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『 Divine One――【7】 』
深沢・美香6855)&東野・雅治(8419)&東野・花那(8418)&(登場しない)


 美香は机の前に座っていた。
 窓辺のカーテンがふわりと風をはらんで、時々美香の額をくすぐっていく。
 冷たくも清々しく、心地よい風だった。
 土曜日。
 いつもならばこの時間はまだベッドの中だ。前の晩の疲れが澱のようにたまっていて、たとえ目が覚めてももう一度ベッドに沈むことになる。
 そして疲労の抜けきらないまま、数時間後、無理矢理に身体を叩き起こして出勤の支度をすることになる。そういう日々をもうずっと長い間、過ごしてきたのだ。
 なのに、その生活は昨日で終わった。
 思いもかけない唐突な終わりかただったと思う。
 いや、本当に終わったのかどうか今ひとつ信じ切れないところもある。あまりの唐突さと、あまりに不思議な出来事のために。
 それでも、一昨日よりは昨日、昨日よりは今日と、それは少しずつ現実味という色を重ねてきているように思えた。
 実際、一晩寝て目覚めたらまた元の生活に戻っているのではないか、という不安は今朝がたに一つ払拭されたのだ。
 今、美香の目の前には、一冊の日記帳があった。
 美香の新しい門出に、とあの男がプレゼントしてくれたものだった。
 クリーム色の分厚い日記帳だ。
 鍵を掛けられるようになっている。
 西洋の童話に魔法の本として出てきそうな重厚なつくりのものだった。
革のベルトにある鍵穴へと、小さな鍵を差し込んでみる。カチリとしたほんのかすかな手応えがあった。
 ベルトをはずして、胸が高鳴るのを感じながら、革表紙をめくってみる。
何も書かれていない羊皮紙があって、それをめくると、カリグラフィで「Diary」と書かれた内表紙があった。
 子どもの頃に日記を書いた時は、学習帳のようなものか、キャラクターものの文房具に書いたことを覚えている。祖母からもらった和紙が表紙の帳面に書いたこともあった。
 続いたこともあったし、それほど続かなかったこともあった。
 その日あった楽しいことを日記に書くのは苦ではなかった。愉快だった。
 だが、あまりに悲しいことを日記に書くのは辛かった。書いても辛く、読み直すのも辛く、何かの拍子に目に入ってしまうことも怖くて、そんな理由で日記を書くのをやめたことが多かった、と今になって思う。
 裕福な家庭であることを鼻に掛けているのかとクラスメートから苛められたこと、習い事に追われていたせいで友達もあまりいなかったこと。どれを書いても辛かった。もちろんその頃は相当付き合いの悪い人間だったろうから、納得はできる。だが、寂しかった。
 初めて恋した男の子と一緒に、ふたりきりで川向こうの街にでかけたこともあった。その街のはずれには大きな自然公園があった。ちょっとした丘陵がまるごと広い公園になっていた。
 落ち葉がつむじ風にかき混ぜられて待っている中を、ブナやシイの実を拾って歩いた。その男の子は木の実や枝葉で器用に動物を作ったり、舟を作ったりしては美香にくれた。美香の知らないことをたくさん知っていた。だからいつも遊んでいる時間は飛ぶように短く感じられるほど楽しかった。ふたり、風に飛ばされた帽子を追いかけて、屈託なく笑っていられた。
 それから間もなく、厳しい顔をした父と母に、その男の子と遊ぶことを禁じられた。下町の賤しい家の子など、我が家の長女たるおまえには相応しくない。まして早々に男の子などと遊ぶのはけしからんことだ、ふしだらで恥ずべきことだ、と叱られた。
 その日はちょうどその男の子と遊ぶ約束をしていたのだ。それなのに、怖い顔をした父と母に捕まって、家から一歩も出られなかった。
 あの子は大きな銀杏の下で待っているだろうか。まだ待っているだろうか。どれだけ待っただろうか。そう思って泣いた。日が落ちてからも泣いた。夜通し泣いた。
 大きな池に向かって一緒に叫んでみたり、歌ってみたりすることや、水鳥に給食の残りのパンをあげてみたりすることの何がいけないというのか。
 一緒にいることが楽しいからいる、という純粋な気持ちと、二人で過ごした美しかった時間とが、めちゃくちゃに穢された気がした。
 泣きながら、日記帳を破った。
 少し前のページにもみじの葉が押し花のように貼ってあった。
 一枚の葉の端から端にかけて、蘇芳色から朱色、朱色から山吹色へと変わっていくきれいな葉だった。あの男の子がくれたものだった。
 美香は泣きじゃくりながらもみじをはがした。涙ににじむもみじを、悲しくて破った。悔しくて破った。破るとそれは粉々になった。指の間からサラサラと落ちていく美しい色の粉が切なくてやるせなくて、もみじの亡きがらを握りしめてまた泣いた。
 そうしてだんだんと心に覆いをかけるようになっていったのだったと、美香は真っ白なページを見つめながら思い出していた。
「そんなこともあったっけ……」
 あの時の悲しみは、映画の中の出来事のように薄い一枚のスクリーンを隔てて見えた。
 当時は身も世もない心地で過ごしていた気がするが、今となれば何とはなし、甘い思い出のように思えるから不思議だ。
 ということは、今までの自分が抱えていた日々の思いも、やがてはどことなく美しいものに思えてくることがあるのだろうか。
 内表紙をめくった。
 そのぺージには、日付を書く欄と、セピア色の罫線が整然と並んでいた。
 印刷された罫線の凹凸をたしかめるように、上に指を滑らせてみる。
 紙と印刷インクの真新しい匂いがした。
 一点の汚れもないページの日付欄へと、そっと万年筆のペン先を寄せる。ブルーブラックのインクが紙の繊維に、ほんの少しだけそれはじわりと染みた。
 月を書く欄に、11、とゆっくり書き込んでいく。
 ずいぶんと長い間、こうして改めて字を書く機会がなかった。ペンを持つ指先に無駄な力が入っていると自分でも思う。
 日付欄の下には何を書いてもいい白い紙面が広がっている。
 悲しい事のあるたびに書くのをやめた日記。そしてついには書かなくなった日記。
 だが、もう一度書いてみたいと思いはじめて、書こうとしている自分が今はいる。
 新しい生活、この目に映る新しい世界を、この日記帳に写し取りたいともう一度思うことができたのだ。
 カレンダーを確かめる。今日は21日だ。
 日を書き入れる欄に、21、と書き終えた。

