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『ここは『私』の。 』
千獣3087)&(登場しない)

 ――…噛み付き、思い切り食い締めたのに牙が確り食い込んだ気がしない。攻撃自体は届くが効いている気がしない。びりびりと周辺の空気を揺らす『敵』の咆哮で耳が痛い。全然悲鳴なんかじゃない、猛々しい咆哮。まるで鼓膜を破る勢い。その次、殆ど同時に風圧が後頭部に届く――届き掛ける。風圧の来始めごくごく微かな感触、その時点で危機と察した己の身は反射的に飛び退って逃げている。…『敵』の攻撃。噛み千切れなかった。噛み千切る筈だったのに。…放した顎の牙の感触。今、傷の一つすら負わせられた気がしない。
 相手の攻撃を空振らせ、飛び退った先――殆ど地べたに張り付いた低い体勢のまま、再度構えて『敵』を威嚇する姿。己の牙と牙、上下噛み合わせた歯の合間から漏れる空気が威嚇の唸りになる。唸りの音、その声質にはやや違和感。…ここは獣のみならず魔も巣食う森の中、そこに棲まうその体格の獣にしては、低過ぎるとも高過ぎるとも言える、微妙な音域。
 己の縄張りを侵そうと襲い来る『敵』を威嚇する、正体不明のその『獣』。長く背に流されている黒い鬣。鋭く硬い牙を持つ顎に、鋭い爪を具え力強いバネを持つ太い四肢。ただ、全体としてどうにも不自然な点がある――四肢それぞれの長さが太さが造りが何故か極端に違う。まるで、複数種の獣を組み合わせたような不自然さ――そう見たならば、黒い鬣については長く伸ばした人間の黒髪のようにも見える。

 そして、一部でも『人間』と言う認識が持てたのならば。

 その『獣』の『姿』は『人間』の――それも、まだ幼い『少女』がベースになっているようだとも、気付けるかもしれない。『少女』の肉体のあちこちに、無理矢理取って付けたように様々な『獣』のパーツが付いている――両手両足の代わりのように『獣』の四肢が生えている。時折その『獣』の部分がブレたように震え揺らめき――微妙にだが形を変えている事がある。力を蓄えた筋肉の震え、それだけではなくて、何か、もっと異質な動き。意図した動きでも力を籠めたからこその動きでもなくて、もっと、唐突な。例えるなら――抑え切れない何かが不意に顔を覗かせた、そんな感じの動き。震えどころか、ぼこりと禍々しさを思わせる『何か』が膨らむような事さえある。
 けれど『少女』当人はその事自体には動じていない。…彼女が今意識しているのは己の縄張りを侵しつつある目の前の『敵』の事だけ。それ以上の事は――それ以上の己が身の『制御』は『常からしている事』だから、わざわざ今改めて意識するまでもない事。…『少女』の体内には千からの獣が宿っている。これまでの生の中、身一つで生き抜く為に喰らい、その力を取り込んで来た数多の獣――ただ獣だけではなく、魔獣や幻獣と呼ばれるようなモノまでその中には含まれる。…それらすべてが今もなお『少女』の体内で暴れ狂っている。…戦う時だけではなく休む時だってそれは変わらない。
 いつの間にか身に付けていたこの『力』。自覚などしていない段階でもうこの『制御』は本能レベルで続けている――そうしなければそもそもこの『力』を行使するどころか『少女』と言う個としてこれまで生きて来れていない。…勿論完全に制御なんてし切れていない。気を抜けばすぐに体内に居る別の獣が顔を出し、身体を奪おうと試みる。それでも何とかぎりぎりの線で、『少女』は『少女』として生きて来れていた。
 …とは言え、勿論『人間らしさ』などとは全く無縁の中で。そもそもが赤子の頃魔性の森に捨てられ獣に育てられた『狼少女』である。持つ常識と言えば自分を育てた『親兄妹』の――『魔狼』のそれ。だからこその、今のこの姿。縄張りを脅かされるとなれば退く訳には行かない。己が生きる為に必要ならば『少女』はいつでも誰にでも牙を剥く。
 今己が狙ったのとは別の場所。牙が突き立つ部位、『敵』の弱点になり得る何か。何処かにある筈と威嚇しつつも探る中――再び鋭い風圧。背筋がぞっとするような感覚を伴い、『少女』を押し潰す勢いで襲い来る――その時振るわれていたのが『敵』の上腕だと事後になって気付く。振るわれているその最中では黒い残像を引き摺る軌道にしか見えない――そのくらい速く風を切り裂いている獣の真っ黒な前肢。己の感覚に従い身を捻り、紙一重で躱し切る――躱し切れない。少し掠る――微かな、けれど鋭い熱が白い肌――唐突な程真っ白な、無毛の人間らしい柔肌を晒している部位に疾っている。少し遅れて続く痛み。…大した傷じゃない。食らった時点でもうそう判断出来ている――この程度の傷に構っていたらすぐにやられてしまう。…だからその傷は無視する――どうせその内治る。
『少女』は身を捻っての躱し様、力強く獣の後肢で地を蹴り再度『敵』へ躍りかかり牙を剥く――『敵』は攻撃の腕をまだ引き戻してもいない段階。僅かな間、その瞬間の隙を衝く。前肢の脇。この部位はまだ試していない――大抵の獣なら柔い上に効果がある可能性が高い。
 …カウンター。『少女』の取るべき手段としてそのくらいしか可能性が見出せない。真正面からぶつかって勝てる相手だとは思えない。絶対的に不利な相手。…それでも退けない。先程も今も『少女』が『敵』に突き立てようとしている牙――顎として行使していた獣より強い牙を持つ獣は今の『少女』の中には居ない。
 ならば『敵』を傷付けられる――退けられる術。あるかどうかと考えれば――今行使しているこのままの顎で牙が突き立つ部位があればそれでいい。ただ噛み付くだけでは難しくとも、勢いや回転の力でも加えれば何とかなるのなら。もしくは――また別の己の中に居る獣の力を行使して火や毒の息を吐き付ける。そんな選択肢も見付かる事は見付かる。…火や毒の息。そんな力を持つ幻獣も『少女』の中には居る。居るが――この『敵』に対してそれがどれ程の効果を持つかは言い切れない。…まだ試していない。それらに耐性がある敵の可能性もある。もしそうだったら無意味どころか行使した時点で隙になってしまう可能性すらもある。使うのならば使い所を選ばなければならない――その使い所を作る為にはやはり牙と爪を用いるのが第一。
 牙と爪ならばどんな相手であっても一番効く可能性が高い物理手段。何をするにも、物理攻撃が完全に無効な獣はまず居ない。こちらの膂力不足で殆ど無効になってしまう場合もあるが、工夫すれば何とかなるかもしれないそれなりの手応えは――どれ程強大な『敵』であってもだいたいあるもので。今だってそう。ただ噛み付いただけでは牙が突き立たないが、後少しどうにかすれば何とかなりそうな、そんな手応えは取り敢えずある。…ならばそこに活路を見出すしかない。
 出来る事は何でもやってみる。やっと手に入れた己の縄張り。その縄張りを守る為、出来る事のすべてを――全力を尽くすのは当たり前。

