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『Divine One――【5】 』
深沢・美香6855)&(登場しない)


 言ってしまった。

 
 ――私、ピアニストになりたかった。


 男が言ったのだ。
 美香がなりたかったもの、やりたかったことを教えろ、と。


 ほんの小さい頃、小学校の二、三年生の頃だったろうか。作文に書いたことがあった。

『大きくなったらピアニストになりたいです。世界中をまわってえんそうする人になりたいです。』

 ピアノは4歳の頃から習っていた。
 ピアノだけではない。物心がついた頃には、ヴァイオリンとフルートもやっていて、楽器以外では英会話にバレエ、日舞に華道に茶道も習っていた。
 その頃の記憶といえば、学校生活よりもお稽古事での思い出の方が圧倒的に多い。
一週間のすべての曜日が習い事で埋まっていて、しかも一日に二つもの教室をハシゴしていた時期さえあった。
 毎日学校から帰ると、おやつを食べ終わるか食べ終わらないかのうちにお稽古の先生が家に来る時間になる。あるいは、教室に行く時間になる。
 おやつも、教室まで送ってもらう車の中で食べるのが当たり前という毎日で、母は「お行儀が悪いわ」と言いながらもそれ以上止めることはせず黙っていてくれたのを覚えている。
 今から思えば相当多忙な毎日だったはずなのだが、子ども時代の順応性のなせる業なのか、さほど忙しいとも感じていなかった気がするから不思議だ。
 もう少し長じてからは、チェロとクラリネットもやった。
 高らかな音に魅力を感じてトランペットをやりたいと思ったこともあったが、習うことはなかった。後から聞いた話では、女には相応しくないという理由で父が許してくれなかったらしい。
 父の反対といえば、チェロとクラリネットを習うことにも父は良い顔をしなかったようだが、これは母がどうにかとりなしてくれたのだと、これまた後になってから祖母の話に聞いた。
 そんなお稽古事漬けの日々だったが、一方で、当時の美香にとってはそれらのどれもが、幼いがゆえの向上心を満たすものでしかなかった気もする。一つを除いて。
 ピアノ。
 長い間、美香の心を捉えて離さなかったのはピアノだけだった。
 邸にはピアノのための防音室があって、その部屋にはグランドピアノとアップライトピアノが一台ずつ置いてあった。
 美香のお気に入りはグランドピアノだった。
 黒く艶やかで、優美な曲線を描く天板にいつも鏡のように美香の姿を映していたそれを、母は"フォルトゥナ"と呼んでいた。
 いつも埃ひとつなく磨き抜かれてはいたがいくつか傷跡もあった。"フォルトゥナ"は母も幼い頃に使っていたのだという。
 "フォルトゥナ"の意味を知ったのは、ずいぶんと大きくなってからだった。
何かを大きく包み込むような、それでいて広がりのあるその名の響きを、ずっと不思議に思っていたが、「運命の女神」という名を知った時にやたらと納得したのを覚えている。

 "fortuna"。
 運命の女神。

 どんな姿をしていて、どんな表情を浮かべている女神なのだろう。
 私たちに微笑みかけてくれる女神なのか、それとも厳然とした女神なのか。
 母はどうしてそんな名前をつけたのだろう。


「音大に行きたいとは思わなかったのか?」
 隣でコーヒーを飲んでいた男が言った。
「……まさか。クラスには私なんかよりもっと上手な子がいたし、そういう子はもっと真剣にやってたもの。私みたいに片手間にやっているようなのが音大に行きたいとか言ったら何だか失礼じゃない。でも、好きだったのよ。好きだったのは本当」
「好きだった、か。どんなところが好きだった?」
 そうね、と美香は少し考えた。
「あの音色、かな」
 目を閉じてみる。
 すると、白と黒の鍵盤が見えてきた。
 左手の指をおく。
 燻し銀のような低い音が耳の底に響いた。
 また一本指をおいた。
 深い音が空気を震わせる。
 その音色に誘われるように、自分の左手が鍵盤の上で躍りだす。
 いくつもの音が絡み合って和音を作り広がって、自分を包む。
 芳醇な音色が背筋から腰にわだかまって、そして抜けるように消えていく。
 右手の指を滑らせた。
 天上から降り注ぐ光の雨のような孤高の音色が身体の中を貫いた。
 鍵の上に両手の指が走り出す。
 叩くたびに指に鍵が跳ね返ってくる感触が心地いい。
 重くて深い音と、高潔な音色が綯い交ぜになって響き合い、駆け抜けていく。
 それは時に甘く豊かに、時に物悲しく寂しげに響いて。
 あるいは不穏な嵐を予感させ、無明の闇に彷徨う心を決然と断じ――いつも美香の心を慰めてくれた。奮い立たせてくれた。
 そうたしかに。