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   11月21日(土)

  新しい日記帳が私の手元にやってきた。
  何から書けばいいのかわからないほど、
  目まぐるしい日々。
  書きたいことがたくさんあるときにかぎって、
  何から書けばいいのかわからないなんて。
  でも、そんなものだよね。
  そう思うけど、ちょっとおかしな気分。

  まず、仕事をやめることになった。
  というより、いつの間にかやめてた。
  いつの間にかやめていた、なんて、生まれて初めてのことだ。
  いつの間にかやめさせられていた、とか、
  いつの間にかお店がなくなっていた、ということならあったけど。

  それから。
  ずーっと昔にやりたかったピアノをまたやれることになった。
  しかも、ものすごい先生がついてくれるみたい。
  再来週の土曜からレッスンが始まるとのこと。
  週に二回なんて、本当にいいのかな。
  そうはいっても、まだ実感がないんだけれど……。

  怖い、とか、どうなるんだろう、っていう気持ちもあったけど、
  何かが変わるときには、絶対に通る道なのかもしれない。
  ほんの数日のことなのに、こんなにも変わるんだ。
  10年分の事件が津波のようにやってきたみたい。

  そうそう。
  この日記帳をくれた人、私の運命を変えてくれた人
  (たぶんそうだと思う。でもちょっとおおげさかなぁ…)
  の名前がわかった。ようやく聞けた。
  東野雅治っていうらしい。

