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『  Divine One――【6】 』
深沢・美香6855)&(登場しない)


『あなたが弾けるものでいいわ』。
 そんなことを言われても、と美香は思う。
 頭の中に白い絵の具をぶちまけられたようだ。
(なんだっけ、なにが弾けたっけ? 私の弾ける曲、弾ける曲って……)
 寝起きにいきなりインタビューのマイクを向けられたような唐突さに、落ち着けば思い出せるのかもしれない曲すら思い出せない。
 横合いに立っていた白髪の彼女は、椅子を引き寄せてそれに腰を下ろそうとしていた。
「コンサートじゃお客さんはそう長く待ってくれないわよ」
 頭の中でぐるぐると音を立てていそうな思考に、彼女の声が突き抜ける。
 美香の強ばった顔を、素晴らしく磨かれたピアノの譜面台が正直そのものに映していた。ピアノまでが、早く弾けとせき立てているようで、責めてくるようで、慌てて目を逸らした。
(こんな状況じゃなきゃ、とっても気持ちのいい部屋だと思ったに違いないのに)
 弾ける曲を思い出すのに必死なはずなのに、いや、焦る気持ちが空回っているからこそなのか、曲名を思い出せない頭がそんなことを考えていた。
 外から見たときはそんなふうに見えなかった高い天井。中庭に面して並ぶ大きな窓からは白い光が差し込んでいる。飴色のフローリングには淡く、温かな光を灯す照明の優しげな形が映りこんでいる。
 窓の外は曇りはじめているようだ。あの男とランチをとった時はたしか晴れていたのだが。
 洋館のそれのような上端が半円を描いた窓際で、外の植え込みの葉が優しくそよいでいる。青い葉が曇り空を映して時折ちらちらと白んだ。
 曇り空は物思いを誘う。
 わずか二十年、されど二十年。
 自分で決めて選んできた道のりとは言え、いつしか背負うには重い歳月になっていた。
 二十年の来し方が白く弱い光の中に蜃気楼のように立ち現れて、消えた気がした。
 窓の外の景色以外何も考えていないはずだった。曲のことはさらに考えていなかった。そんな美香の意思をよそに、言葉が口をついて出ていた。
「ショパンの『雨だれ』を」
 しんと静まった室内に、"マエストラ"の、どうぞ、という声が遠く聞こえた気がした。

 前奏曲の何番かだった覚えはあるが、流れた時がそれを思い出させてくれなかった。瞼の裏に幻のように現れては消えるおぼろげな譜面は、遠い記憶のものだ。ぼんやりとあちこちに見える赤鉛筆の印は当時の先生が書き込んでくれたもので、赤鉛筆の印の倍ほど走っている鉛筆での線や印は美香が書いたものだ。
 一人で弾くのが好きだった。
 雨の日に、窓の桟にぱたぱたと鳴る雨の音を聞きながら弾くのが好きだった。
 自分でも不思議なくらいに飽きることなく弾いていたのを覚えている。
 並ぶ黒白の鍵の上にと指を置く。
(どこに置くんだったっけ)
 一小節目の指を置く位置をと考えて、胸のうちにむず痒いものが過ぎった。
 足の下に渓谷が見える吊り橋の上を歩く時のようなむず痒い不安だった。
 目を閉じれば瞼に蘇るショパンの楽譜は、しかし今や読めないものになっていた。やりこんだ楽譜はなかなか忘れないのがかつての自分だった。それだけ、あれらの日々から遙かに遠ざかってしまったということだ。
「"マエストラ"が見ている」と意識しかけて、あわてて「いけない」と心の中で首を振る。
 吊り橋を渡るときに足下を見てはならないのだ。
 窓辺へと目を向けた。
 かわらず揺れる植え込みの木々。
 きっと冷たい白い風。
 目を閉じる。
 残像が目の奥で揺れていた。
 あれらの葉の上に、やがて、雨は降るのだ。
 がちがちに力が入っていたはずの指が、すっと滑るように動いた、と感じた。
 それでもともすれば縺れそうになる指の間から、ふくよかに甘い音色が立ちのぼりはじめた。



