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『エジプトに眠る 』
来生・十四郎0883)&来生・一義(3179)&(登場しない)

 紫煙で煙る編集部。昼なのか夜なのかすら微妙な薄暗さの中、鳴っているのが自分の携帯であると気付くまで数分、デスク脇に積み上げた資料の山と灰皿の下からその携帯を掘り起こすまでさらに数分かかった。電池切れ間近なのか本体の寿命が間近なのか、か細い呼び出し音を辿って、十四郎は傷だらけの携帯を引きずり出した。がさ、と何かが崩れた音がし、その向こうで誰かがぎゃっ、と悲鳴を上げた。
「はい、来生です」
留守電切り替えぎりぎりで出た電話の向こうから聞こえたのは、聞きなれた声だった。
「十四郎か、俺だ。今日は帰れるのかどうか聞いておきたかったんだが…」
 兄の一義だった。遠慮がちに、無理か?と聞かれて、改めてカレンダーを見上げた。
「…そういや、しばらく帰ってねえな」
 呟くと、電話の向こうからため息が聞こえた。
「もう5日だ。…その様子じゃろくに食事もしていないんだろう。まったく。生きている体は大事にしろといつも言っているだろう。大体…」
「わかった!わかったから!帰るよ、帰る!」
 始まると長い小言を慌てて制して、時計を見た。今は15時。原稿も既に最終稿の推敲に入っているし、この分ならばあと1時間もかからないだろう。
「よし、ついでに外で飯食わねーか?17時に駅前」
 それなら、と言う兄の返事を聞き終えるより早く、電話を切った。そうとなったらさっさと仕事を終わらせねば。

「外で食事…か」
 電話を切って、一義は一人呟いて、ふっと笑みを浮かべた。あの弟にしては、なかなか気の利いた事を言うではないか。日々の家事炊事そして内職と、座敷幽霊暮らしもすっかり板に着いた一義だが、別に出かけるのが嫌いな訳ではない。久しぶりの外食、それも弟からの誘いは嬉しかった。
「さて」
 今は15時。駅前まではすぐだから、もうひと仕事できるだろう。5日ぶりに帰って来る弟の為に、風呂の準備をしておいてやるのもいいかも知れない。一義はうむ、とひとつ頷くと、機嫌良く風呂場に向かった。

