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『昏冥の丘 』
深沢・美香6855)&エーヴィッヒ・クヴァール(NPC5331)


 美香を見上げて、帰り支度をしていた同僚が不満そうに言った。
「ほんとに行かないのぉ?」
「うん、ごめんね。ちょっと、用があって」
 むろんそれは嘘だったが、相手も相手でそのあたりは察していると見えた。ショルダーバッグのストラップを乱暴に引き掴むと、
「あっそ。美紀っていつも用事あるもんだもんね。じゃ、あがりまぁーす」
 誘ったのが癪だとばかり、無遠慮な物言いをして、大股に店を出て行った。
 店の扉の開いて閉じる音がした少しあと、美香の足元に表からの夜風が音もなく流れてきて絡みついた。とうに麻痺していた嗅覚がにわかに蘇って、煙草と香水の混ざり合った匂いが澱む店に、たった今自分はいるのだということを美香に思い出させた。
 もうひとり、隣のソファで気怠げに一服をしていた泣きボクロの同僚が――この店では最も年増で世話係のような立場の女だったのだが――、いつも一日の〆には欠かさない煙草を灰皿に押しつけて、口の端で笑った。
「あんな態度でもさ、あんたが遊んでくれないって一応傷ついてんのよ。ンま、今日のとこはいいんじゃないの? なんかここんとこ物騒だし……。断ったんなら早く帰んなよ。あたしも帰ろ」
 あんたもタクシー呼ぶ?と尋ねてきた泣きボクロの彼女に、美香は曖昧に頷いた。
「なんだっけ? さっきオーナーが帰ってく時に言ってたわよ。また変死事件があったって。隣の区だったか、二つ隣の区だったか……結構近いぞ気味悪ィって、あの腰抜け、逃げるように帰ってってさぁ。ねぇ?」
 彼女が背もたれから頭を反らせて仰ぐように振り返ると、後ろで戸締まり用の鍵を弄っていた用心棒兼の若い男が、ああ、と唸った。
「最近警察がやたら多いッスよ。俺も今日なんか、あっちこっちで路地を嗅ぎ回らされてるシェパード、何頭も見ちまったし。流しのタクシーも夜は減ってる感じだし。テレビなんかじゃ都市伝説と絡めた眉唾っていうか、半分ネタって感じに取り上げられてますけどね。ヤツらの、俺らには目もくれないような目の血走らせ方を見てると、どうだか……。案外とマジでヤバい話かもしれませんよ。ネエさんも、美紀ちゃんも気ィつけて」
 ほらね、とでも言いたげな様子で泣きボクロの女が美香を見た。



 結局、「どうせ呼ぶのは一度なんだから一緒に2台呼んだげる」と言った彼女の言葉は果たされなかった。
 彼女が電話をかけたタクシー会社がことごとく、「ちょうど出払っている」、「お客さんとこの近くにいる車がない」などという理由で断り、彼女自身、用心棒の車で送って貰うことになってしまったからだ。
 せめて途中まで一緒にと、キツいメイクには似合わずに再三心配そうに言う彼女を振り切って、美香はひとり外に出た。
 客の面影と、化粧と香水と人工的な香料の匂いを、今夜はさっさと忘れてしまいたかった。仕事の名残を感じるものをすべて振り払ってしまいたかった。今夜は特に。
 彼らが言うように流しのタクシーが捕まらないのなら、24時間営業のファストフード店かどこかで朝までの時間を過ごせばいい。幸い、明日一日はオフだから、徹夜疲れを心配する必要もない。そう思って、今や見慣れすぎた道を歩きだした。
 歩き出して間もなく、外がやけに明るいことに気付いた。いや、やけに暗くもあった。普段ならばまだ灯りがついているはずの店々の窓も今夜は揃って塗り潰したように黒い。どうやら今夜は早々に店を閉めたらしい。仕事中はろくに窓もない建物の中で過ごしているのだから、店の外の動向などわかるはずもなかったのだが、まさかこれほどのことになっているとは思わなかった。用心棒たちの言っていた言葉が脳裏に蘇った。途中まで送っていってあげると言っていた彼女の言うことを素直に聞いておくべきだったのかもしれない。いつになく重たげな夜に塗り込められた不夜城は、不気味な静けさの中に沈んでいた。
 見慣れた街の見慣れない様相に、チリ、とした、胸騒ぎのような不安が胸元を過ぎった。
(店に戻ろうか……。今ならまだ間に合うかもしれない。)
 見ると、凸凹とひしめく雑居ビルの暗く青ざめた影に切り取られて、夜空はあった。天を覆う闇は不思議に明るい青みを帯びていた。深い海を思わせるような群青の底に、ざわめく光を孕んでいた。暁の光とはまったく類を異にする何かが昇り来るようなざわめきに、夜空が満ちているように思えた。
 そんな夜空を魅入られたように見上げていると、吸い込まれそうに深く深い青が次第に白んで、ビルの高い影から眩しく輝く白が現れた。
 完全円の異様に大きな月が、呆然と仰ぐ美香を見下ろしていた。
 ざっと全身が総毛立つのを美香は感じた。
 周りの光景から浮き出して見えるほどに、鋭く鮮烈で容赦ない光を放っている月が、自己の意志を持っている何者かに思えた。