 細い雨が瀟々と降る。
 春雨のように柔らかな雨だ。
 絶え間なく葉を濡らして白い玉となった雨露が、葉の先から滑り落ち、そこここで小さく弾けている。
 眠くなるような優しさを装って、とつとつと呟く雨の音は心の中の忘れられた記憶を呼び起こす。
 そして、忘れているべきだった記憶までをもゆり起こすのだ。
 雨音が呼び覚ます思い出の姿は残酷だ。
 自分は恵まれていることのなんたるかを知らなかった。それを知るようになって、人よりも恵まれていることの窮屈さと後ろめたさとを感じるようになった。
 息苦しさといたたまれなさに耐えられなくなって、それを投げ捨てた。肉親からの愛情とともに。
 投げ捨てた後、そこには、感じる不安の大きさと同じだけの新しい世界が目の前にあった。

 雨脚が強くなってきたようだ。
 風も出てきたらしい。
 葉が梢がざわめいて、やがて、木々が吹き荒れる風を追いかけるようにしなりはじめる。
 低い空にはいつの間にか厚い雨雲が満ちている。
 雨と風の音に混じって遠くから聞こえてきたあれは、雷鳴だ。
 嵐が来るのだ。
 小さかった頃、天を縦横に駆けていく稲妻を見たときに、幼い心に過ぎったものはなんだったろう。
 ソファの裏に隠れ指で耳栓をして、一生懸命目をつむっていた。
 それでもしっかりと閉じたはずの瞼の間から稲妻の光は難なく押し入ってきて、たまらず母親にしがみついた。あたたかな太腿に顔をうずめて泣いた。この恐ろしい雷の音が聞こえないようにとわざと大きな声で泣いたりもした。
 それから少しの年月のあと、雷の鳴る夜に、自分はソファの裏にいなかった。
 カーテンをぎゅっと握り締め、滲んだ窓の高みで奇跡のように輝く稲妻を、雷がやんでしまうまでずっと見上げていた。

 圧しかかるように低く垂れこめた密雲を、雷光が裂き、破く。
 夜明けと見紛う明るさが、大地に張り付く家々の屋根をくっきりと浮かび上がらせる。
 天が割れるかのような轟きが、あたりを埋め尽くす。

 恐怖は昂揚に変わった。

 空をつんざく鋭い光を見るたびに、無性に胸が高鳴った。
 まったく怖くないと言えば嘘だったが、恐ろしいからこそ輝く稲妻への憧れは、地の底から金環蝕の輝きを仰ぎ見るように狂おしかった。
 そう、あの心の昂ぶりは、熱く昂ぶった胸の理由は、いまならわかる。
 世界が変わりそうな気がしたからだ。
 恐怖と不安を孕んだ荒ぶる稲妻と雷鳴が、ひょっとしたら一瞬後の世界を変えてくれるのではないかと、予感のように感じたからだ。きっと。
 それはいつでも束の間の空想で終わったのだが――。

 ずっと「美紀」と呼ばれてきた。
 「美紀」は源氏名で、「美香」が本名。
 だが、「美香」と呼ぶ者はどれほどいただろう。
 いつしか自分は「美紀」になっていた。「深沢美香」の人生を、「美紀」として生きてきた。
 あの日、自分は「美香」の世界から抜けだして、「美紀」の世界へと渡った。「美紀」としての人生は自分の手で開いた新世界だった。
 肉親の愛情を捨てて、偽りの愛情を演じる自分の世界。
 すべての愛情をいらないと思っていた。
 もともと、利害の絡む愛情など欲しくもないと、自分に纏わり付くしがらみから解き放たれていっそ孤独でありたいと願ったのは自分だったのだから。けれど今思えば、長い間ずっと自分にそう言い聞かせていたのかもしれない。
 肉親たちのしがらみからは解放されたが、新しい世界にしがらみがないわけではなかった。人は一人では決して生きていけないのだと、身体と心で知った。
 かつて家族とともにいた自分の置かれていた境遇がどういうものだったかを知った。外側の世界から見ることができた。代償は大きかったかもしれないが、それが一番知りたかったことでもあった。……のだろうと今になって思う。
 そうして考えると、今の自分はどうだろう。
 今の自分は「美紀」なのだろうか。それとも……。

