケは熊だよねえ」
「キムンカムイ、神の使いともされているのだけれど‥‥イワンケ殿は冬眠しないのだろうか」
 大きな大きな友人に暖かい頃と変わった様子はない。互いに首を傾げていると、窓の外からイワンケが顔を覗かせた。
「おや、噂になっているのがわかったんだねえ」
 ころころとおタカが笑ったのを不思議そうに見つめるイワンケ。お茶にしようかとククノチが席を立った。

 熱い番茶に茶請けは沢庵。
 ククノチが漬けたそれを一口齧ったおタカは「いいお嫁さんになるよ」と微笑んだ。
 沢庵の師に褒められて嬉しくないはずがない。ほんのり頬赤らめてはにかんだククノチは思い切って口を開いた。
「おタカ婆様、その‥‥」
「こないだ連れて来てくれた男の子かい?」
 こっくりとククノチは頷いた。
 大切な人がいる事、その人とこの先の人生を共に歩んでゆく事。多くは語らなくても、目の前の人には伝わっていた。
「松が取れたら、互いに一度里へ帰るので‥‥それまではここに」
「もちろんだよ、袷も羽織も襟巻きも仕上げようね」
「手袋も編めるだろうか。掌と甲と手首までを覆う青白の手袋、弓を持ちやすいように指抜きの」
 やけに具体的なのは、身に付ける人の事をとてもよく知っているからにほかならず。
 語るククノチの表情が幸せに輝いているのを、おタカは嬉しそうに見つめていた。

●残梅香
 松も取れようかという小正月近き頃。
 行きとは違う荷を背負ったイワンケの姿があった。荷の中身は縫いあがった小梅の袷と羽織、手袋や耳当てなど故郷の家族へのお土産だ。イワンケの巨体には長い襟巻きが巻いてある。お日様を含んだような金色の被毛と相まって、もこもこと暖かそうだ。
 旅立ちの知らせに、おタカの茶飲み友達の村長と猟師の与平が見送りに来てくれた。
「村長殿、与平殿‥‥お世話になりました」
「いやいや、何のお構いもできず」
「長はああ言ってるが、ククノチ殿、またいつでも遊びに来られよ」
「忝く‥‥」
 見送りの面々にも丁寧に挨拶をしたククノチの視線が、おタカの前で止まった。
 こんなに小さかっただろうか。
 毛糸の肩掛けを羽織ったおタカの姿に頼りなさを感じて、別れ難くも思った。でも――
「幸せにおなり」
 肩掛けを撫でておタカは言った。別れの言葉を、愛しげに、大切に‥‥老女は気持ちを言葉に表した。
「いつも気に掛けてくれてたね‥‥あたしほど幸せな婆はいませんよ。だからね‥‥今度はあんたの幸せを願わせておくれ」
 だからククノチは頷いた。幸せになりますと。

 行って来ますと手を振って里を離れる娘を見送り、姿が見えなくなった所でおタカの理性が崩れた。
 駆け寄る茶飲み友達の目も構わず泣き崩れたおタカは、それでも送り出した事を悔いはしなかった。
 幸せな思い出をくれた愛し子の新たな旅立ちを、心から幸せを願って見送ったのだから。

 ――ありがとう、世界で一番幸せな子になるんだよ。
WTアナザーストーリーノベル -
周利 芽乃香 クリエイターズルームへ
Asura Fantasy Online
2010年01月25日

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