(私は忘れていない。"フォルトゥナ"のあの響きを)

 身体も心も解き放ってくれる、あれら音の快感を。



「ピアノ、やりたいな……」

 静かな部屋の中に美香の呟きがぽつりと落ちた。
 男の小さな溜息が間近に聞こえた。
「だったら、やればいい」
 男はソファから立ち、美香を振り返った。
「やればいいじゃないか。今ピアノのことを話していたきみの目は本物だった」
「でも」
 どうしろというのだ。
 いまからどうやるというのか。
 この部屋にはピアノもないのに。
 たとえピアノを入れたところで、ピアノ教室に通ってそれからどうなるというのだろう? だが、男はそんな美香の疑問を知ってか知らずか言葉を続けた。
「俺に聞かせてくれよ。きみのピアノを」
「だって、私、もう弾けないわよ。ずっと弾いていないもの」
「だったら練習すればいい」
「そんなあっさり……」
「美香、もう一度聞く。もう一度だけ聞くよ。ピアノを本当にやりたい? ……本当に?」
 それは、嘘じゃない。本当だ。心の底から。なぜなら忘れられないから。
 頷いて見せると、男は笑った。
「じゃあ、この部屋にピアノを入れよう。明日からレッスンだ」
「……え。ええ!?」
 これにはさすがに驚いた。
「明日っていきなり!? だって、私、明日早出だし……。レッスンって言われても行く時間がないわよ。あ、早起きしたらどうにかなる、かなぁ」
 だが、男は平然とさらに驚くべきことを言ってのけた。
「仕事は辞めるんだ」
「はぁっ!?」
 今度ばかりは思わず素っ頓狂な声が出た。
「辞めるって、だって、辞められないわよ。どう考えたって、ほら色々……」
「君が言い出しにくいなら俺が連絡をつける。店の電話番号をくれるか」



 怒濤の――12時間。
 まだ半日も経ったかどうかなのに、あまりに目まぐるしくて頭がぐらぐらしている。
 今朝方もちゃんと寝たのかわからない。当然といえば当然だが身体は酷く疲れていたのだろう、ベッドに横たわるなり沈むような感覚にとらわれて、眠った……のだと思う。
 だが、夢の中では起きていたような、意識だけが中途半端に夢現の狭間を行き来していたのようなそんな気分だった。
 そうだ。
 朝、いつになく早く目が覚めて床に敷いた布団を見たら男はすでにいなかった。
 その代わり、携帯にメールが入っていた。



    TO:美香

   美香、おはよう。
   目覚めはどうかな? ちゃんと休めたか?
   店に話はつけておいた。
   今日から出勤しなくていい。
   渋谷駅に12時。レッスン教室は松濤にある。
   飯を食ってからレッスンだ。
   駅で待ってるから着いたら連絡をくれ。
   だが、俺の方が遅れるかもしれない。
   追ってまたメールする。



