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『冥府の番犬 』
海原・みなも1252)&(登場しない)



 夏休みも終わりにさしかかる頃、お父さんから便りが届いた。
「あ、きたきた」
 郵便受けから手紙を持って家に入ってすぐ、封を開けようとして――やめた。
 なかなか会えない、あたしのお父さん。せっかくの手紙なんだから、あんまり早く読んでしまうと勿体ない。
(えーと、えっと……そうだ、飲み物を入れてこよっと)
 冷蔵庫には冷やした麦茶があったけど、あたしはゆっくりと冷茶を淹れることにした。自分で手紙を後回しにしているのに、急須からグラスへ注ぐ時間すらまだるっこしく感じるのが自分でもおかしい。
 それから昨日いただいた和菓子を冷蔵庫から出した。家事を優先していたらあたしだけ食べそこなっていたものだ。
 ――あたし以外誰もいない、静かな居間。時折、遠くでセミが鳴き、近くで氷がカランと音を立てる。そこに少し濃いめの冷茶と和菓子。そしてお父さんからの手紙。
 贅沢かなあ、と苦笑いするあたし。何だか妹に悪いような気がした。思い出してみると、妹は昨日のうちに、あたしより多く和菓子もお茶も食べ飲みしているんだけど。
 水の波紋を連想させる生菓子の最後の一口を食べ、お茶を飲み、一呼吸置いて、手紙の封を開けた。
 ――お父さんからの便りを訝しまずにいられるのは、理由がある。先月の終わりにようやく時間を持てたあたしがお父さんに手紙を出したのだ。
 送った内容は“ケリュケイオン”で植物を取り込んだときのこと。だから、このお父さんからの手紙はその返事なんだと想像がついていた。


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 みなもへ。
 新しい能力の活用法を自主的に試しているようだね。手紙を読んで非常に面白、いや、みなもの努力を怠らない気持ちに父親として胸を打たれました。本当に。
 植物化の結果はみなもにとって予想外だったようだけど、これは何度も鍛錬するうちに改善されていくと思う。だから失敗してもあまり落胆しないように。時間はたっぷりあるのだから、「きっといつか上手くいく」と大きく構えていなさい。

 追伸。この手紙にプレゼントを同封しておきます。ケルベロスという魔獣の毛と写真です。鍛錬に使って下さい。
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 …………読んでいて、あたしは顔がにやけそうになった。
 胸のあたたかくなる手紙だった。最初に変なことが書いてあるけど、全体からお父さんの優しさが溢れている。
(ケルベロスって、あたしも聞いたことがある)
 確か、三つの首を持った獣のことだ。冥府の入り口で番をしていて、逃げだそうとする魂を貪り喰ってしまうとか。
 でもケルベロスって、空想の生き物だと思っていたけど……。
 恐ろしいことに、ケルベロスの毛は本当に同封されていたし、写真にも写っていた。お父さんはこれをどこで手に入れたんだろう……。
(あんまり深く考えない方が良いんだよね? お父さん……?)
 出所の怪しいものだけど、この毛を使ってみることにした。せっかくお父さんが送ってくれたものだし、不気味なケルベロスの姿に興味があった。
 ケルベロスに擬態した自分の姿をどう思うのか、身体的にはどう感じるのか……。能力を向上させるチャンスだった。


 植物のときと同じように、あたしは一糸纏わぬ姿になって浴室に入った。
 浴槽の蓋の上に、写真とケルベロスの毛を置く。
 ケルベロスの毛は浴室の照明の下でギラギラと貪欲そうに光っていた。真っ白の、これだけ見れば兎のようにか弱いものの毛のように見える。意外にも柔らかくて美しいのだ。だからこそ、写真のように誰のものとも分からぬ血を浴びた姿がおぞましい――。
 あたしは目を瞑って、肩の力を抜いた。ケリュケイオンと一緒に暮らして、日々意識しているお陰だろう、幾分恐怖を感じている状態でも杖に変化させることが出来た。
(問題はここから……)
 動物に対してこの能力を発動させるのは初めてだった。植物のときとは違い、暴走でもしたら大変なことになる。絶対に過ちはおかせないのだ。
(平静に、平静に……ゆっくり、確実にね……)
 そう、時間がかかってもいい。
 あたしの制御下で、一匹の蛇は緩慢な動きでケルベロスの毛に近づいていく。冷静に、平静に。そう自分に言い聞かせながら、あたしはケリュケイオンを通して一束の美しく卑しいものを抱いた。

