▼作品詳細検索▼  →クリエイター検索


『 焔虎、覚醒 【2】 』
瀬名・夏樹8114)&神木・九郎(2895)&(登場しない)



 お世辞にも広いとは言えないグラウンドが、山火事さながらに燃えている。
 火のつきそうな物はおよそ無いというのに、背丈以上もある火の柱は依然としてその勢いを弱める気配がない。
 なぜならそれは自然な化学反応で生じた炎ではないからだ。焔虎の末裔たる夏樹の力が起こした異種の存在の力によって生まれた炎だからだ。そこに、人間たちが知る自然の摂理は存在しない。
 炎の壁が幾重にも立ち上がっている、その中心で、四肢を大の字に放り出して寝転がっていた少年が、やにわに身を起こした。
 隣にいた夏樹は、慌てて少年の身体に取り縋った。
「ちょっと! 大丈夫!? そんなに動いたりして」
 案の定、少年は立ち上がったもののすぐによろめき、倒れ込みそうになる。
 肩口から噴き出たらしい赤黒い血が、破れた学ランの布地を目に見えて黒々と染め上げていく。
「ほら、駄目よ! 大量出血で死んじゃったらどうするの!?」
「……誰が死ぬか。ンなもん、舐めときゃ治る」
「治らないわよっ!!」
 妖魔のカマイタチに全身を切り刻まれたのだ。
 肩も首の付け根も、手も足も。
 最悪の事態まで想像して、それをどうにか回避出来たらしいと知ったのが、つい先刻のことだ。
「いいから座ってなさいよ! 安静第一っ」
「嫌だね。アレとかソレとか壊したしな。エラく派手なことになったし、野次馬もそろそろ押し寄せてくる頃合いだ。ヤツらにとっ捕まったら、面倒なことになる。第一、アレの賠償なんぞ出来んしな。俺はズラかる」
 そう言って少年が指さしたのは、校旗掲揚塔だ。真ん中で真っ二つに折れて傾ぎ、土台となっている石積みもほとんど見る影もなく崩れている。
 たしかにこの惨状は、気のせいです、だとか、ちょっと花火していました、だとかいう言い訳で誤魔化せるとは思えない。
 などと考えていた夏樹の視界に、横をそっと過ぎる影が見えた。少年が、忍び足で夏樹の傍らを過ぎようとしていた。夏樹がよそ見をしている間の隙を狙ったらしい。
「こらっ! だからって逃げないっ」
 手首を掴んで引っ張り戻す。
 今逃げられたら追いかけられないのだ。今の夏樹は、何一つとして身につけていない。こんな恰好で町中鬼ごっこなど出来るわけがない。
「もうっ。大声で叫ぶわよ!? この人に襲われたーって!」
 意外なことに、夏樹の言葉に少年は目を瞠った。およそ表情の変化に乏しい少年が顔色を変え、珍しくしどろもどろになる。
「はぁっ!? な、なんだそれ……」
 ふん、と胸を反らし、夏樹は少年に言い放った。
「逃げようとしたら、言うからね。大声で。襲われたって。……だから、ちゃんと身体を休めていてよ」
 少年は不承不承といった様子で、腰を下ろした。
 少年が座ったところの砂地に、血がぽつぽつと落ちて染みを作っていく。
 先ほどまでの出血も鑑みれば、本来なら立てるはずもない出血量なはずだ。
 それでも立ったり、それなりの軽口を叩いたり出来るのだから、相当に常人離れしている。さすがに顔色は悪いが。
「身体休めてろったって、人が来たらどうすんだよ。てか、もうそこまで来てるぞ。俺には聞こえる。野次馬どもの騒いでる声がな。……言い逃れできねぇぞ、これ」
 夏樹の耳にも聞こえていた。「何が爆発したんだ!」だの、「誰か巻き込まれたみたいだぞ!」だのという言葉がたくさんの声に混じって聞き取れた。群衆は炎の壁の向こうにいるらしい。今、夏樹が生み出した炎は、思いがけなくもバリケードの役目を果たしている。
「私がどうにかするよ。……ね、神木くんって、見たことはない気がするんだけど、ここの学校の生徒なの?」