「いらっしゃい、おお、久し振りだねえ」
 のれんをくぐると、カウンターの向こうから人なつこい笑顔が迎えてくれた。歓楽街の片隅にあるこの居酒屋は、十四郎の行きつけの中では多少小奇麗な部類に入る一軒だ。兄とはもちろん、初めて来た。普通の定食屋もあるにはあるのだが混んでいるし、この暑さ、ビールの一杯や二杯でもないとやっていられないと思ったのだ。
「こっちは兄貴。俺はとりあえず…」
 言うより早く、大ジョッキが前に置かれたのを見て、兄が目を丸くする。
「すごいな」
 別にすごくはないのだが、生前も今も変わらず真面目堅物の兄は、どうやらこういう店にはあまり馴染みがないらしい。壁一面に貼られた品書きを物珍しげに見まわしている。とっくに成人している兄ではあるが、そう言えば、飲んで帰ってきたとか二日酔いで苦しんでいる様を見た覚えが一度もない。飲めないのか、飲まないのか知らないが、それとも飲んだことがないのか。
「まさか…な」
 兄だっていい大人だ。酒の誘いの一つもないとは思えない。だが…。
「何だ」
「兄貴も飲むよな。親爺!大二つ!」
 既に空になっていたジョッキを振り上げて言うと、瞬く間に大ジョッキが二つ出てきた。まさか入れておいたんじゃないだろうな、とちら見しつつ、兄の前に一つ置く。
「気にすんな、俺のおごりだ」
 にんまり笑って言うと、兄は少し躊躇しつつ、大ジョッキを持ち上げた。そのジョッキに、自分のを軽くぶつける。
「乾杯!な。日頃の家事炊事に感謝って事で」
 ごん、とジョッキ同士がぶつかり、きめ細かい泡が少しばかり手にこぼれる。
「じゃあ…」
 兄は十四郎に促されるようにして、おずおずとジョッキに口をつけた。その仕草は明らかに慣れていない。やはり…。
「飲んだこと…ねーのか…?」
「何だ?」
「あ、いや…。そういや兄貴と飲むの初めてだなあと思ってさ」
 つい口に出してしまっていたのを慌ててごまかしたのだが、兄は少し嬉しそうに、そうだな、と笑った。手元のジョッキはすでに半分を空けている。
「あまりそういう機会もなかったからな。お前は常日頃から飲んだくれているが」
「悪かったな」
 ぶすくれて見せたものの、目は兄のジョッキに釘付けだ。残りはあと一口といった所か。早い。十四郎のペースにしっかりついてきている。しかも顔色は少しも変わっていない。
「親爺!」
 再び大ジョッキ二つ。一つを兄の前に押しやると、兄は
「すまないな」
 と受け取り、これもまた平然と飲みほした。
「…何なんだ…」
 強いのだろうか。だが、十四郎はこれまでに何人も、ついさっきまでは元気に飲んでいたのに、という突発型泥酔者を何人も見てきている。大抵が酒に慣れていない初心者で、ちょっと様子がおかしくなったかと思うと、いきなりぶっ倒れて救急車を呼ぶ羽目になったりする。そっちか?そっちのタイプなのか?店主に『今日のおすすめ』の中身を聞いている兄をちらりと見ながら、十四郎は心を決めた。こうなったら見極めてやろうではないか。兄がどこまで飲めるのか。そしてこの堅物が酔っぱらったらどうなるか。笑い上戸だったら…写真を撮っておこう。泣き上戸だったら…やっぱり写真だ。絡み酒だったら…それなら素面でも常に小言を聞かされているので変わりない。
「それじゃつまんねえな」
「何がだ」
 振り向いた兄に、何でもねえ、と首を振る。
「お前は少し、仕事のことを忘れたらどうだ」
「そんなんじゃねえよ」
 眉根を寄せた顔を見て何か勘違いされたらしいが、今の今まで仕事の事は忘れていた。
「何か悩みでもあるのか?」
「部屋が暑い」
 と言いながら手振りで親爺に日本酒を注文する。真澄の純米、冷やで二つ。
「部屋はあれで十分だ」
 にべもない返答に、出された真澄をごくりと味わいながら首を振る。
「俺には暑いんだよ」
 兄が頼んだらしいヤッコともろきゅう、ほうれん草のおひたし、そして今日のおすすめ、いなだの煮付けが運ばれてくる。
「きゅうりは体を冷やす食べ物だからな。冷やしたいなら中から冷やすといい。だが冷やしすぎは良くない。暑さで消耗した身体にはビタミンBも大切だ。それから…」
 兄のコップはすでに半分空いている。十四郎が手を伸ばして、枡に残った酒を注いでやると、そうするのか、と珍しそうに言った。やはり慣れていない。だが、顔色は変わらない。二人してヤッコといなだを食べている間に、真澄は一杯から二杯、二杯から三杯と消え、このままでは金がかかるばかりと慌てた十四郎は焼酎をボトルで入れた。最初はウーロンハイで。ウーロン茶が無くなったらロックで。だが、兄の顔色は変わらない。いつもと変わらず淡々と飲み食いし、十四郎の生活のあれこれを聞き、煙草は減らした方が良いなどとアドバイスしてくる。気付けばボトルは三本目。豹変を今か今かと待ち続ける十四郎の心の内などお構いなしに、兄は
「あまり酒は好きではないんだがな」
 などと可愛くないことを言いながらも次々と空けて行く。こうなると十四郎にも意地がある。何がなんでも…この涼しげなオールバックが崩れる様を見届けてやらなくては気がすまない。
「親爺!ウィスキーだ!角瓶入れんぞ!」
「十四郎、洋酒と日本酒を一緒に飲むのは…」
「いーんだよっ!んな事言ったら最初っからビールだって洋酒だっ!」
 兄の制止を振り切り、十四郎は角瓶を入れた。それも一本二本と増えて行き、いつの間にやら気付けば周囲は空き瓶の山となっていた。日本酒が数本に焼酎にウィスキーに…。さすがにこれは飲ませすぎたかと心配になり、兄の方をふと見上げたその瞬間、異変は訪れた。兄ではなく、十四郎に、だ。こちらを向いた兄の顔がぐにゃん、と歪んで見える。頭がふらあっと安定しない。
「おい、大丈夫か?十四郎…と…」
 兄の心配そうな声がだんだん遠くなってゆく。大丈夫だ、親爺、勘定、と言ったつもりだったが言えていない…多分。くそっ、ここまでか…と思いながらも、訪れた重い眠気にあらがえず、十四郎の視界は暗くなった。