 激しかった雷は遠くへ去ったらしい。
 荒れ狂っていた嵐もおさまって、強い風に揉まれた葉を慰めるような雨が静かに降っている。やがては雲の間から日も差すことだろう。
 日が差せば、新たな世界が開けるだろうか。
 今度は「美紀」の世界を抜けだした、新しい「美香」の世界が。

 今は。
 今は、「美紀」でなく「美香」と自分を呼ぶ人がいる。



「ふぅん。美香、と言ったかしらね。ええと、深川? 深沢?」
 "マエストラ"の声が近くで聞こえたのに驚いた。
 いつ椅子を立ったのかすぐ傍まで来ていたらしい。
 座った姿勢で見上げると大きく見える彼女の顔を見て、にわかに先刻までの恐ろしいほどの緊張が蘇ってきた。
「ふ、深沢です」
 彼女は、そう、と短く言った。
「深沢美香、ね。ちょっとそこに座んなさい」
 どっと冷たい汗が噴き出す。ピアノの前から離れ、指さされたソファへとおそるおそる座った。
 深く沈んで身体を包んでくれるソファは絶対に気持ちいいはずなのだが、今から聞くことになるのだろう評価の内容を思うと、心臓が縮みあがりそうだ。
 恐ろしいことに弾いていた間中、どこで何をどう弾くかということをこれっぽっちも考えていなかった。ただ、どうにか曲を覚えていたらしい身体の動くままに弾いていただけだった。
 あの男が彼女を"マエストラ"と呼び、相当な敬意をもって接していたことを考えれば、彼女はおそらく高名な音楽家なのだろう。
 その彼女を前にして弾いたというのに一切の注意を払わなかったのだ。自分は。

  ――期限は一年だ。
  ――何かできるようになってくれ。
  ――話にならないわね。
  ――僕からのたっての頼み、とだけ。
  ――本当なら私のピアノに触らせたくもないところだけど――。