「いや、どうにかするったって。……ん、ああ、俺の学校はここじゃない。自分の学校じゃ、こう派手なことはできんだろ」
 ぼろぼろに敗れた制服を破いて、九郎の足の付け根近くを縛った。これで膝から下の怪我の止血にはなる。問題は、肩付近の止血をどうするか、だ。首もやられている以上、下手なことは出来ない。
「ちょっと、動かないでよ。って、え? じゃあ、どうしてうちの学校にいたの? あの女妖魔追いかけて?」
「……客の個人情報は完全秘匿する主義なんでね。あの女妖魔を追いかけていたというところまでは認めるが、これ以上は言わん」
 また不可解な言葉を聞いた。思わず顔を覗き込む。
「客って? お店……じゃないわよね。探偵か何かをやっているの?」
 少年は夏樹の追及に、ガシガシと頭を掻いて言った。
「あぁ……まぁ。探偵まがいの何でも屋をやってる。一人暮らしをやっているんで、その生活費稼ぎだな。俺の望む額さえ貰えりゃ何でもやる。だから何でも屋だ。……おい、いいのか。こんなことしてて。いくらなんでも時間がないだろ。逃げられなくなるぞ」
 自分の出血よりも、周囲が気になっているらしい少年の顔を、夏樹はまじと見た。
 まだ自分と同じ高校生なのに、一人暮らしをしていて、どんな経緯があってか、生活費も自分で稼いでいるという。たしかに、誰かに頼って生きているのではない独り立ちしているような雰囲気がある。物事に動じなさそうなのも、「何でも屋」の仕事でいろいろな事を見慣れているからだろうか。
「そうだったんだ。……あ、じゃあ、神木くんさ、携帯持ってる? ちょっと、その、知り合いに電話を掛けたいんだけど」
「携帯……あぁ。俺の右のポケットに入ってる。ちょっとこっちの手が動かねぇから勝手に抜いてくれ。……が、知り合い?」
「うん、私の知り合い、こういうことが起きた時には動いてくれるんだ」
「動くって、どういうことだ」
「ああ、うん……。あんまり表沙汰にならないようにしてくれるってこと。騒ぎが酷いことにならないかって、心配なんでしょ?」
 少年ははっきりと眉を顰めた。
「表沙汰にならないようにする……? おまえの知り合いが、か?」
 少年の「おまえは何者だ」と言わんばかりの視線を感じながら、夏樹は思った。
 この少年は、私のことや、私の一族のことを知っても、私のことを忌み嫌ったりしないだろうか。私の手はとうに血に塗れているけれど、そんな私を穢らわしく思ったりしないだろうか。
 この少年は、先刻、私を見上げて言った。
『なかなか……やるじゃねーか、おまえ……』 。
 あの時の言葉、あの時ほんの少し見えた、感心した風な笑い。あの一瞬、私は思ったのだ。この少年なら、私も知らない私の本当の姿を、真っ向から受け止めてくれるかもしれない。そう予感した。
 その予感は、当たるのか外れるのかわからないけれど。その、ほんの少し垣間見た希望に、私は賭けてみたい。
「……あぁ、そうだ」
 少年が思い出したように付け加えた。その顔にはもう夏樹を怪しむような色はない。
「俺のことは、九郎、って呼んでくれ。……『神木くん』とか呼ばれると、あー、何つーか、その、こっぱずかしいっていうか……」
 神木九郎という名の少年。
 その名を知ってから、まだどれだけも経っていない。





 夏樹は喫茶店の窓際のテーブルでオレンジジュースを飲んでいた。
 学校からは町を四つ挟んでいる町の、駅前から少し中に入ったところにある喫茶店。
 両隣のビルには、半年前とは違う店舗が入っていた。
 この町は店も人も入れ替わりが激しい。
 それゆえに密談をするのにふさわしい場所がないときにはしばしば使う喫茶店だった。
 夏樹の自宅からも遠く、学校からも遠い。ましてや、入り組んだ路地の中にある目立たない店であれば、めったなことでは学友に見つかることもない。
「私が渡した地図、ちゃんとあってたよね……」