「ッああああぁ……」

 あたしは膝をついて身体を弓なりに反らして呻いた。全身を焼かれたような痛みが突き抜けて行く。
 血肉の臭いに鼻と口をやられ、喉が溢れかえる唾液で醜い音を立てた。
「ゲホッ、ゲホッ。ぅううあぁあああ……」
 吐いても吐き気は収まらず、呻いても痛みを忘れることは出来なかった。熱を持った痛みにあたしの身体は焦がされ、もう一度吐いた。吐いたものは食べ物ではなく深緑の塊で、あたしは既に自分の身体が人間のそれとは変わってきていることを知った。
(動揺しては……だめ……)
 今これ以上の変化は危険だと判断したあたしは、待つことにした。

 水を打ったように静かな浴室。
 一時期は痛みで意識が遠のきそうになったけど、あたしは何とか自分の意志を保ち続けた。
(失敗せず、ケルベロスに擬態すること)
(そのために冷静でいること)
 ――痛みは引いて、随分と楽になった。
 今、ケリュケイオンはケルベロスを完全に取り込んでいる。あとはあたしの身体を意識的に変化させていくだけだ……。
「うぅゥ……」
 あたしは唸り声を上げた。心臓が高鳴って、血が沸き立ってくる。
 まるで発芽して土から飛び出す芽のように、細かい毛があたしの肌から生えてきた。いや、意識的にそうしているのだ。
 あたしは四つ這いになって下半身に力を入れる。細い人間らしい足首は骨太いものになり、太ももは分厚い筋肉を持つ躍動感溢れるものになっていく。
 更に力を入れる。尾てい骨のある所からメキメキと音を立てて尾っぽが現れた。とても見辛いけど鏡で確認しながら、蛇のようなザラついた尾を形作る。
 尾はとても敏感で、あたしの力の入れ加減でウネウネと浴槽を這いまわった。
(そう、それでいいの。それから……)
 前足を変化させるのは楽だったけど、問題は顔だ。写真を見る限りケルベロスは狛犬のような見た目に近いけど、細い髭が生えている。大分ケリュケイオンを制御しながら再現しなければならない。鼻は元のあたしの顔よりも太く突き出し、口も分厚くする。髭の再現が難しい。あたしは浅い呼吸を繰り返しながら、粘土をいじくる子供のように試行錯誤して髭を作った。
(……よし)
 あたしは四つ足で鏡の間近まで寄った。そして自分の擬態が上手く行っていることを確認してから、口の両端をゆっくりと裂いていった。
「……クッ…………ぁぁぁァ」
 ケリュケイオンで模した唇を裂いていくのは妙に気持ちが良かった。それが本当に快楽と感じる刺激なのか、痛みという感覚を通りこしてしまった結果なのか、あるいは肉体的にも精神的にもケルベロスを受け入れたお陰なのか、あたしには判断出来ない。
 あたしはスペースの増えた口から舌を出して鏡に映した。舌の裏側を伝って徐々に唾液の滴が這い出してくるのを見ながら、あたしは舌先も裂いていった。
 舌の長さも伸ばし、歯も鋭くなるよう形を変える。その頃には唾液が前足の上に滴り落ちていた。生温かい感触があたしの綺麗な毛を汚していく――。
 ――後は頭だけだ。
 これは大きな問題点だった。あたしの頭は一つしかないのだから。ケリュケイオンのみで作るしかないんだけど、顔のように大きくて精巧なものを二つ作ってコントロールするのは初めてだった。自分の肉体もそこに混ぜることが出来たら、より楽になると思うんだけど……。
(あ、待って……もしかしたら……)
 あたしは鏡をじっと見つめる。
 今まで注目したこともなかったけど、髪の毛って使えないだろうか。あたしの髪はそれなりに長さがあるんだから、髪を中央の頭部にしてしまうのではなくて、そこにケリュケイオンを混ぜて左右に跳ねさせて新たな頭部を作るのは…………。
 試しにケリュケイオンを出して髪に絡めてみると、凄く具合が良い。これを首の骨にして、あたしは鏡を見ながら中央の自分の顔と同じに見えるように、左右の顔を形成していった。
 ――んぁ……あぁぁァ。
 ――ッはぁぁぁ……ぁぁ。
 幾度も既に気にならなくなっている獣臭い息を吐き、そして飲み込み――。あたしは平静を保ちながら、何度も何度も声を上げた。


