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『螺旋する 』
物部・真言4441)&(登場しない)





 悪い夢を見たような気がして物部真言は飛び起きた。
 一人暮らしのアパートの部屋の中はひっそりと静まり返っている。必要最低限のものしか置かない、よく言えばこざっぱりとした空間の中、冬の冷気を帯びて張り詰めたような空気が真言の次の動きを見つめている。凍てつくような空気が汗ばんだ身体から一息に熱を奪っていく。身を震わせながら前髪をかきあげ、真言はふと視線だけを移ろわせた。
 視界の先にあるのは一体の日本人形だ。特に重ねた歴史の長さも感じられない、――着物の柄だけを見て判断するならば、せいぜいここ数十年程度のどこかで作られたものであるはずだ。
 むろん、人形の作り手や工程、ひいては着物の柄に関する知識など持ちえているわけではない真言にとっては、そのどれもが“聞いた情報”にしかすぎない。
 ガラスの箱の中で鎮座しているその人形は細い首をわずかに傾げ、紅をひいた唇を物言いたげな風にわずかにひろげ、ガラス玉のように閃く黒い双眸だけをまっすぐに真言に向けている。朱の花を咲かせた袖の肩の上、すとんと伸びた長い黒髪がひろがっていた。
 真言は人形の視線に自分の視線を合わせ、わずかに眉をしかめる。しかしすぐに思い立ってただちに呼気を整え、額から頬を伝い流れた汗を指先で拭った。
 
 実家住まいの知己が持ってきたその人形は、一見、特に目立った悪意や憎悪の塊を持っているでもなく、いわば何の変哲もない、ただの市松人形にしか見えなかった。が、アルバイト先の知己である彼が言うには、母親がどこかの店でその人形に一目惚れし衝動買いしてきて以来、家の中の空気が夜ごと変化しているような気がするのだという。中古品であったらしいこと以外、どこの店で目にして買ってきたものなのか、不思議なことに、当の母親本人の記憶もあやふやなのだというのだ。気がつけば人形を抱え帰宅していた。簡潔にまとめるならばそういうことらしい。そしてその夜から怪異は起きたのだという。――とはいえ、例えば夜ごと人形が動くとか、髪が伸びるとか音が鳴るとか、そういった類の、いわば分かりやすい怪異ではないらしいのだ。
「いつも、家の中のどこにいても、どこかから見られているような気がする」
 彼はそう言って、げっそりと痩せ細った腕で頭をかきむしっていた。
 日に日に彼の体重が削げ落ちていくのが目に見えて知れる。最近ではろくに眠ることも出来なくなっているのだという。「夢の中にまで追ってきやがった」そう言い、落ち窪んだ目をぎょろりと光らせ執拗なまでに忙しなく周囲を気にするその様相は、誰の目にも異様としか言いようのないほどに変容してしまっていた。
 そして今、件の人形は真言の手元にある。その人形が怪異の原因であるのかどうか調べてみるから、と断りをいれて借りてきたそれは、ガラスケースの大きさも手伝って置き場所に迷い、結局、ベッドに横たわった状態で目線の高さをほぼ同じくする位置に置くことにした。結果的にはそれは間違いだったと思い知ることになった。
 悪意や憎悪の残滓を検めることの出来ない人形に対し、真言は鎮魂の術を施すことにした。数日も祝詞をあげれば収まるだろう、と。どこかのんきに構えていた。が、それはとんでもない誤りだった。

 息遣いが、まとわりつくような視線が、部屋のどこにいても感じられる。眠りにつけば夢の中でまで何者かがこちらを監視している。ただじっと、ある一定の距離を保ちながら、こちらの挙動を窺っているかのように。その混沌とした夢から現実へと覚醒すれば、一番に目が合うのはあの人形なのだ。人形は無言の内に告げているのだろう。それは自分がもたらしているものだ、と。
 幾度目かの夢を迎えた後、真言は漠然とではあるが、人形が持っているであろう真意を理解したような気がした。人形はただ故意に距離を保っているだけなのだ。引いたその一線を踏み越える、そのタイミングを見計らっているだけなのだ、と。つまり、人形が引いているであろうその一線を取り払ってしまったとき、人形はおそらく初めて本当の姿を見せるのだろう。そこにあるものが害悪であるのか、あるいは悲哀や、そういった類のものであるのかは判らないが。
 
