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『夜を歩く 』
黒蝙蝠・スザク7919)&(登場しない)





 最終電車が出立した後も街は眠ることを知らない。酒やドラッグに溺れた者たちによる怒声や嬌声、悲鳴、笑い声。迷惑を顧みることもなく猛スピードで走り抜けていく改造車が落とす騒音。夜の闇にも負けじと、皓々と輝くネオンの光。けれど、それでも、夜は確実に闇を押し広げている。眠ることを知らない街の中でも、闇は這いずっているのだ。
 黒蝙蝠スザクは細身な身体を黒いワンピースで包み、ステップを踏んでいるかのような足取りで街の片隅を歩いていた。動くたびにツインテールに結い上げた黒髪が跳ねて踊る。まだあどけなさすら漂わせているその顔立ちは、ともすれば厄介な男たちによって囚われ弄ばれてしまうのではないかという危惧すら思わせる。だが、スザクとすれ違う者たちは誰も彼女の姿を目にすることはない。スザクはまるで闇に溶けこんでいるかのように行過ぎていくのだ。手にしている傘で、時おり思い出したようにアスファルトを叩く。そうすればその音を耳にした若者たちが慄き腰を抜かし走り去っていくのだ。そんなときはスザクも足を止め、逃げ去った若者たちの背を見送り細い首をわずかにかしげてみせる。――日傘にも雨傘にもなるし、ステッキにもなるステキな傘なのに。その傘が鳴らすほんの小さな音にさえ、彼らは勝手に怯えてしまうのだ。
 肩をすくめ、足をとめたついでに頭上を仰ぎ見る。ビルとビルの間に覗く空は地上で輝くネオンに圧され、そこにあるはずの星の光など目にすることもかなわない。ぽっかりと口を開けた夜の暗色の片隅に、細い糸のような月がようやく張り付いているかのように揺れていた。
 しばらくの間そうして夜空を仰ぎ見て気持ちを入れ替えた後、スザクはふと、小さな声を聴いた。
 ビルの角をひとつ向こうに折れれば、深夜であっても車の往行の激しい大きな通りに出る。その影響もあって、辺りには騒音とも言うべき様々な音が散らばっている。その喧騒に飲み込まれ、それはともすれば誰の耳に届くこともないままに掻き消されてしまうかもしれないほどに、弱々しい、小さな声だった。
 スザクは耳をすませて声を聴き、当て所もなく散策するだけにとどめていた歩みの進行方向を定めた。軽やかに舞うような足取りで小さな角をいくつか折れ曲がり、見たこともないような細い路の上を迷うことなく進む。
 声は角を折れるごとに大きくなった。やがてそれが歌声であるのに気付いてからは、足取りも心もち早くなったような気がする。傘が時おりアスファルトを叩き音を立てる。けれどその音に怯える若者も、それどころか人気などまるで感じられない、仄暗い廃ビルに挟まれた小路の上にスザクはひとり立っていた。
 