「ありがとさん!」
 勘定を済ませると、一義はだらしなくのびた弟の体を担ぎあげた。
「全く、よく飲んだもんだねえ、今日は。大丈夫かい?車呼ぶよ?」
 という店主に、いえ、と首を振り、店を出る。確かに弟とはいえとっくに成人した男の体重はそれなりに重いが、背負って帰れないほどではない。それに…。
「たまにはこういうのも、悪くない…か」
 背中でくでん、となった弟の体を背負い直して歩き出す。歓楽街の、しかも真夏の夜風はお世辞にも爽やかとは言えなかったが、それでも無いよりはましだ。家に向かってゆっくりと歩きながら、弟の体重を背に感じる。ずっと昔、こんな風に弟を背負ってやったこことがあった。その頃とはお互いにずいぶん変わったが、変わらずに弟を守っていられることが、一義には嬉しい。それに、時折ではあるけれど、こういった弟の気遣いが何よりも嬉しいのだ。今日は、楽しい夜だった。
「十四郎」
 返事の代わりに返ってきたのは、小さな唸りこえ
「…ありがとう」
 もちろん、聞こえてなどいないだろう。ずるっと背から滑り落ちそうになるのを支えながら、一義は家路を急いだ。

 体が重い。世の中が酒臭い。十四郎はいつにない頭痛と目まいの中で目を覚ました。
「う…」
 ちょっと体を持ち上げようとしただけで、ごおん、と天地がひっくり返る。まるで鐘楼の鐘の中に吊るされて、坊主に思い切り突かれているような気分だ。そしてこの臭い。自分が奈良漬になったような気分、と言ったら、たぶんきれいすぎるであろう、種々雑多なアルコールの臭いは、誰あろう十四郎自身から発せられていた。頭が重い、痛い、そしてめまい、ついでに気持ちも悪いし体中がべたべただ。典型的な二日酔い。それもかつてない重度の。
「大丈夫か?」
 覗き込んだのは、心配そうな兄の顔だ。
「すまなかったな。お前がそんなに無理をしていたとは気づかなくて」
「え?」
 無理?誰が?頭痛でよく頭が回らない。なぜ兄が謝るのだ。まさか…。何か言いたかったが、声にならない。十四郎は水の入ったコップをのせた盆を膝に置いた兄の顔を、じっと見上げた。
「実は昔、大学の頃に一度、先輩に誘われて飲み会というのに行ったことがあったんだが…その時、先輩を一人…」
「潰したのか…」
 酒焼けでかすれた声で言うと、兄は困ったような顔をして頷いた。
「まあ、そういうことだ」
 以来、来生は酒豪だ、などと噂になって、大変ばつの悪い思いをしたのだと兄は言った。
「それで、ずっと酒は控えるようにしてきたんだが…」
「そんな話…」
 聞いていない。知っていたらこんな無謀なことはしなかった。
「本当に悪いことをした。まさかお前まで潰してしまうなんて思わなかったんだ」
 心底申し訳なさそうに言う兄に、本当は、兄貴を酔いつぶそうと思っていたんだ、などと言えるはずもなく、十四郎はいいよ、と力なく手を振り、
「…悪いんだけど、編集部に電話しといて。俺、体調不良で休むから」
 とだけ言ってコップの水をぐいと飲み干すと、再び布団にもぐりこんだ。頭はまだがんがんと鳴っている。…それにしても、こういうのを何ていったっけ、とぐらぐらする世界の中でふと思う。ああ、そうだ…。
「ミイラ取りがミイラになる…か…?」
 少し違うか…いや、でも何だかそんな気分だ。内臓は全部出してしまいたいくらい煮えたぎっているし、全身包帯を巻かれたようにうごけない。ついでに暑い。ぶうううん、という扇風機の音の向こうに、電話をする兄の声を聞きながら、十四郎は再びどろりとした眠りに落ちて行った。見るのはたぶん、エジプトの夢だ。

おわり
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東京怪談
2010年08月09日

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