 夏樹は窓の外に目を懲らしながら呟いた。
 窓際のテーブル席とはいえ、窓の外には葉の密に茂った木が植え込まれている。夏樹の姿は通りからは見えない。そのくせ、葉の隙間から表を行き交う人の顔は見える。カウンターからも遠く、聞き耳を立てられる危険もないという、絶妙なポジションだ。
 汗の付いたグラスを傾け、少なくなったオレンジジュースを啜る。
「九郎、遅いなぁ。このお店、わかんないのかな」
 まさか。
 九郎は探偵みたいなこともやっている「何でも屋」だと言っていたし、方向音痴な探偵なんていないだろうとも思う。それとも、ひょっとして自分が渡した地図に間違いがあったのだろうか。たしかに手書きではあったのだ。そう考えて一気に不安が増した時、店の入り口の方でドアベルの鳴る音が聞こえた。
「済まん、バイトが遅くなった」
 開口一番そう言って夏樹の前に腰を下ろした九郎は、早々に「で?」と夏樹を促した。
「相談ってなんだ」
 それには答えずに、夏樹は言った。
「バイトって、例の何でも屋のお仕事だったの?」
「いや、違う。今行ってきたのはラーメン屋だ。何でも屋の方は、依頼があればまとまった金が入るが、依頼がない時はてんで金が入らないからな。家賃と光熱費と食費分は他のバイトで固めとかねぇと、もしもの時がヤバい」
 そう言って、「今月はラーメン屋が4万入って、コンビニが4万8千円。酒屋が潰れた分の埋め合わせに2万……」などと呟きながら指折りだした九郎の顔を、夏樹は思わず見つめてしまった。
 目の前にいる九郎は、やたらと現実的な生活の匂いがする少年だ。あの日、人の身でありながら女妖魔と正々堂々対峙して、鋭い眼光を放っていた少年とは違う。あれは九郎の「仕事の顔」だったのか。
 本題を切り出したのは九郎の方だった。
「で、こないだの学校のあれはどう始末がついたんだ?」
 グラウンドを焼け野原にしてしまった例の事件のことだ。その後の話ならきっと聞かれるだろうと思っていた。
「あれはもう大丈夫。グラウンドに埋まっていたガソリンタンクにまだガソリンが残っていて、それに引火して爆発したってことになったよ」
「ガソリンタンク?」
 九郎が、いったいどういうことだ、と声を潜めて訊ねてくる。
「あのグラウンドの下には、ガソリンスタンドの地下タンクが埋まっていたってこと。もちろん、全部作り話だけどね。あの学校のグラウンド、12年前ぐらいにあの場所に移転したんだって。だから、それを利用したらしいよ。以前はガソリンスタンドがありました。ガソリンスタンドが潰れたあと、何の不手際か、ガソリンを貯蔵しておく地下タンクが撤去されずに残っていました。元々老朽化していたタンクからガソリンが漏れて地上近くに染み出してきていたのに、何かの拍子に引火しました。ということになったみたい」
 そこまで聞くと、九郎は呆れたとでも言うように顔を覆った。
「……まった、とんでもねぇ話をブチ上げたもんだな。じゃあ、引火の原因は」
 たしかにとんでもない話なのかもしれないが、この手の隠蔽話をわりと日常茶飯事的に聞く夏樹としては、九郎の言葉はあまりピンと来ない。いい加減麻痺しているのかもしれない。
「爆発の直前に不審者がグラウンドを歩いていて、たまたま落とした煙草の火がガソリンに燃え移ったとか。そんな感じの事件として処理されるって。学校よりも、行方知れずのスタンド経営者側の方に非がある事故ってことで、今後捜査するとか言いつつうやむやにする方向だって聞いたけど……」
 へぇ、とだけ言って九郎が押し黙る。
 夏樹を睨むように見つめてくる視線は、微塵たりとも動かない。
 九郎の言いたいことはわかった。そんなことが出来るのは何故だ、と九郎の目が言っているからだ。夏樹は小さく溜息をついた。