 メールの画面を見ながら思わず呟いてしまった。
「……夢じゃ、なかったんだ……。というか……」
 よく考えたら、いや、よく考えなくてもとんでもない話だ。
 昨夜仕事を辞めるとは言ったかもしれない。だが、昨日の今日で本当にこうなるとは思わなかった。それに、「出勤しなくていい」とのことだが、それはつまり無職になったということだ。
 だったらこれからの生活はどうなるのだろう?
 ピアノを入れるとか言っていたが、ピアノを入れるにもレッスンに通うにもお金は要る。蓄えはあるとはいえ、先行きが不安すぎる。いや、ピアノのために仕事を辞める――辞めたことになったらしいという時点で、まだ現実感すら追いついていないというのに。
 昨夜は疲れ切った一日の終わりの夜中の話で感覚が半ば麻痺していたが、あらためて考えてみると男のとんでもない強引さに目眩がしてくる。
 あの男はいったい何時に起きて何をしていたのだろう。
 閉じたままのカーテンからぼんやりと白んだ光が差し込んでいる。
「レッスンって、家で練習するんじゃなかったの……? 12時に渋谷って言われても……」
 いきなり空中に放り出されたような心許なさが足元から這い上がってくる。
 つい昨日までは、嫌悪感に苛まれながらも半ば諦めて、風俗に身を堕とした日々のくらしを自分なりの生き方だと思っていた。
 自分を浪費するだけの毎日。
 日一日と自分の身体と心に錆がついていくように感じていた。
 嫌だ嫌だと思いながらも、少し離れたところから自分を見ているもう一人の自分が、たとえくだらなくてもつまらなくてもこんな人間の生き方もあっていいじゃないかと、自嘲的に囁いていた。
 一滴の水もない赤錆びた砂で覆われた荒野を行くのも悪くない。
 そう、被虐的な自分が呟いていた。
 それはたしかに、自分に対する欺瞞だったのかもしれない。
 一度墜ちてしまえば、もう這い上がることはできないのだから。
 たとえこの仕事をやめたとしても、それは這い上がったことにはならない。
 過去という時間は消えない。消すことができない。何一つとして無かったことにすることができない。
 自分の人生という時間は、完全に、非情なまでに一方通行だ。
 だから、受け入れることにした。
 底無しの冷たい泥の沼のような世界に首まで浸かって、午睡の夢に空の高みをゆく鳥を見る。
 そんな人生でも良いと思ったのだ。


 だが、人生というのはどうしてこうも予想を裏切るのだろう。意地悪なのだろう。
 ひとたび心を決めた自分を、こうしてぐらつかせる。
 小さかった頃の夢と憧れ。
 目を瞑れば、ぼんやりと輪郭のはっきりとしない映像が乳白色の光に包まれて浮かび上がってくる。
 学校からの帰り道にあった公園の滑り台。弧を描くブランコと楽しげに上がる歓声。
 背中で鳴るランドセルの重み。
 お菓子をわけあって食べていた友だちの顔。
 厳めしく貫禄のある父の顔も、たおやかな微笑みを浮かべる母の顔も。
 あの頃は、目に映るもの耳に聞こえるもの身体に感じるものすべてが光り輝いていた。美しく見えていた。
 むろん、それは幻だったのだが。

 だから、今になってからあの幻の輝きに囲まれていた頃の夢が叶うと言われても、戸惑うしかない。
 新しいことに挑戦出来る、という。
 言ってみればこれは新しい扉なのだろう。
 いつかの昔、自分が切に欲しいと望んだものだ。
 形式と体裁ばかりを重んじる家という枠組みから飛び出して、自由を求めたあの日の自分が欲しかったのは、まさに今、自分の目の前にある扉だった。
 自分の力で評価を得て、自分の力で道を切り拓きたい。
 それを叶えてくれる扉が目の前にある。その傍らには一人の男が立っている。扉の取っ手を握って、まさに開こうとしている。
 だが、新たな扉を開けるには自分は臆病になってしまった。
 先の見えなさで言えば、どちらにしたって同じはずなのに、今までと変わらない日々の方が安心出来ると感じている自分がいる。
(情けないなぁ……)
 思わず溜息を落とした美香の手の中で携帯が震えた。
 ディスプレイには「メール1件」の文字があった。
 開いてみると、案の定、男からのメールだった。