  とても、不思議な気分。

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 昨夜は近くのデパ地下に立ち寄って、ふたりでたっぷりの食べ物とシャンパンとを買い込んだ。その帰りに、香ばしく甘い香りを道に振りまいていたパン屋にも寄って、焼きたてのパンを買って帰った。
 美香の新しい門出を祝って一ヶ月早いクリスマスだ、などと言う男と、クラッカーを鳴らしてシャンパングラスを触れあわせて、今日という日を祝った。
 シャンパンを含んではサーモンのマリネをフォークで突いていた男に、美香は唐突に聞いてみたくなった。
「ねぇ、あなたの名前って、なんていうの?」
 今までずっと聞きたかったことだ。
 また聞いてもそのたびに「内緒」だの、「兄さんだと思って」だのと冗談交じりにはぐらかされてきたことでもあった。
 そのせいで、この男はひょっとしたらこの世にいない人間なのではないかと妙なことを考えた時もあった。
 こうして手を伸ばせば触れられるところにいるのに、掴んだら消えそうな人。
 でも、こうやってそばにいて、美香の進むべき道を、指し示してくれる。
 幽霊、でもなく。
 幻、でもなく。
 まるで神の使いのような。
 いや、それはちがう。
 今はこうして間違いなく存在する生身を思わせるのだから。
 そう、なにしろ風呂の世話までしたくらいだ。ちゃんと足もついていた。
 でも、なのに、いつかどこかに駆け上がっていってしまいそうな不安を、心のどこかで感じていた。
 以前、美香の客だったことはあるらしいが、肝心の美香の方が覚えてない。 そんな行き違いの記憶もあいまって、なおのこと、この男という人間が正体不明の存在のように思えていた。
 それもこれも、きっと彼の名を知らないからだと思っていたのだが、実際その通りだったらしく、今日の午後の出来事で少し違うものも見えるようになった。
 マエストラのテストの帰り際、門を出たところでみた表札には、「東野」という字が並んでいたのを覚えている。
 帰りの道すがら、男にそのことを聞くと、いくらか躊躇った様子の後、答えてくれた。「花那さんっていうんだ。東野花那」。
 マエストラは、名を東野花那というのだということ。
 そういえばずいぶんと昔に、東野という名を聞いたことがある気がする。
 当時のピアノの先生から聞いたのかもしれなかったし、昔親に連れられて聴きに行ったピアノコンサートで聞いたり見たりした名前かもしれない。それとも雑誌か新聞か何かで見たのだろうか。
 いずれにしろ、覚えのある名前だった。
 一方、男はこうも言った。
『あの人さ。俺のいとこなんだ。親子ぐらいに歳が離れているんだけどさ』
 つまり、かの東野先生の血縁だということだ。
 そう考えると、にわかにこの男の存在が地に着いてきた。
 今まではまるで不思議な力を持った、人間でない存在のように思えることもあった男が、普通に日々を生活している一人の人間に思えてきた。
 やはり、名を知らなかったからだ。
 だから聞いてみたくなった。
 シャンパンのグラスに唇を押し当てたままもごもごと唸っている男に迫った。
「もう名前を聞かせてくれたっていいじゃない」
 男は、不満げに小さく唇を尖らせた。上目遣いに美香を見てきて言った。
「俺としてはさ、いつまでも美香の足長おじさん、いや、足長お兄さんかな。まあ、そんな存在でありたかったんだけど。美香はどうしても俺の名を知りたいって言うんだな」
「うん、悪いって思うけど、知りたい。あなたがどんな人なのか知りたいもの。あなたは私に兄のように思えなんていうけど、兄のことを知らない妹なんていないわよ。もっとも、少しはわかったんだけど。東野先生の親戚なんでしょ?」
 男は、しょうがないなぁ、と呟くと、やけっぱちのようにテリーヌを口の中に放り込んで言った。
「教えたくなかったんだが、こうなったら半ば知られたも同然だしな。ヒントを出してしまったのは俺でもあるし、……わかったよ。俺は東野雅治っていう」
「あずの、まさはる?」
「そう、東に野って書いて、あずの、な。読み方としては珍しい方だと思う」