 鎮魂が通らない、となれば、あるいは何らかの呪いなのかもしれない。彼が、あるいはその母親が、あるいは親族のいずれかが、何者かからの呪いを受けているのかもしれない。――いや、もしかするとあるいは無差別な呪いなのかもしれない。「気がついたらこの人形を手にしていた」としか聞かされていないのだ。もしも無差別的なものであったのならば、この人形が内包しているかもしれないそれは想定を遥かに上回り、性質の悪いものとなる。
 闇と冬の冷めた空気を挟み、真言はまっすぐに人形の視線を見据えた。そうして拍手を打ち、祝詞を編み始める。
 いずれにせよ、このまま何の手もなさずに知己の手元に戻すわけにはいかない。何の根拠もない予兆に過ぎないが、あのまま人形を手にしていれば、知己は、その家族は、確実に死していただろう。死せずとも正気を手放していたかもしれない。
 
 夜の静寂の中、真言が編む祝詞が響く。どこか澱んでいたようにすら感じられていた空気が一息ごとに清廉としたものに変じていくのがわかった。
 祝詞の奏上を終え、空気が清くなったのを検めると、真言は深々と息を吐き、そして吸った。跳ね起きた時と違い、呼気に乱れはない。先ほどまであれほど強く感じていた視線も消えている。
 風が窓を鳴らしているのが聞こえた。空気が揺れているような気がする。
 前髪をかきあげ人形を検めた後、真言は再びベッドに身を横たえた。

 遠く、鳥がないているような声がする。雨雫が地を叩くような音も、窓の外で複数の人間たちがさわさわと言葉を交し合っているような気配もした。
 真言は薄く眼を開くと枕元に置いてある携帯電話を開き時間を確かめようと考え、ゆっくりと手を伸ばした。――気配的にはもうそろそろ朝だろうか? 部屋の中はまだ暗いように感じられるが、雨が降っているのだとすればそれも合点がいく。
 バイトのシフトを頭の中で反芻しながら枕元を探る。そして、指先が何かに触れた瞬間、真言の寝惚けていた意識は急速に現実へと引き戻されたのだ。
 指先に触れているのは小さなてのひらだ。それが真言の指を握っている。部屋の隅では何かが蠢いている。そうして、真言の耳元では、何かが何かをささやいている。それは聞き取ることができない程度に細く、そしてとても薄い声だ。唄をうたっているようにも聴こえるが、判じることはできそうにもない。
 ――しまった
 そう思った次の瞬間、耳元に触れていたささやきが途端にけたたましい笑い声へと変じた。空気が粘ついた重みのあるものに沈んでいくのがわかる。まるで腐った古い沼の中に沈んでいくような感覚だ。
 呼気を整え祝詞を編もうと試みて、しかしそれは比較的あっさりと遮られるものとなってしまった。――呼吸がうまくできないのだ。腹の上に何かが乗り上がっているような重みを感じる。それがあの人形だと気がつくまで、さほどの時間は要さなかった。
 人形の目が真言の顔を覗きこんでいる。紅をひいた口角の両端が歪みあがっている。さらさらと流れる黒髪が真言の頬をくすぐる。
 かくり、と首をかしげ、人形の表情が一変したのは、そのすぐ後のことだ。
 金属を引っ掻くような甲高い笑い声が一面を満たす。人形は真言の顔を覗きこんだまま、小刻みに前後左右に揺れている。

 おまえは何を望むんだ? 何か言いたいことでもあるのか

 形を成さない声で訊ねてみるが、人形は一向に応えようとしない。ただひたすらにけたたましく笑うばかりだ。その笑い声でさえ、果たして人形のものであるのかどうか解らない。
 ――ああ、そうか
 おまえはそもそも、何の望みもないのか。殺意も持たず、憎悪も持たず、暗い感情など何ひとつとして持ち合わせず、ゆえに鎮魂も通らない。おそらくは祓い落とそうとしても通るものではないだろう。――無垢であるだけなのだから。
 考えて、真言は腹の底で小さく息を吐いた。ならば、俺にできることなど、何ひとつとしてあるわけもない。

 そうして次の瞬間、悪い夢を見たような気がして物部真言は飛び起きた。
 一人暮らしのアパートの部屋の中はひっそりと静まり返っている。







お届けが遅れてしまい、申し訳ありません。
お久しぶりです。ご発注ありがとうございました。
細々とやらせていただいておりますので、またご縁とご入用がございましたら
お声がけのほど、よろしくお待ちしております。
お気に召していただけましたらさいわいです。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
櫻井 文規 クリエイターズルームへ
東京怪談
2011年01月06日

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