    TO:美香

   俺の方は準備OK。
   12時に渋谷駅南口近くのカフェで待ってる。


「準備OKって、いったい何をしてるのよ……」
 鳩尾のあたりで落ち着き所を失ったらしい心がひっきりなしにふわふわとしているのを感じながら、美香は出掛ける支度を始めた。



 昼に近いとはいえ、平日の午前中だ。
 駅の構内は土日に比べればいくらか人ごみの厚さが薄かった。
 メールにあった通りに南口へと出ながら、男の携帯に電話を掛けると、男は美香の居場所を訊き、短く「そこにいて。今から出るから」とだけ言うと通話を切ってしまった。
 キオスクの前で突っ立っていると、ほどなくして男は現れた。
 男の姿を見て、美香は驚いた。
 ベージュのトレンチから、程良く光沢のあるネイビーのスーツと淡いピンク色のシャツ、茶色のストライプタイが覗いている。昨夜は黒いスーツを着ていたのにいつの間に着替えたというのだろう。そして、昼の日差しの下に見る男の印象も、涼しげながら物柔らかく、これまた昨夜とは違って見えた。
 美香、と手を挙げて近付いてきた男へと美香はさっそく訊ねた。
「あなた、着替えに帰ったの? 朝、いなかったから驚いたじゃない」
「ん? ……ああ」
 男は一瞬きょとんとしてから、忘れていたかのように自分の恰好を確かめ、それから頷いた。
「まあ、そんなところだ。でさ、どうせ朝飯食っていないんだろう? 飯食いに行こうよ、飯」
「私はちょっと食べてきたわよ。なんだかメールでも言ってた気がするけど、『飯、飯』って、あなたが食べてないんじゃない?」
「お、ご明察。着替えに帰ってそのまま出てきたからね。まだ食ってないんだ。美香の手料理も食い損ねたしさ。俺、腹減ったよ」
 子どもが強請るような言い方に、電車に乗っていた間中悶々としていた不安も忘れて思わず笑ってしまった。
「何を食べるの? 和食? 洋食?」
「和洋中何でもいい。俺、好き嫌いは無いんだ。偉いだろう?」
さも偉かろうと言わんばかりに覗き込んできた男の額を軽く叩いてやる。
「はいはい、えらいえらい」
「あいた。酷いなぁ、全然心から褒めてないだろ、それ。褒めてもらえる自信あったのに」
「はいはい、行くわよ。思い出したんだけど、私のお薦めのレストランでどう? 好き嫌いはないのよね?」
 わざとらしく唇を尖らせる男の背を押して美香は歩き出した。