 訊ねたのは他でもない美香自身だったのだが、改めて初めて名を聞かされて 軽いながらも衝撃を受けた。
 思わず雅治の顔をまじまじと見てしまう。
 今までは名を知らないままに言葉を交わしていた相手が、別の次元から降りてきたような妙な感じだった。
「そんなにじろじろ見なくても……」
 美香のひしと当てた視線に居心地が悪くなったのか、雅治は肩を窄めて身体を退いた。
「だって、なんか不思議なんだもの。雅治さんっていうんだ……」
霞を食べて生きている仙人がこの男の正体なのではなかった、とわかった今、いろんなことが気になってきた。
「で、雅治さんは何をやってる人なの? あ、雅治さんっていう呼び方で大丈夫かしら」
「うん、雅治でいいよ。何をやってる、って?」
「お仕事。ここのところ私のことばっかりで大丈夫なのかなって。今まではなんだか幻の人みたいに思えていたから、お仕事なんて関係のない世界の人なのかなとも思っていたんだけど」
 正直な印象を告げると、雅治は笑って大袈裟に溜息をついて見せた。
「これからもずっとそういう風に思っていて欲しかったんだけどな。残念ながら、働け働けの世界に生きてるよ。ただ、今は休みなんだ」
「休み? 休職中?」
「まあね。長期休暇中、というか。そんなところだ」
 休職、と聞いて、病気でもしているのだろうかと雅治の身体を改めて見てみたが、体格もいいし、第一、この数日、非常なバイタリティで動き回っている。不健康そうにはとても見えない。
 なんの理由があって休暇中なのだろうか。それにいつまで?
 それとも休暇中の理由は聞かない方がいいのだろうか。
 そんなことを考えていると、先手を打つように雅治が言った。
「あ、もちろん、この休暇には期限があるよ? 期限は一年だ」
「一年? 一年……あ。だから?」
「そう。だから、美香に一年で頑張れなんていう無茶を言ったんだな。けど、これでちょっとはわかってもらえたかな」
 そういうことか、この男は休暇中の気まぐれに、いや、気まぐれと言っては失礼なのかもしれないし、実際本気ではあるのかもしれないが、美香の面倒をみてくれるつもりらしい。
 では、休暇が終わったら? やはり仕事に戻るということだろうか。そうしたら、この今始まった日々はどうなるのだろう。
「ね、仕事って何?」
 遠くに、たとえば海外などに行ってしまうような仕事なのだろうか。
「うん?」
 ああ、と濁すように雅治は言った。
「医者、だったんだ」
 この男は、いや、雅治は、医者だったのか。だが、今の言い方は少しおかしかった。
「お医者さん。……だった?」
 言いづらそうに言うその口調が気になった。
「だった」と言ったのにもひっかかった。
 雅治は少し笑って言った。
「ほら、長期休職中だからね? 医者だ、じゃなくて、だった、なんだ」
 笑ってはいるが、何か痛みを堪えているようなそんな口ぶりだった。
「でも、長期休暇っていうのが終わったらまたお仕事に戻るんでしょ?」
「うん……まあ、そうなるね」
 だとしたら、「だった」はおかしい。そんな辞めたような言い方は。
 美香のそんな疑問が聞こえたかのように、雅治は顔を上げて言った。
「まあ、俺としても考えていることがあってさ。でも、迷っている、じゃなくて、答えは出ているんだ。だから、俺のことはいいよ。それよりも、だからこそこの一年間は美香の革命のサポートをするって俺は決めたんだからな。こっちの方が大いに課題が山積みだ。美香の明日からのことを話したほうが有益だよ。君にとっても、俺にとっても」
 だから、この話はやめよう、ということらしかった。
 きっとあまり言いたくはないことなのだ。これ以上追及するのはやめることにした。
 今までも――もっとも、短い間でのことだが――割と強引に聞き出そうとしたことはある。ストレートにぶつけた質問もたびたびあった。その都度、この男は答えられることならば答えてくれたし、その時答えられないと判断したことは答えなかった、のだと思う。だけど、いつかは話してくれる。話してくれる時が来るだろうと思った。



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   11月23日(月)

  ひええ! 
  グランドピアノが来た!
  雅治さんが言っていたけど、
  ほんとにほんとに来るとは思わなかった!
  でも、すごくきれい。
  それに、いい音。
  今から弾いてもいいかな。弾きたいな。
  でも、だめだろうなぁ。夜中はだめだー。

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   11月25日(水)

  びっくり。
  ここのところびっくりつづきだけど、
  慣れないびっくりってあるんだなぁ。
  一昨日に夜はピアノ弾けないねって何となく言ったら、
  雅治さんが防音ユニットを入れようって言いだした。
  昼の間に弾くから大丈夫って言ったんだけど。
  どうしよう、今日工事の人がくるって。
  ほんとにいいのかな?
  こんなのでほんとにいいのかな。

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   11月28日(土)

  来週からとうとうレッスンがはじまる。
  はじまっちゃうんだ。
  防音ユニットが入ったから、近所迷惑になる心配もなく
  24時間ピアノが弾けるようになった。
  来週のちょうど今頃に、東野先生に見ていただくんだ。
  そう考えたら、どうしよう、ドキドキする。
  この2週間何してたの!って怒られないかな。

  全然指が動かないから、まずは、ハノン。
  それから、ツェルニーをやろう。
  そういえば、ベートーベンのソナタで好きなのがあった。
  課題もベートベンのソナタだし、ついでだから一緒に練習しようかな。
  うーん、だめか。課題を優先させなきゃ…。