 先刻聞いた、思い返しただけでも青くなれそうな言葉の数々を思って、目の前が暗くなった。後の祭りだとはわかっていたが、これから聞くことになるだろう言葉から、できれば耳を塞いでしまいたいと思った。
 相向かいのソファに座った"マエストラ"が口を開いた。
「私ね。若いときに留学したのよ」
「……は」
 予想とは違った第一声に、思わず気の抜けたような声が出た。
 失礼だったかと思ったが"マエストラ"は気にしていないようだ。
「あなたぐらいの歳だったかしらねぇ。もうちょっと若かったかもしれないけど。美香、あなた、歳はいくつ?」
「はたち、です」
「あら、そう? もっと大人びて見えるけど、そう……それでかしらね」
 何を納得したのか、一人頷いていたが、それから彼女は少し笑って言った。
「私はこの通りもう七十になるお婆ちゃんだけど、あなたみたいに若い頃もあったのよ? で、留学……そうそう、その話だったわね。留学したのよ、私。戦後、日本は音楽的には黎明期だったから、『日本人として初の』っていうのを勝ち取るためにがむしゃらだったわ。私も、周りも、ね。欧米に行って、そこで認められるってことが、天上のそのまた上の出来事のように思えたもんよ。煙草、吸ってもいいかしら」
 煙草は吸わないが慣れっこだ。むしろ煙草の煙とともに過ごしたことの方が多かったくらいだから、もちろん頷いた。"マエストラ"はテーブルの上の灰皿を引き寄せ、シガーケースから抜いた煙草を慣れた手つきで指に挟んだ。
「行ったら、あなた、日本で小さい頃から習ってきたことを完全否定されたわよ。一からやり直せって。日本を出る前から発狂しそうなほどのプレッシャーが乗っかってたでしょ。それに、今みたいに飛行機でちょっと行ってきますってほど簡単に外国に行ける時代でもなかったし、外国なんて隣の星みたいに思えて。だいたい言葉もわからないし、見慣れた景色があるわけでもなし。酷いホームシックにも悩まされてねぇ。風邪を引いて熱でも出そうものなら、このまま自分は異国の地で死んでしまうんじゃないかって思ったくらいよ」
 彼女は遠くを見るようにして、煙草の煙を吐いていた。
「いつも心細くて、みんなが私を苛めようとしているんじゃないかって思えて、でもだからって泣き言を言って日本に帰ることもできない。前に進めず後ろに退けず、って感じだったかしらね。世の中からピアノなんて無くなればいいなんて思ったこともあったわ。……まぁ、そんな青春時代だったんだけど、私は幸か不幸かピアノと縁が切れなかった。なぜって、理由ならわかってんのよ? 私にはピアノしかなかったから。前に進めず後にも退けなくたって突き進むしかなかったのよね」
 そうして彼女はまた笑った。
「つまんない話だと思ってるでしょ」
「え? いえっ。そんなこと全然」
 慌てて首を振った。
 本当だった。ついさっきまでは意地悪で酷薄な印象しかなかったこの人にも、心底苦しい時代があって、ホームシックで泣くような時代があったのかと想像したら、彼女のことを違う目で見られるようになってきたという、まさにそんなところだったのだ。
「そう? なんでこんな話って思ってるかと思ったわ」
 顔を背けて煙を吐いて、彼女は言った。
「芸術には、計算し尽くされた美というのと、技術と非技術の狭間で成り立っている美があって、偉大な建築なんかは計算し尽くされている美の典型よね。一方、後者はたとえば書の道って言ったらわかりやすいかしら。技術と偶発的な要素とから成り立っている芸術。私の音楽なんかは、後者だわよ。技術が古くて、取れない癖もついていて、だから一からやり直せって言われたんだしね。それでもどうにかこうにかやったけど、私のどうにも足りないところを補ってくれたのは何かって言うと、心よ。技術という名の計算が足りないなら、一つ一つの音に、一度一度の演奏に私の魂のすべてをつぎ込んでやる、ってね。ちょっと大袈裟かもしれないけど、でも、そんな気持ちで駆け抜けた音楽人生だった。そこに行き着くまではあがくだけあがいたんだけど」
 そう言って灰皿に煙草の灰を落とす。あっと言う間に灰になっていく煙草を、黙って相槌を打ちながら美香は見ていた。
「――で、美香、あなたに表現できることがあるとしたら、私がどん詰まっていた時に、この先ピアノで表現してやるんだ、って思った魂の部分、そっちじゃないの? 今まで見てきたこと聞いてきたこと歩いてきた道。そういうものを音楽に変えてやろうって私は思ったわけだけど、あなたがやるとしても、そっちよ」
 断言だった。その断言が何を意味をするのか、とっさに計りかねて戸惑った。
「私は、そんな。私の歩いてきた道だなんて、全然……」
 "マエストラ"の、想像を絶する苦労もあったのだろうが、それ以上に華々しかったのだろう半生となど、比較するのもおこがましいほどだ。おこがましいし、とても彼女に言えたものではない。
 もごもごと口ごもっていたが、どうやら最前の言葉は質問ではなかったらしい。彼女は天井を仰いで言った。
「たまには『先生』って呼ばれてみるのも悪くないかしらねぇ」
「……え?」
 彼女は今なんと言ったのだろう。聞きなおしたい。もう一度。
「あの……」
 思わず身を乗り出すと、"マエストラ"もまたテーブル越しに身を乗り出した。
「勘違いしちゃダメよ。私は技術がいらないって言いたいんじゃないの。技術に裏打ちされてこそ一流よ。ハートだけで済むなら、世の中アーティストだらけ。芸術家でなくたって、感受性の強い人なんてたくさんいるんだから。だから、これからあなたには技術を徹底的に習得してもらうわ。あなたの限界に挑戦してもらうからそのつもりでいらっしゃい」