 街灯さえもない裏路地にはネオンの輝きすらも届かない。ひっそりと静まり返った真の闇の中、密やかに揺らぐ影がある。金色に光る影だ。その影はヒトに似た形を辛うじて留め、ゆらゆらと揺れながら短い歌を何度も何度も繰り返し歌っていた。
「   」
 声をかけてみようかと考え、けれどスザクは開きかけた口を閉ざした。――きっと、目の前で繰り返し歌っている影はスザクの声になど耳を傾けることはないだろう。いや、スザクに限らず、きっと誰の声をも耳にとめることはない。聴いたことのあるようなフレーズではあるが、本当に短いフレーズだ。もしかすると初めはもっと長く続いていたフレーズなのかもしれない。スザクは廃ビルの壁に背を預け、壊れたスピーカーのように飽きもせず同じ歌を繰り返すばかりの影を見据えた。
 光の大きさから察するに、元は少女か少年か、少なくともまだ年若い子どもであったのだろう。性差も姿態も、おそらくは生前の記憶もすべて失くしてしまっているようだ。ゆえに影からは物悲しさに類するようなものはまるで感じられない。影は、残されたわずかなもの――徐々に歌詞やフレーズに関する記憶までもが薄らいでいく中で、ただただ機会的に繰り返し歌うだけなのだろう。
 いや、あるいは、もしかするとそれはとても大切な記憶に纏わる歌なのかもしれない。それを失くすまいとして繰り返しているのかもしれない。むろん、スザクはその実たる理由は知らないし、知ろうとは思わなかった。たとえばそこに何らかの感情を読み取ることができたなら、あるいは関心を持ったのかもしれないけれど。
 歌は寄せて返す海の波のように遠く近く、夜の闇の中に波紋を描き広がっていく。スザクの傘が鳴らした音に驚き逃げて行った彼らがこの歌を耳にすれば、おそらく、その瞬間からこの歌声は怪談となり伝わっていくのだろう。畏れながらも“心霊スポット”などと称してひやかしに訪れる者たちも出てくるかもしれない。
 けれど、少なくとも、今この場にいてこの歌に耳を寄せているのはスザクひとりだけだ。赤い眼光も静かに閉ざし、繰り返される歌に合わせ、指先で傘の柄を叩く。
 ――きっと、この歌は聴く者しだいで多彩な色を持つに違いない。悲しんでいる者には物悲しく聴こえるだろうし、闇を畏れている者には恐ろしい唸り声に聴こえるかもしれない。揚々とした心地の者には弾むような音色に感じられるのだろう。そこに何の思念も感じられないのは、スザクが心に何の色も浮べずに聴いているからなのだ。
 影はゆらゆらと揺らめいている。その動きに合わせ、スザクは目を伏せたままでゆっくりと片手を持ち上げる。

 スザクの掌から生み出されたのは黒い炎だった。夜の暗色よりもなお深い黒で染まったその炎は、ほんの刹那、夜空を焦がすほどの炎柱となった。だがすぐにスザクの掌に収まるほどの大きさに整い、スザクがゆっくりと双眸を開くのを待ち侘びているかのようにゆらりと震えた。
 影は歌うのをやめない。
 スザクは伏せていた眼差しを静かに開き、宝石のように妖しく光る眼でまっすぐに影を捉えた。
 
 それは、ただの気まぐれだったのかもしれない。例えばこの場にスザク以外の何者かが足を寄せて、この歌を耳にとめる。ただそれだけのことが、少しだけ面白くないものに思えたのかもしれない。例えば誰かがここに来て、影が何者であったのかを読み取ってしまうかもしれない。生前はどういった存在で、どういった経緯を経てこの場に残り、なぜこの歌を繰り返し歌うのか。それをあらいざらい調べあげてしまう者も現れるかもしれない。そしてもしかしたら、そうすることがこの影にとっては最善であるのかもしれない。スザクにはわからない。それらを暴き立てる必要性も感じられない。少なくとも、スザクには、影がそれらを望んでいるようには感じられないのだ。
 ならば、スザクがとるべき行動は、

 金色の影を取り巻く黒焔は、まるで意思を得た生物のような動きで影の隅々までをも包み込み、ほどなく影のすべてを呑み込んだ。歌は途絶え、スザクの周りには湿った夜の帳だけが残される。
 が、その次の瞬間。
 夜の闇を照らす月の光に似た眩い輝きを放ち、金色の蝶が一匹、やわらかな羽を大きく広げてみせた。金色の燐粉が闇に散る。それは夜空に広がる星の瞬きのようにも見えた。
 蝶はスザクの視界の中でひとしきり舞うように羽を動かすと、やがて暗色に満ちた夜空を目指して消えていった。

 黒焔を掌に収め、蝶が消えていった方を検めた後、スザクは傘を持ち替え、アスファルトを小さく叩いて音を鳴らす。そうしてそれに合わせ、覚えたばかりの歌を口にする。
遠く、車のエンジン音や嬌声、罵声、悲鳴、あらゆる喧騒が続いているのが聴こえる。スザクは歌を口ずさみながら踵を返して大通りに戻ることにした。

朝はまだ遠い。
 

 


thanks to triad
F.ayaki sakurai/MR


  
PCシチュエーションノベル(シングル) -
櫻井 文規 クリエイターズルームへ
東京怪談
2010年09月02日

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