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   12月4日(金)

  明日はついに初レッスン。
  ここのところ寝不足。
  お昼にすこし眠ったら、
  夢の中でもピアノを弾いてて、
  東野先生に叱られた。

  ゆうべは眠れなかった。
  今夜もきっと、もっと眠れない。

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 その日は寒く、朝から曇りだった。
 冬の曇り空らしく、空全体が白んで見える。
 やがてはあの高みから、灰色の小さな影がくるくるとまわりながら舞い降りてくるのだろう。
 曇り空は午後になっても変わらなかった。
 バッグも持った。楽譜を詰めたブリーフケースも持った。
「美香、顔が強ばってる」
 玄関で持ち物チェックをしていると、そこに立っていた雅治が面白そうに笑って美香を見ていた。その微笑みの四分の一ぐらいには、同情するような色も見えたわけだが。
「そりゃ強ばりもするわよ。あと、1時間半はあるから、遅刻はしないはずだけど。あああ、どうしよう、トチったらどうしよう!」
「今日も昨日も一昨日も、暗い時間から起きてあんなに練習していたじゃないか。きっと大丈夫だよ」
「そんな簡単に大丈夫っていうけど! 弟子にするっていったのは取り消しますって言われたら、私どうしたらいいのよっ。……ん? 雅治さん、私が朝起きていたの、知ってたの?」
「知っているも何も。早朝に起きていたのも知っているし、夜中に何度も起きては練習しに寝室とレッスン室を行ったり来たりしていたのも知ってるよ。なぁ、美香。なんていうか、ちょっと神経質になっていないかな。もっと気持ちを楽にしてやってもいいと思うよ」
 神経質、という言葉を聞いてかっと頬に血が上がった。
「誰も神経質になんかなってないわよ。あんな先生のところにレッスンに行くって考えたら、普通のことよ」
 そう言いながらも、雅治の言っている事がだいたい図星なのはわかっていた。
 昨夜は本当に眠れなかった。
 ベッドに入っていても、あの小節を弾くときの左手の動きは、もう少し間を持たせても良かったんじゃないか、とか、途中のアルペジオをもう少し華やかに鳴らした方が良かっただとか、自分の演奏を思い出せば思い出すほど目が冴えて、いてもたってもいられなくなる。
 それに、もっと一音一音の粒をはっきりとさせたかった。意識していてもなかなかそうできない理由はわかっていた。長年弾いていなかったせいで、指の力が衰えているからだ。そう簡単には自在に指を操れる筋力は戻ってこない。
だから、せめて意識することでカバーしたかった。なのに、それすら思い通りにならない。
 寝室の暗がりの中で目を開けていると、頭の中でさきほどまで聞いていた曲がまわりはじめた。ああ、そうじゃない、そうじゃなくて、もっと……!
 布団を蹴立てて、ベッドから抜け出す。
 雅治が休んでいる隣の部屋の前を通るときだけはそっと爪先立ちで歩いて、それからレッスン室に閉じこもる。思い通りにいかなかったところを気が済むまで弾いて、寝室に戻る。これできっと大丈夫だと思って目を瞑っても、また別の不安が湧いてきて、結局レッスン室に走ることになるのだ。それを夜中に何度くりかえしたことだろう。
 たしかに、あれだけ廊下を行ったり来たりしてピアノを弾いていれば同居人の知るところになるのは当然だったかもしれない。
「私、神経質に、なってる、のかな」
 そう呟くと、雅治が近付いてきて、肩に手を置いた。
「プレッシャーのせいだろう? 気持ちはわかる気がするよ。だけど、もう少し力を抜いてもいいと思う。美香はさ、もっとあの人を信じていい。あの人はそこまで懐の狭い人じゃないよ。ものの言い方はキツいけどさ。君のこれまでの経緯を詳しく知らなくたって、きっと現状はわかってる。と、思う」
 本当にそうなのだろうか。そう思っていいのだろうか。
 すがるように雅治を見上げると、そこには少し困ったような笑みがあった。
「俺はあの人じゃないからさ、きっぱりそうだって断言はできないんだけどな。……でも、美香には、信じてもらいたいと思った。あの人のこともだし、君自身のことも。そんなふうに焦らなくてもいいと思う。今できるかぎりのことをして見せればいいと思うよ」
 ふっと腹から息が抜けた。
 ひょっとすると緊張の余り、今までほとんど息を吸い続けていたのかもしれない。
 ようやく吐くことを思い出したような胸で深く息を吸って、吐いた。
 雅治の手の温かみが伝わってくるところから、肩をいからせていた力が少しだけ抜けていったように感じた。
「ありがとう。……そうだね、根を詰めすぎたら後が続かないしね。できるだけ、うん、できるだけで頑張ってみる。ありがと」
 ブリーフケースとバッグを持ち直して、ドアを開ける。
 風は冷たい。
 コートの襟を立てて、駅へと歩きだした。