 「『先生』と呼ばれてみるのも悪くないかしらね」という言葉の意味を一瞬とりかねて、それから、まさかと思った。だがそれは勘違いでも聞き間違いでもなかったようだ。それでもなお信じられない気持ちのまま、ぼうっとしていた美香に、"マエストラ"はお茶を出してくれて、ピアノの技術のことについて語ってくれて、そして気づけば二時間近く経っていた。
「あら、電話があったみたい」
 レッスン室の片隅のサイドボードの上で、赤いランプが明滅していた。美香の耳にも電話の音は聞こえなかったから、レッスンの邪魔になってはいけないと音の鳴らない留守番電話設定にしてあるのかもしれない。
 "マエストラ"はしばらくの間ぼそぼそと聞こえるメッセージに耳を傾けた後、美香を振り返った。
「やっぱりあの子だったわ。あなたが心配だって」
 あの子、というのは、ひょっとしてあの男のことだろうか。
「そうね、もうそろそろ3時だものね。そろそろ帰してあげなくちゃ。レッスンは週に2回。これは特別よ。曜日と時間は水曜と土曜の14時から。当たり前だけど遅刻は厳禁」
 細い鎖のかかった眼鏡をかけ、"マエストラ"は手早く手帳をめくって言った。
「再来週の土曜からなら空けられそうだわ。あなたは大丈夫かしら?」
 空けられる。そうだ、"マエストラ"と呼ばれるような人なのだ。忙しいに決まっている。一も二もなく頷いた。