 そのカフェレストランはホテルの1階に入っていた。
 うるさくない程度に観葉植物がフロアを飾っていて、ともすれば無機質になりがちの白を基調とした空間に居心地の良さを作っている。
 紺色のクロスを掛けたテーブルには落ち着いた色合いの赤い花を挿したフラワーベースが添えられていて、淡いブルーのナプキンがきれいに畳まれて置いてある。
 ペリエをグラスへと注いでくれるウェイターの手つきを見つめながら男がちらと美香を見た。
「なかなか雰囲気のいい店だね」
「気に入ってもらえたのかしら? だとしたら嬉しいけれど」
「俺はもし美香が言ってくれなかったら、そば屋でかけつけ丼一杯、とかやろうと思っていたからさ。俺が店を案内しなくて大正解だった。格好悪いったらありゃしない」
「あら、私だってラーメン食べたりするわよ? いつもこんなお店に来ているわけないじゃない。でも、今日のあなたはこういうお店の雰囲気だったから」
 と正面に座る男のスーツを指さすと、男はグラスに口を付けながら照れたように笑った。「なに。それって、今日の俺が恰好いいってことだったりする?」
 片眉を上げて美香を見てくる。
 そんな男の様子を見ているうちになんだか悪戯心が頭を擡げてきて、
「スーツが、よ。スーツが」
 ことさら「スーツが」を強調して言ってやると、男は目に見えて肩を落とした。
「……美香は意地悪だなぁ」
 ずず、とグラスの水を啜って、はあ、と気の毒なほどの溜息をついた。
「嘘よ、嘘。素敵よ。さっき駅であった時にびっくりしゃったもの。本当よ」
 男はそれを聞いても今度は「本当?」と疑わしそうな目を向けるばかりで、美香はまた笑ってしまった。
 笑っている美香をまだ少し恨めしそうに見ていた男が、ふと思い出したように手を打った。
「あぁ、そういえば、さっきのメールで伝え忘れたんだった。今日のレッスンは13時からだけど大丈夫かな。先生とは初顔合わせになるだろうから、心配なところもあるだろうけど……」
「そう、それよ!」
 男の言葉を聞いて、今の今まで忘れていた今朝からの悩み事が一気に復活してきた。
「あなた、あれはどういうこと? どう話を付けたのかっていうのもだけど、仕事に行かなくてもいい、って。私、あんな仕事でも辞めたら……生活のことだってあるし、困るのよ。ピアノをやりたいとは言ったわ。言ったけど、ピアノをやるから仕事を辞めるのはちょっと違うって、やっぱり思って」
 そう言い募ろうとした美香の言葉を遮るように、男は言った。
「美香に仕事を辞めろって言ったのは俺だ。その俺が手を打たないとでも思ってる?」
「……どういうこと?」
「事後承諾で悪いが、きみとの家族ゲームは勝手ながら続行させてもらっている。家族なんだから、生活の支援をするのは当然だ」
「なにそれ……」
 まさか、と喉から出掛けた言葉を声にしない先に男が言った。
「きみの生活費は俺が持つ。レッスン代その他すべて、だ」
 まさかと思ったことをこの男は本当に口にする。
「あなた、何を言ってるの? だって、私、いくらピアノをやったって何ができるようになるわけでもないのよ?」
 もしも自分に天賦の才のようなものがあるというのなら、話は別だ。出世払いができる見込みもあるかもしれない。だが、自分は。
「小さい頃にピアノを習っていたってだけの、ただのど素人なのよ?」
 この男はわかっていないのではないか。
 美香は少しばかり口調を強くして言ったが、男はウェイターが運んできたランチの前菜をフォークでつつきながら、こともなげに言った。
「何かできるようになってくれ」
「……そんな」
「期限は一年だ」
 言葉も出なかった。
 無茶を通り越してあまりな無理難題としか言いようがない。
「無理よ」
「やってみなきゃわからないだろう?」
「どう考えたって無理。何を目指せというの? プロのピアニスト? なりたかったけど、そんなの子どもの時の夢でしかないじゃない。ピアノをやっていたからわかるのよ。プロになんて到底手が届くわけがないって。……それに、もし、私が嫌だって言ったら?」
 男は黙って手を動かしていたが、やがてナプキンで口元を拭き、顔を上げて言った。
「俺はこの通り、強引な男だからさ。もしかしたら、きみの意向を完全に無視しているのかもしれない。俺が考えているより、きみにはもっとたくさんの迷いがあるのかもしれない。いや、あるんだろうな。でも、俺は――」
 男はどこか遠くを見るような表情で、呟くように言った。
「俺はきみの――…が見たい」
 少し離れた席の方からグラスの割れた音がした。
 続いて「失礼いたしました」と口々に言う店員たちの声。
 その音と声に掻き消されて、今しがたの男の言葉が聞こえなかった。
 だが、何事かを口にした男の表情はとても真摯で、瞳には驚くほど深い色が宿っていて、「今なんて言ったの?」などと聞き返せる雰囲気でもなかった。
 この男は、いったい自分の何を買い被って、こんな途方も無いことを言っているのだろう。こんな歳になってから実質プロを目指すなんて、あまりに馬鹿げた話だ。
 世の中にはほんの小さい頃から習い続けて、それ専門の道に進んでも夢を叶えられなかった人々がごまんといるというのに。
 それをやれと言う。しかも、信じられないほど短い期限付きで。
 しかし。
 ふと美香は思った。
(――…一年。たった一年、ピアノに賭けてみるということ。それって、賭けができるってこと?)
 やれば早々に自分の限界を知ることになるだろう。
 だが、賭けの勝敗以前に、今までの自分はこの賭け自体に挑むことができなかった。
 それができるということではないのか。
 二人の間に流れた沈黙の後、ややしてから男が言った。
「……もし、きみがどうしても降りたいというのなら、俺は退こうと思う。もちろん――」
「やるわ」
 今度は美香が男の言葉を遮る番だった。
 男が美香を見た。
「やってみる。一年、でしょう?」
 少しの間の後、男は表情もなく頷いた。
「……私、やってみる」
 男はしばらくの間黙って美香を見つめていたが、やがて溜息まじりに、囁くように言った。
「……ありがとう」
 テーブル越しに男の手が差し伸べられた。
 それを、美香はかたく握り返した。