 肌から汗が吹き出し、真っ白な毛に染み込んでいく。
 汗はまだ我慢出来ても、あたしは前足にかかる唾液が気になり始めた。唾液が落ちるまではいいけども、毛に絡まった唾液はいつの間にか小さな湖をこしらえ始めていた。
 あたしは伏せの体勢になると中央の頭を前足へ向けて舌を思い切り伸ばし、テストも兼ねてじっくりと前足を舐めた。すると温かくてヌメっとした感触が伝わってくるだけではなくて、べっとりとくっつき合う毛の一本一本の感触までをも感じた。成功だ、とあたしは心の中で頷いた。
 改めて鏡でその姿を映してみるとおぞましさはなく、しかしとても奇妙に思えた。それは「あたしの身体じゃない」という違和感と、「これがあたしの身体だ」という既視感が混じり合ったもののようだった。
 ――これから、一つ大きなことをしなくちゃいけない。
 それはお父さんから送られた写真に写っている。ケルベロスは火を吹いているのだ。
 火を吹く、ということはあたしの身体とは接点を持てないものもコントロールしなければならない。
 難しいけど、頭には接点を僅かでも持たせることが出来たのだから、最初に考えていたよりはハードルが低くなっているはずだ。
(でも炎って……どう作れば良いんだろう……)
 ケリュケイオンでやるにはちょっと無理がありそうだ。
 かと言って、あたしの操る水とは真逆の火。自らそれを生み出すには……。
(水を熱くすることは出来るのよね)
(沸騰した水は加熱水蒸気になって……)
(あれ? それなら生み出すのは無理でも、近いものなら出来るかも……!)
 あたしは三つの口それぞれに水を含んだ。気温が高いせいで水道水も生ぬるいはずなのに、あたしの体温が高いからか冷たく感じて心地良い。これが三つ分あるって、本当に変な感じだ。それも感触が一番強いのは中央で、左右の口では感触はあるけども中央に比べたら鈍く感じる。更に奇妙だ。
 口の中は小さな洞窟のよう――意識して中の気圧を高めて行く。口に力を入れているせいで、ケルベロスの形を崩さないようにいることにも気を遣わなきゃいけないから大変だ。
 左右の顔は中央と比べればやっぱり難易度が上がってしまうから、数度、顔の髭が萎びてしまいそうになった。その度に、一度口に入れている力を抜いて、立て直さなければいけないのだった。
 また気圧の上がり方も中央と左右で違っていた。どうしても左右は気圧の上がるスピードが中央に劣る。だから同じになるように、時折左右だけ気圧を上げて行く必要があった。
 ――気圧が高くなった水は沸点も高くなる。
 そこで徐々に水温を上げて行くと……、

 ブワッ。

 三つの口の割れ目から同時に水蒸気がほとばしった。炎と完全に同じものとはいかないけど、勢いはそれに近いものがあるし、とても熱いものだから、よく出来ていると思う。
(何だか、ちょっと楽しいかも……)
 口から蒸気が吹き出ていくときの感覚が心地良い。放出感と達成感が合わさった気持ちになるのだ。
 今度は工夫して、あえて三つの気圧を変えてみた。そうすると吹き出る蒸気の勢いや、タイミングがズレて、リアリティーが増した気がした。

 ブワ……。
 ブワ。
 ブワァッ。

(うんっ、この方が本物のケルベロスに近づいたよね)
 と、まじまじ鏡を見ていたあたしだけど――、ふと裂けた口を釣り上げて苦笑いした。
 思い出したのだ。
 あたし、本物のケルベロスに会ったことがなかったんだった。

“ケルベロスって、空想の生き物だと思っていたけど……”

 少し前に自分が思っていた言葉を思い出したら、あたしは本当に、三つの口で照れ笑いするしかないのだった。今ではこんなに馴染んでいるんだもの。



 終。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
佐野麻雪 クリエイターズルームへ
東京怪談
2010年09月13日

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