 レッスンがはじまる十四時の三十分前に花那の家についた。
 今日は一人だ。雅治が印を付けてくれた地図も持ってはいたが、道順は覚えていた。
 あまりに早く門を叩いても迷惑がかかるだろうと外で十五分待つ。待っている間はブリーフケースの楽譜を出して、暗譜した曲を頭の中で攫った。指がとくに動きにくかったところを腿の上でそら弾きする。
 庭先に堂々と植わっているシマトネリコの大樹から、たくさんのスズメが飛んでいった。
 時計見ると、ちょうど十五分前を切ったところだった。
 意を決して門を潜る。
 先日も辿った敷石を踏んで、玄関の前に立った。
 表札にはこの間見たのと同じに、「東野」とある。
 ごくり、と喉元がなった。
 前回の時に、言うなれば怖い思いをしたからという、そればかりではない。ここには間違いなくぴんと張り詰めた空気がある。威風がある。
 それは、一つのことを極めた人物の持つ空気。そういうものに近く思われた。
 待っている間にかじかんだ指でチャイムを押す。家の中で鳴るメロディが引き戸越しに聞こえた。
 ほんの少しの静けさのあと、はい、という低めの女性の声が聞こえた。
 ガラスの向こう側に動く影が近付いてきて、戸が開かれた。
 今日は黒いロングワンピースに同じ色のカーディガンを羽織った恰好で、東野花那がそこに立っていた。
「あ、こんにちは。えっと、その、先生、よろしくお願いいたします」
 深く頭下げてから見ると、片方の眉を少し上げて口の端で笑った東野花那は、靴入れボードの上の置き時計へと目を向けた。
「時間はぴったりね。おはいんなさい」
 促されるままに、玄関へと入り、靴を脱ぐ。
 小さくおじゃまします、と呟いて廊下に上がった。
 二週間前の緊張が一気に蘇った。あの時も怖かったが、少なくともあの時はマエストラと呼ばれたこの人がどういう人であるのかを知らなかった。
 でも、今は知っている。知ることで怖くなるということの方が世の中にはごまんとあると美香は思う。
「このニ週間、猛特訓したんでしょ?」
「え、は、はい……猛特訓」
 そう聞かれてとっさに「はい」と答えてしまったが、この人にとっての猛特訓の基準を考えると、自分の二週間の練習の仕方が猛特訓といえるのかすこぶる怪しい。言った後に自分でも首を捻ってしまった。
 だが、現に手首は、手の甲は、日頃使わない筋肉や腱を酷使していることで痛みが止まらない。先生のピアノを傷めてはいけないので取ったが家を出るまでは湿布を貼っていた。筋肉や腱を故障させては元も子もないとわかっている。しかし、一年という期限が切られている以上、ある程度の無理は仕方がない。
 それでもなお猛特訓の基準について悩んでいると、花那は含むように喉で笑った。
「先にレッスン室に入って準備しておいてちょうだい。十分後にはじめるわ」
 廊下の先のレッスン室のあるあたりを見た。
 ドアが開かれているのか、窓からの明かりと思しい白い光が廊下にまで流れ出ていた。
 前回は試験だった。
 今日は初めてのレッスンだ。
 二週間前の緊張とオーバーラップして否が応にも動悸が速くなる。
 雅治は言っていた。
 あの人のことをもっと信じていい、と。
 そして、美香自身のことももっと信じた方がいい、と。
(でもね、雅治さん。いつも思うことなのだけれど、それってすごく難しい。どちらも見えないものだから。心は見えないものだから。人を信じるのも、自分を信じるのも、なんて難しいことなんだろう)
 動悸を押さえるべく胸に手を当て、開かれたドアのあるレッスン室へと美香は向かった。




<つづく>
PCシチュエーションノベル(グループ3) -
工藤彼方 クリエイターズルームへ
東京怪談
2011年02月01日

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