「私の一族には隠蔽工作が出来る人が多いんだ。警察関係とか消防関係とか医療関係もだけど、そういうところの上にいる人がたくさんいて。こういう事態があった時には処理してくれるの。九郎も見たでしょ? 私があの姿になった時に」
 九郎の携帯から電話を掛けた後、ほどなくして黒いスーツに身を包んだ何人もの大人がどこからともなく現れた。
 色の濃いサングラスをかけて、顔の表情を見られないようにした男たちが、そろそろ消えかけていた火の中から間一髪、二人を連れだしたのだ。
 それにしてもあの迎えがやってきた時はさすがに気まずかった。何しろ全裸だ。そして九郎と共にいるというのも恥ずかしく、いくら能力を発動したためとはいえ、夏樹としては消え入りたいような気持ちでいっぱいだった。むろん、男たちの方は夏樹の姿を見ても顔色一つ変えなかったのだが。
「ああ……まあ、一応健康的な肉体美の範疇ではあったかな、と……」
「って、そっちじゃないわよ!! こんの、どスケベっ! 早く忘れなさいってば!!」
 頭を軽くハタいてやると、九郎は、うぐ、と小さく呻いた。
「いや、わかってる。わかってるって。あれがおまえの一族ってヤツなんだな。で、とんでもねぇデタラメを通せるくらいの力を持っているということもわかった。そういう力を持っているのは、つまり、おまえのあの時の変化……っていうのかな、あれに関係しているんだろう? そして、今日俺に持ちかけた相談ってのも」
「……そうよ」
 夏樹が頷いてみせると、九郎は不意に真剣な顔になって聞いてきた。
「夏樹。おまえはさっきから、一族、一族って言うが、いったい何の一族なんだ?」
 夏樹は、ゴク、と固唾を飲んだ。核心に触れる問いだ。一瞬の躊躇いが生じた。今まで一族以外の者にこれを明かしたことはない。夏樹たちをそれとなく異形の存在であることを知っている者ならそれなりにいるだろうが、名までを自ら明かしたことはなかった。
「焔虎、よ。焔虎の一族」
「焔虎……」
 九郎の唇が夏樹の言葉を繰り返して呟いた。
「……私、人間じゃないんだ」
 その一言を言うのに、密かにどれだけ緊張していたことだろう。
 九郎はその目で見てもうわかっていることだ。だが、それをいざ言葉にして伝えるとなったら、決意が必要だった。昨夜も眠れずに、ベッドの中でそのことばかりを考えていた。人間じゃない、獣人なのだと告げたなら、九郎は自分を拒絶するだろうか、と。
 だが、今九郎を前にして「焔虎」であることをとうとう自分の口から言ってしまった。人間、弾みがつけば、何でも出来るものなのかもしれない。その告白は意外なほど、するりと言葉になって出た。
 その一方で、「人間じゃない」と口にした言葉はすぐに自分に跳ね返ってきて、胸を刺しはじめる。自分が、人間の姿を取りながら人間を欺いて存在している怪物のように思えてくる。
 意外にもまっすぐに言葉にできた驚きと、今まで強いて言葉にしてこなかったことを口にしてしまった後悔とが、胸の内を行き来していた。
「九郎は見たからもうわかっているだろうけど、半分獣で、半分人間っていうのかな。もしかしたらそれともちょっと違うのかもしれない。よくわかんない」
 知らず、自嘲的な乾いた笑いが漏れた。
「ほんとに。ほんとは自分でもよくわかんないんだ。私、物心がついた頃には、自分が人と違うって薄々感づいてたんだけど」
 九郎は黙ったままだ。今、どんな目をしているのだろうか。顔は見たくなかった。ストローの包み紙を弄る自分の指先だけが見える。
「自分でもよくわからないうちに、物を壊したり、人を傷つけたり……殺めたり、していたから。自分の知らないうちにだよ? そうしたいとか思ったことはないよ。なのに、気付いたら、そうなってた」
 あの女妖魔の時だって似たようなものだった。
 九郎をめちゃくちゃにしたことに怒りがこみ上げて、物凄く悲しくて、やりきれなくて、そうしたら自分ではよくわからないうちに、周りが燃え上がっていた。
