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『ホットミルク 』
海原・みなも1252)&(登場しない)



 ――浅い眠りを繰り返している内に朝が来た。
 目覚ましを止めてムクリと起きたあたしは、深く呼吸をした。
 ――長い夢を見ていた気分だった。
(だって天使病なんて、おとぎ話みたいなんだもの)
 身体の内部から突き上げてくる羽の群れの感触ですら、時を隔ててしまえば遠く感じる。
 けれど。
 肩の小さな膨らみから肘の窪みまで指でなぞって、あたしはため息をついた。
(……夢じゃないから、困っちゃう)
 凹凸のある、およそ人間の肌とは思えない感触。
 薄い肌は少しの刺激で破れ、羽が表へ溢れてきてしまう。
 この皮膚自体が天使病に冒されて形成されたものだから、破れても痛みはないけれど。
 でも、羽が内側から肌に小さな穴を空けて芽吹いて来るというのは、後に変な気持ちを残していく。
 それは微量な電気が神経を通っていくような感触で――、まるで水浴びをした鳥のように羽を震わせたくなるようなものなのだ。

 嗚呼、もう何だか。
 嗚呼、もう何だか。

 もういい、こんな日は学校をお休みしよう――と思えたら良いのだけど。
 色々な事情で突発的に学校を休むことになる自分の生活を省みれば、前期の内に一日でも多く出席日数が欲しい。
(ああ、でも……どうしよう?)
 時計とにらめっこしながら悩んだものの、結局は登校することに決めた。
(ほら、前に天使病に感染したときも学校に行ったけど、大丈夫だったもの……!)
 と、あたしは自分を励ました。
 実際は包帯でぐるぐる巻きにした身体で登校したのだから、大丈夫と言うには無理があるけれど……。出席日数のことを考えたら、無理やりでも「大丈夫」な状態にするしかないのだ。

 汗が凄くなりそうだったし、前回のときには随分友達に心配されてしまったから、包帯で怪我を装うのはやめた。天使病の症状の進行はある程度自制出来るのだから、もっとシンプルにいこう。
 あたしはパジャマを脱いで、部屋の鏡の前に立った。
 まずは深呼吸を二回。目を瞑って。
 ケリュケイオンの力を借りながら、ゆっくりと羽を皮膚の中へ織り込んでいく。
 ――それから目を開けて。
 肌を露わにしているあたしが映る。
 幾分透けた肌の下では、雪のように白い羽が微笑んでいた。
(これを隠さないとね……)
 こういうときは“生きている服”が役に立つ。
 これをあたしの肌に擬態させるのだ。例えるなら、傷ついたテーブルの上へ極め細やかな絹のテーブルクロスを広げるように――見られたくないものは覆って隠してしまえば良い訳だ。
 ただし匙加減が難しい。
 太陽の光を浴びたときや、蛍光灯の青白い光に照らされたときの肌の色合いや透明度、触ったときの滑らかさ、細やかさ……。あまりに大雑把では人間の肌でなくなるし、かと言って象牙のような肌になってもおかしい。
 まずは白く不透明な肌を作ってあたしの身体を覆い、それを徐々に変えていくことにした。透明度を上げ、色を血の通った人間のものへと。
 陽の光を混ぜたような白い肌の完成に、あたしは心の中で吐息を漏らした。朝も感じていた、遠い夢を見ているような気がした――、


 その甘い吐息は、外に出てすぐに焦燥を帯びたものへと変わった。
 天気が不安定な最近では、この前のお天気雨が嘘のように暑かった。アスファルトは熱い息を放ち、あたしのスカートを汗で湿らせた。
 背中もじんわりと汗をかき始めてきたが、するとそこが痒くなってきた。
 内部から“何か”でつつかれているような感触で――、冷や汗が首筋から滴り落ちた。
(羽が芽吹こうとしているの?! 汗の刺激のせいで?)
 すぐに対応しようにも、目の前が歪んでくる程に熱い。心が乱れてしまいそうなくらいに。
(何とかしなくちゃ……)
 あたしはなるべく身体を刺激しないように、しかし速く、早歩きで学校へ向かった。