 今は『少女』は独りで生き抜いて行くしかないから。

 もう、誰にも甘えられない。『少女』を護ってくれていた他者は――今はもう誰も居ないのだから。『母』も『兄弟獣』も。疾うに死に別れて久しい。今はたった独り。だから自分で、自分を守らなければならない。
 身を捻り、思い切り回転の力を加えて食らい付く――『敵』の前肢の脇、先程牙が立たなかったのとは別の部位、幾らか柔かろうとみたそこに、今度こそやっと牙が突き立つ。けれど同時に己の身体ごと持って行かれる――『少女』を引き剥がそうとする『敵』の胴震いが起こる。その振動に応じて『少女』の顔にぼたぼたと『敵』の血がより多く滴り落ちる――効いていると思うのと同時にここで顎を放したら終わりだとも『少女』は思う。
 この体勢で引き剥がされたらまともに着地が出来ない。すぐに構えに転じられない。対して『敵』の方は――もし『少女』が一度離れさえすれば簡単、そのまま単に態勢を崩しただけでも『少女』の身を押し潰してしまうだろう形。離れたならどうとでも出来る――だからこそそう狙っての胴震い。
 逆を言うなら『少女』の身を離せなければ如何ともし難い。『少女』が付け根辺りに牙を突き立てている側と逆の前肢ならばこの体勢でも『少女』の身に届くが、それでは然程力が入らない。勿論それでも『敵』が元々持ち合わせている膂力がある以上、『少女』への攻撃は出来る。けれどそれまでの『敵』の攻撃とは段違いに弱い攻撃になる。『少女』の身も傷付けられはするが――身体のあちこちに灼熱と痛みを感じはするが、どれも致命的な負傷にはなっていない。わかっているから『少女』は牙を突き立てたまま顎を思い切り食い締める。どくどくと脈打つ感覚まで顎に直に感じる。己が身を伝う『敵』の血も増えている。己が負傷しての血と『敵』の脇から溢れている血くらい区別は付く。我慢比べ。このまま離れなければ――勝てる。なら、負けない。

 負けたら、喰われるだけ。
 勝つのは、自分。

 ………………『少女』は――『千獣』は決して顎を離さない。

 それからどのくらい経ったのか、『敵』の動きが鈍くなる。それまでの動きと比較して不自然なくらいの差。まるで唐突にスローモーションに切り替わったような――そんな、重い動きになる。そんな気がした直後、不意に前肢の攻撃が来なくなった。それから――寄り掛かられるようにして、『敵』の巨体が――。
 己が身の上に落ちて来る。
 逃げられない。

 それでも千獣は食い締めた顎を離さなかった。



 …多分、それ程時間は経っていない。顎を離さないまま押し潰された。そう思った。けれどそれっきり『敵』は全然動かなくて。自分の顔が頭が熱くて――まだ湯気が立っている程新鮮な、流れ出たばかりの血を大量に頭から被ったようになっている事に気が付いて。それが殆どすべて『敵』の血である事にも気が付いた。それからやっと、恐る恐る顎を離し牙を抜く。出血は、牙を抜いたそこから。…何とか食い付いた前肢の脇、千獣は己の中に居る大顎を持つ獣の力を行使し、動脈を噛み切って敵を失血死させられた、と言う事になるらしい。
 はぁ、と息を吐く。

 倒せた。
 やっと。

 けれど。
 …自分の上にある倒した『敵』の屍が重くて、動けない。少し考え、千獣は己が身の内に居る一番巨体を誇る獣の力を行使する――それですぐさま屍の下から抜けられた。抜けてすぐ、腕でおもむろに『敵』の鮮血に塗れた顔を拭う――汚れているからと言うより前がよく見えないから。己が身に付けられた傷。まだどうしようもなく残っていて痛みもあるが、これもまたその内治る。
 顔を拭って視界が戻ったそれから、千獣は改めて己が倒した『敵』を何の感慨もなく見下ろす。退けられたなら――絶命させられたならそれで良い。侵入して来たのがどんな強者であっても譲れない。

 ………………ここは『私』の、縄張りだ。

【了】
PCシチュエーションノベル(シングル) -
深海残月 クリエイターズルームへ
聖獣界ソーン
2011年05月12日

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