「焔虎の血を引いているからだって一族の者たちは言うけれど、一族の中にだって、私みたいなことをやっちゃう人はいないよ。それは一族の中で私だけが先祖返りを起こして一番強い力を持っているからだ、っていうのも聞いたけど、私、こんな力欲しくなかった」
 長年封じてきたせいだろうか。さっきの一言を解放したら、堰を切ったように溢れだして止まらなくなっていた。
「だって、私、自分で自分がわからない。私みたいになるのは他に誰もいなくて、たった一人私だけっていうことは、私の立場をわかってくれる人は誰もいないってことだよ。私は誰を見て何を見て、自分のことを知ったらいいの? 私だけが、これからどうなっていくのかだってわからない。私、自分が怖いよ……!!」
 気持ちの昂ぶるままに、半ば叫ぶように一気にまくしたてた夏樹に、九郎はひと言、「そうか」と言った。
 静かな声だった。力弱い者を悪い意味ではなく憐れむような、静かで穏やかな声だった。
 それきり、何も言わない。
 沈黙が落ちた。
 空調から流れ出している風がテーブルの上の紙くずをそっと嬲っていった頃、どうにか気持ちを落ち着けて、夏樹はようやく口を開いた。
「……ねぇ、この力を鍛えるにはどうやったらいいのかな。自分の力をちゃんとコントロールして使えるようになるにはどうしたらいいと思う……?」
 腕を組んで、九郎は首を捻っていたが、しばらくの沈黙ののちに、「さぁ」という声が返った。
「今の言葉からしておまえ自身わかっているんだろうが、俺はおまえじゃないからな。おまえじゃない俺が、おまえに対してどうしたらいいとか言えねぇ」
 たしかに、その通りだ。
 だから、夏樹は孤独だったのだ。
 誰も、自分の置かれている境遇をわかってくれない。誰も行く先を指し示してくれない。
 道標がまったくない道を歩んでいるような孤独感。
 そして今、九郎にも突き放された。
 思わず唇を噛む。鼻の奥がつんと痛んだ。
 九郎なら教えてくれるかもしれない、なんて根拠もなく期待したのが馬鹿だったのかもしれない。
 いけない、泣きそうだ。
「でも……でもさ、九郎は人間なのにあんなに凄い力を持っているじゃない。きっと訓練したんでしょ。力を引き出せるような訓練を。あれは本当なら出せない力だよ。私、見たからわかる。自分をコントロール出来るから、ああいうふうに力が使えるんでしょ?」
 うっかりと涙してしまいそうな自分を誤魔化そうと思ったら、むやみやたらと早口になった。
「言っただろう? 俺は俺自身をコントロールする以前に、俺自身を熟知しているからあの力が出せるんだ。俺はおまえじゃないから、おまえがどうしたら力を制御できるようになるのかを教えられん。……俺にわからんものを教えるとか面倒だ」
 面倒、という言葉が夏樹の痛む心をさらに抉った。
 炎の中で感じた「九郎だったら大丈夫だ」という予感は全く見当違いな予感だったのか。
 視界がみるみる滲んでくる。
 九郎の言うことは一理あると思う。自分のことは自分でしか知りようがないということ。誰かが教えてくれるわけじゃないということ。それはその通りだと思う。
 でも、ここで引き下がりたくはない。
 自分の勝手な思い込みなのかもしれないけれど、初めて自分の本当の気持ちを打ち明けられる仲間を見つけたと思ったのだ。このまま関わりのない者同士に戻りたくはない。
 夏樹は、バン、とテーブルに両手を突き、椅子から立った。
「ねぇ、九郎って、何でも屋なんでしょ? だったら、だったら私、仕事として依頼するわ」
 九郎は驚いたように夏樹を見上げた。
「いきなり何を……。仕事としてって、おまえ、俺に報酬を払えるのか?」