 結局、ランチの味はほとんどわからなかった。
 頭の中がこの先のことでいっぱいだったせいだろう、何を食べたのかも今ひとつよく思い出せない。
 デパートや店々が所狭しと並ぶごみごみした街中を抜けて、延々と続く坂を上がっていくと、空はだんだんと広くなり、歩道を歩いている人の数も少なくなっていった。
 通りをひとつ挟んだ細い道に入ると、辺りの景色は一変した。
 やたらと背の高いビルの代わりに、品のいいマンションがまばらに立ち、それよりも趣のある門構えを備えた日本建築の方が目立つ静かな高級住宅街。
 能楽堂の前を通っていくつめの角を曲がった頃だろうか、男が足を止めた。
「美香、ここだよ」
 そう言って示されたのは一軒の家だった。
 家の周りにめぐらされた白い塀には瓦が乗っていて、古色蒼然と言っても過言でないほど歳月を感じる門扉の傍らには、青磁の壺が据えられている。梅の枝が挿されていた。
 ピアノの教室というよりも、お琴の教室と言った方が相応しいのではないかという外見だったが、男は躊躇することなく門を潜っていく。美香は慌ててその背を追いかけた。



 玄関で美香たちを出迎えてくれたのは、初老の女性だった。
 銀色に近いくせっ毛の白髪を後ろでひとつに纏め、髪と同じ銀色にも見える青灰色の足元まで隠れる長いワンピースを着て、その上にカーディガンを羽織っている。
「久し振りねぇ」
 皺深い顔をしたその女性の第一声は、男に向けてのものだった。
 美香が男と女性とを交互に見る中、二人はハグを交わして、互いの頬に口づける。
「長らくご無沙汰しておりました失礼をお許しください、マエストラ。しかし、お変わりなくお若くていらっしゃる」
 "マエストラ"――"マエストロ"でないのは女性だからだろうか。そう呼ばれたところから察するに、この女性が美香の"師"となるべき人なのだろう。
 髪と同じ色をした眉の形は少し吊り上がり気味で、皺の中にもどこか日本人離れした面立ちが窺える。若かりし頃はたいそうな美人だったのかもしれないが、それ以上に気が強かっただろうことを感じさせた。
 "マエストラ"は男の言葉に華やかに笑った。
「相変わらず上手ねぇ。去年はそれで何人泣かせたのかしら。――と、こちらのお若い方が今朝の電話の、ね? もう、朝から電話してきたから何かと思ったじゃないの」
 "マエストラ"の視線が男から美香へと移った。
 値踏みをするような視線を美香へと真っ向から注いでくる。
 朝にはいなかった男は着替えをしに帰ったと先ほど言っていたが、午前中のそれも朝からこの女性に電話をしていたのか。レッスンの予約をつけるために。
 しかし、男とこの女性とはかなり近しい間柄なのかもしれない。そうでもなければ、当日の朝の電話での「レッスンの時間を割いて欲しい」などという頼みごとは聞いてもらえないだろう。
「経験は?」
 そう訊いてきた"マエストラ"に、美香は口籠もった。
 どの程度の経験を「経験した」と言っていいのだろう。
 悩んだ挙げ句、
「……子どもの頃に習っていました」
 自分でも信じられないほどの小さな声での申告になってしまった。
「子どもの頃……? 学校は? 留学経験は。師事していた先生の名前でもいいけれど?」
 学校とはこの場合専門の学校のことだろう。師事云々に関しても、かつて習っていた先生は巷では名の通っていた人ではあったが、この"マエストラ"と呼ばれる人の前で「師事していました」と言える先生だとは思えない。首を横に振るしかなかった。
 "マエストラ"はわずかに眉を上げ、一度男へと視線をくれてから美香を見た。