 数時間前にここに来たときは、地獄の門を潜ったような気分だった。
 けれど、今は違う。先刻からやたら足元がふわふわとして落ち着かない。板張りの廊下を歩いているはずなのに、絨毯の上を歩いているようで足の裏がやたらにむずむずとする。
 こうもうまくいくものなのだろうか。
 一瞬後に、今のは嘘でした、と誰かが言ってくるのではないのだろうか。
 今までの話が自分の聞き間違いでなければ、自分は合格したのだ。そして再来週の土曜からはレッスンが待っている。
 新しい生活が始まる、ということだろうか。
 明日という日がにわかに開けてきたような。それでいて、明日を生きる自分の姿はとても想像がつかなくて、ほんのすぐ目の前にあるはずの未来が逆光で見えない。そんな気分だった。
 門を出ると、男はいつからそうしていたのか、塀のところに背中を預けてそこにいた。
 美香の姿を認めるなり、黙ったまま真剣そのものの表情で目が「どうだった?」と尋ねてきた。
「えっと、先生って呼んでもいい、って」
「先生って呼んでも、いい……?」
 男は、聞こえるか聞こえないかのような声でそう呟くと、いきなり肩をがっしと抱いてきた。
「すごいじゃないか! 美香! すごいよ! あの人さ、何年も前にもう弟子は取らないって宣言してて、今いるのも昔からの人ばっかりなんだ。それも、それぞれプロなり先生なりになってしまっているんだけどな。それなのに、あの先生のテストにパスして弟子の座を勝ち取ったなんて、すごいじゃないか!」
 男に肩を痛いほど抱きしめられて、それほどの出来事なのかとぼんやり思う。ぼんやり思ってから、ふと、恐ろしい考えに至った。
「そうだけど、そうかもしれないけど、ねぇ待って! あなた、そんな人に私を紹介したっていうの!? それって普通に考えて合格できないようなテストだったってことじゃない! それに、あなた、どうしてあんな凄い人を知ってるの? あの人、あなたのことを『あの子』って言ってた」
 あの子、と男は呟いて、それから恥ずかしそうに笑った。変わらないなぁ、と笑って、そして男は言った。
「ああ。あの人さ。俺のいとこなんだ。親子ぐらいに歳が離れているんだけどさ」
「いとこ? あなたの?」
「そう。信じられない?」
「ううん、それはないけど……。いとこだったんだ。ああ、じゃあ」
 それだから弟子にしてくれたんじゃ、と言いかけた美香の心を見透かしたように、男は手で美香の言葉を遮った。
「でも。でも間違っても、俺が紹介したからって理由で点を甘くしてくれたりしない。見込みがないと見たらだめなものはだめだってスッパリ切り捨てる。そういう人だっていうのは、美香だってもうわかってるんじゃないか?」
 それはそうだ。
 玄関先で話した時の、けんもほろろな言いざまに泣きたくなった気持ちも鮮やかに覚えている。
「何にしても、よかった。一歩前進だよ」
「一歩前進かあ……」
「まだ実感がわかないって顔をしてるね。じゃあ、今日は祝宴だ」
「祝宴?」
「うん、どこかいい店があればそこで食べてもいいし、美味しい物を買って帰って家で食べてもいいだろうし。それに、今日っていう一日を美香はものすごく頑張ったんだからさ、今だったらプレゼントの一つぐらい贈るぞ? そうすれば、少しは実感がわくんじゃないか?」
 男はそう言って悪戯っぽく笑った。
 そうだ、今日という日は怒濤の一日だった。
 もしもあらかじめテストだと聞かされていたら、きっとあんな風にうまくはいかなかっただろう。
 "マエストラ"の家に訪れてから辞去するまでを一通り思い返して、どっと疲れを感じた。
「もう、お店に寄る気力なんてないわよ……」
「じゃあ家だな」
 道端にしゃがみこんでしまった美香を男は笑って手を取り、立たせた。
「家に着くまでがテストです」
 冗談めかした口ぶりでそう言って、美香を引っ張るようにして歩き出した。
 駅へと続く道で、街路樹の楓は赤茶色の葉を落としていた。風もないのに落ちる葉が、日に日に早まる夕暮れの陽光を浴びて美しく映えていた。

  ――ねえ、さっき一つぐらいならプレゼントしてもいいって言ったでしょ? 
  ――うん。言ったよ。別に一つじゃなくてもいい。あ、でも、島をプレゼントしてくれって君が言ったら少し時間をくれっていうかもしれないけどさ。
  ――ばか。そんなこと言わないわよ。私ね、もしプレゼントしてもらえるんだったら、日記帳が欲しい。
  ――日記帳? 日記帳ぐらいいくらでも、だけど。どうして?


 屋根を破るような、世界の終わりのような雷雨が立ち去った後、見たことのない新しい世界が広がっていることを、夢見ていた頃があった。
 新しい世界。
 今がその時なのだろうか。
 まだあまり実感は湧かないけれど、明日の朝、目覚めたならば、世界はまばゆく変わっているだろうか。
 だとしたら、書き留めたい。
 この目に映る新しい世界を写し取ってみたい。


  ――うーん。なんとなく、日記帳が欲しいって思ったの。
  ――そうか。日記帳な、わかった。……俺も買ってみるかな。日記って続いたためしがないけど。
  ――わかる。最初の何日間かは丁寧に書くのに、一週間ぐらいで書かなくなっちゃうよね。
  ――そうなんだよ。でも、今度は続けられそうな気がする。
  ――ほんと? 三日坊主にならない?
  ――……たぶん、な。今度は、書きたいことがあるから。


 書きたいこと。
 写し取りたいことがある。
 なぜなら、新しく始まる世界、まばゆい世界が、きっともうすぐ目の前に。
 ……きっと。





<了>

PCシチュエーションノベル(シングル) -
工藤彼方 クリエイターズルームへ
東京怪談
2010年11月22日

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