「どうにかするわよ、あの事件をどうにかしたみたいに。私、自分を鍛えようと思うの。自分の力を使いこなせるように。自分の力に振り回されないために。自分のことを知らなきゃ駄目だっていうのなら、自分でやってみるよ。試行錯誤してみる。全部九郎にどうにかして欲しいなんて言わない。だから、手伝いをして欲しいの。私の訓練の手助けをして」
 後は野となれ山となれ、一か八かダメ元だと覚悟を決めて一息に言った。
 九郎を見た。
 九郎は頭の後ろで手を組み、やがて一つ息をついた。
「依頼だってんなら、断れねぇ」
「本当!? じゃあ、引き受けてくれる?」
「……仕事内容は、『夏樹の訓練の手助け』、と」
 返事の代わりなのか、学ランのポケットから出したメモ帳に走り書きをしだす。仕事用のメモなのだろうか。
「だが仕事なんで、依頼人と請負人の契約が必要だ。後日契約書を送るから、それを書いて俺の住所宛に返送するか、直に持って来るかしてくれ。これが俺の名刺だ。――と、いっけね。そろそろ次のバイトに行かなきゃなんねぇ時間だ。俺は行く」
 腕時計を見るなり慌ただしく席を立った九郎を引き留められるものなら引き留めたかった。それは叶わないとわかっていたが、それでも心の底から礼を言いたかった。
 九郎、本当にありがとう。
 そんな叫びがあともう少しで喉から出かけた時だった。
 振り返りざまに九郎が言った。
「……けどさ、あの女妖魔をぶっ倒した時の夏樹は、結構格好良かったよ」
「九郎……っ」
 背を向けたままそう言い残して、九郎は店を出て行った。
 その後ろ姿を見送ってしばらくののち、夏樹の不穏な呟きがぼそりとテーブルに落ちた。
「……て、ちょっと、あんた。男なら奢りなさいよ。奢りが苦しいんなら、せめて割り勘……」
 九郎がくれた名刺の代わりに、テーブルに残った伝票を握りしめて。





 駅のホームはラッシュ時だけあって、家に帰るサラリーマンたちの姿が多かった。
 目の前を走り抜けていく快速電車の窓にも、吊革につかまる人々の姿が見える。
「でもなぁ……。仕事として依頼したから引き受けてくれたってだけのことなのかなぁ……」
 ホームの片隅で、夏樹は小さく呟いていた。
 結果的に夏樹の相談事を九郎は引き受けてくれた。
 だが、「面倒だ」とあっさり言い捨てた九郎の声音も蘇る。
 自分が焔虎という獣人であって、人間ではないことを告げても、九郎は自分を白い目でみたりしなかった。だから、九郎の「そうか」という低く短い呟きが、自分の心の深いところに落ちた気がしたのに。
「依頼だってんなら、断れねぇ」と九郎が言ったということは、夏樹が仕事として頼まなかったら引き受けるつもりはさらさらなかったということだ。
 すっきりとしない気持ちを抱えたまま、乗れば最寄り駅まで連れて行ってくれるはずの電車を何本かやり過ごし、夏樹は自販機で紅茶を買った。
 プルタブを起こして、仄かに茶葉の香りが薫るミルクティーを一口含む。
 冷たく柔らかい甘さが喉を滑り落ちていった。
『――夏樹、結構格好良かったよ』
 3番線に電車がまいります、という駅員のアナウンスがホームに響いた。
 ホームの人々が動き出す。
「格好良かったよ、か……」
 わからないことも心配なこともモヤモヤとした気持ちもたくさん残ったままだけど、明日からはまたちょっと違った日々になるはずだ。さあ、帰ろう。
 夏樹は大きく背伸びした。
 真・獣化した焔虎の自分をそう言ってくれた九郎の声を、まだ耳の奥に聞きながら。





<了>
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
工藤彼方 クリエイターズルームへ
東京怪談
2010年02月12日

投票はログイン後にできます。

ログインはこちら












©Frontier Works Inc. All Rights Reserved.