「話にならないわね」
 言われて当然だとは思ったが、グサリ、と言葉の刃が胸に突き刺さった。
 こんなことならば前もって「レッスンの先生」の人となりを聞いておくのだった。
 心の準備ができていれば、少しは胸の痛みも軽くなったはずだ。
 "マエストラ"が男に言った。
「これと言った経験はないって電話で聞いたけど、ここまでとは思わなかったわ。どういうこと?」
 頬から耳までが熱くなる。
 恥ずかしさと惨めさといたたまれなさに苛まれながら、そっと横目に見てみると、男は腕を組んだまま平然と立っていた。
「僕からの、たっての頼みだ、とだけ」
 自分のことを「俺」と言っている男だが、この"マエストラ"の前では「僕」らしい。
 "マエストラ"は、口元を少し歪めてから男と同じように腕を組んだ。
「たっての頼み、ねぇ……」
 そして美香を見る。
 彼女の顔を直視するのも怖くて俯いていると、深い息をつくのが聞こえた。
「わかったわ。入んなさい。本当なら私のピアノに触らせたくもないところだけど」
 いかにも不承不承とわかる一言一言が心に刺さる。
 ここに来た以上逃げるわけにもいかず、家の奥へと入っていく"マエストラ"に続かなければならないのはわかっていたが、どうにも救いを求めたくて男を振り返ると、男は美香に微笑んで、組んだ腕の下でこっそり親指を立てた。
「いってらっしゃい。口は物凄く悪いけど、悪い人じゃないんだ。入れてくれたから大丈夫だよ」
 そんなひそひそ声の励ましも、今の美香にはあまり励ましにならなかった。
 これでレッスンだなどと言われても、真っ当に弾けるとは思えない。
 それに、「大丈夫だ」と言われても、自分の実力という方面ではちっとも大丈夫じゃない。
 しかも、長いブランク越しにピアノを初めて触るのがこのレッスンでなのかと考えると、気が滅入るどころではなく、いっそこのまま消え入ってしまいたいくらいだ。
 それでも美香は、ともすれば門の外へと向かいたがっている重い足を引きずるようにして、男を後に"マエストラ"の待つレッスン室へと向かった。



 磨き抜かれた長い廊下を進んでいくと、"マエストラ"が先で待っていた。
 遅かったじゃない、とか、何をしていたの、とか言われるに違いないと思って思わず目を瞑ったが、意外なことに彼女は何も言わず、傍らにある、とうてい日本建築には似つかわしくない飴色の扉を開いた。
「わ、すごい……」
 美香は目を瞠った。
 内側が赤い布張りになっている防音処理を施された扉の向こうには、二十畳ばかりもあるだろうか、完全に洋風な広いフローリングの部屋に、コンサートやコンペティションで見るような見事なグランドピアノが二台据えられていた。壁際にもアップライトピアノが二台見える。
 素晴らしいレッスン室に呆気にとられている美香をよそに、"マエストラ"は真っ直ぐにグランドピアノのある方へと歩いていった。
 そして、近くにあった椅子を引き摺ってくると、ピアノからは少し離れたところにおもむろに脚を組んで座り、グランドピアノを指して言った。
「たしか、美香、だったかしらね。あなたの名前。――美香、あなたが弾けるものでいいわ。まずは聞かせてちょうだい」






<続く>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
工藤彼方 クリエイターズルームへ
東京怪談
2010年04月07日

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