 高めの温度設定とはいえ、冷房の入った校内は涼しくて、汗も引いた。
 気持ちも落ち着いたせいか、あたしは壁にそっと手を添えて、深く呼吸をしただけで事を終えることが出来た。
 授業が始まってしまえば、羽のことも忘れられた。
 決して成績が上位とは言えないあたしにとって、授業中に他のことを考える余裕なんてなかった。テスト前のこの時期だからこそ、学校を休まずに来たのだから。
 先生が板書することをノートに写して、重要そうなところにはオレンジ色の細いボールペンで花を描いた。
 解けない問題もあって気持ちが暗くなりそうだったけど、解決のポイントを書いたポストイットの色が偶然今日の天気と同じ空色で、そんな些細なことに救われた。
(……焦ったって仕方ないよね)
 家に帰ったらノートを開こう。あくまで気楽に、問題を解いてみよう。
 そう思った。

 それなのに、

 不安を晴らしてくれたのが空色の文房具なら、あたしを暗く突き落とすのは現実の空の色だった。
 ううん、原因は水だ。
 授業が終わって家に帰ろうとすると、雨が降っていたのだ。
(こんな日に雨が降らなくったって、いいじゃない……)
 朝は晴れていたせいで、傘は持ってきていない。
 学校がいくつか用意している置き傘は全て貸出中になっていた。同じように傘を持って来なかった人が多いのだろう。
(仕方ないかあ。濡れて帰るしかないよね……)
 諦めて走り出し、校門をくぐる頃になって、あたしは大きな間違いを犯したことに気がついた。

 忘れていたのだ。水に触れると人魚の力を活性化させてしまうということに。
 本能が理性を超えることだってあるということに。

 背中から羽の群れが現れてきた。
 それはいとも簡単に擬態させていた肌を突き抜けてしまっていって、あたしの心に小さな芽生えを残していった。
 ――心地良さという、芽生えを。
 今や、羽はあたしの皮膚を土として、花のように咲き誇り始めていた。雨を滴らせた羽はますます息づき、雨を吸いこんでも小さく萎みはしなかった。
 それどころか、膨れ上がるようだった。
 羽はその繊細そうな先端まで己を力強く広げ、弓のようにしなった。雨は力強くアスファルトを叩き、あたしの髪も、肩も、靴のかかとも激しく打っていた。
 目の中に入りそうになる雨を手の甲で払いながら、あたしは走った。走って、走って、心臓がおかしくなりそうなくらい脈打っていた。

 ――大丈夫、誰にも見られてなかった!
 ――大丈夫、誰にも見られてなんかなかった!
 ――確かに誰もいなかった!
 大丈夫! 大丈夫! 大丈夫! 大丈夫……。

 学校の敷地内に戻って、近くの倉庫の中へと滑り込んだ。
 ここは運動会の道具から文化部の道具まで置いてある所で、今の中途半端な時間には誰も来ない筈だった。
(それに、ここには演劇部の道具もある。いざとなったら……)
 早鐘のように鳴り響く心臓に逆らうために、あたしは急いで考えた。いざとなったら、演劇部の新しい小道具が届いたことにすればいい。その試着だと言おう。だけど恥ずかしい気がしたから、誰にも見せたくなくてここで確認しようと思った――そう説明しよう。だからこんな暗い倉庫に一人でいたのだと。あたしは演劇部にも入っているのだから、不自然ではない筈だ。
(大丈夫、大丈夫……)
 呪文のように同じ言葉を繰り返していたら、やがて乱れた羽も落ち着いてきた。
 今、嘘のように不安感は消えていた。
 後に残るのは――、

 一つの空想。

 まるで絵画を眺めているような気分だった。
 それは遠い遠い夢物語を絵にしたもので、深海を泳ぐ少女たちが描かれているのだった。
 碧い視界を俊敏そうに泳ぐ――、人魚の姿をした少女の背中には翼があるのだ。
 その翼は天使のように横に広がりを見せたものではなく、少女を包み込むように半円を描いている。羽は少女を守る盾であり、一目で少女を異質にする鎖であるようにも思える。
 そして一人の少女は、その半円状の翼を広げて他者を抱え込んでいた。抱きしめているようにも、慈愛深く癒しているようにも、ただ相手の哀しみを受け入れているようにも見えた。
 混沌とした、意味のわからない絵の中で、一つ確かなことがあった。
 ――この絵はあたしの心を掻き立てる。

 暗い倉庫の中で一人きり。あたしは指先を自分の羽に這わせた。
 今、自分の羽の形がどうなっているのかを知りたかったから。
 手探りで羽の先から根元へ指を滑らせていくと――胸が高鳴った。

 何処からともなく、甘い匂いがあたしを包み込み始めていた。



終。

PCシチュエーションノベル(シングル) -
佐野麻雪 クリエイターズルームへ
東京怪談
2011年08月11日

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