 怖い。
 あたりを隈無く照らす月から逃げだそうとは何とも子どもっぽい、と、自分の思考を笑うこともできなかった。それほどに、怖いと感じていた。足が自然と店に向かって走り出していた。戻ろう。そしてあの人たちに送ってもらおう。いや、もう誰もいなかったらどうしよう? それなら、それならば店で一晩明かすことにしよう。今はほんの少しの間も外にいたくない。ああ、でも、そうだ、店の鍵が閉まっていたら――。
 もつれる足を必死に走らせて、店のあるあたりへと目を凝らしていた美香が、店の中に入れなかったどうするのか、という懸念にはっと思い当たった時、唐突に目の前が暗くなった。
 悲鳴を上げる余裕も無かった。息を呑むだけが精一杯だった。
 氷のように冷たい塊に体当たりした、と思った。反射的に突き飛ばし、跳び退ったつもりでアスファルトの上に尻餅をついていた。
 暗色の長い外套を羽織った岩塊のような大男が、満月の、冴え冴えと青白い溢れる光を浴びてそこに立っていた。
 巨躯の上には、月の光そのもののような白銀の髪を流した、石のように冷たく見える顔があった。厳めしい顔のただ中に憤怒を刻んだような暗赤色の双眸があって、美香を見据えていた。
 美香は絶句していた。転んだ痛みなど感じていなかった。自分を取り巻く世界とは全く違う世界の存在がいる。否応なくそう感じさせるものが、眼前にいる。そのことに、愕然として身動き一つできずにいた。
 これまでの半生で見た、どんな巨悪の具現のような男たちよりも、どれほど人格の破綻した人間たちよりも、根源的で本能的な恐怖を直感的に感じさせる存在、それが自分の目の前にいる。まるで夢の中のような非現実的な光景の中で、身体の感覚はあまりに現実的な危機を訴えていた。
 今しがた体当たりしたときに触れた手が、真冬の水に触れたように冷たくなって震えている。爪でアスファルトを叩いてしまうその震えを抑えるために、もう片方の手で手首を握り込んでいると、
"恐れるか"
 声を聞いた、と思った。
 自分の周囲全体から聞こえてくるような、距離と方向を感じない声だった。
"我を恐れるか"
 二度目を聞いて、それは間違いなく、ある種の声なのだと確信した。固唾を飲んだ。
"震えているのか。人の子よ。娘よ。"
 襤褸布の塊のようにも見える重たげな外套が、重力に逆らうように、あるいは水中で揺らぐように、ゆっくりと持ち上がり、中から現れた月と同じ白さの大きな手が、美香の方へと伸びてきた。
「こないで……」
 どうにか切れ切れに絞り出した声を聞くそぶりもなく、闇色の腕が美香の身体を一瞬にして抱き込んだ。氷の吹雪のように冷たく荒々しい腕であり身体だった。暗く塞がった視界の中で美香はもがき、もがくことの無意味さを知り、そして自身の身体が浮くのを感じた。風を切り裂くような音を聞いたと思った時、視界が開けた。
 中天の月に並んで、夜空の高みに浮いていた。上空の風は冷たく、美香の髪を引っ張るように掻き乱す。
 遥か下界に、息絶えたように暗い街が横たわっていた。
「え!? ここ、何なの、どこ、怖い! 下ろして……!」
"昏冥の丘だ"
「下ろして! 下ろ……、コン…メイ?」
 男は、長い爪の先で抱き込んだ美香の顎を上げさせた。瞬きも出来ずにいる美香の瞳を、瞳孔の見えない暗赤色の双眸が見つめて覗き込み、そしてその首筋へと戯れるように鋭い爪の先を伝わせて、目を細めた。
"……ふん、我を恐れながらも、生への執着はさして無いと見える。奇妙な娘よ。幸い、今夜は頗る機嫌が良い。教えよう、そして問う者あらば語れ。あれに見えるは、我らが名を刻むための丘だ。"
「名を、……刻む?」
 眼下にゆるやかな弧を描いて沈黙する街を、男は静かに指差した。
"そうだ。目の見えぬ者共、人の子らに、我が名を刻むために。人の子らは、恐怖を忘却した。驕慢なる奴らは、おのが目の見えておらぬことを知らず、恐怖は人の手によって支配できるものと錯覚した。忘却したのならば、その目をこじ開けるまで。思い出させるまでだ。"
「思い出させる? これから、いったい、いったい何を……」
 白い手が美香の目元を覆い、塞いだ。
"娘よ。おまえは語り部となれ。これから起こることを目に見、耳に聞け。そして我が言葉を伝えるのだ。昏冥の丘を見よ。人の子らはああして、息を潜めてさえいれば禍は過ぎ去ると思っている。おのが傲慢を省み、恥じ、改めることもなく、姑息にも禍は、縋れる者に縋ればいずれ潰えると、安穏は約束されると、愚考を巡らせ続ける。それが人の子らであるならば、我らは奴らの縋る者、阻止する者諸共に、滅する。"
 再び暗くなった視界のなかで、美香は殷々と響く声を聞いた。
"人問わば語れ。我は人の子の集う昏冥の丘に、いかずちを降し、恐怖を刻む者であると。そして覚えよ。"
 いまや瀑布に突入したような轟きが、周囲を包んでいた。
"我が名を覚えよ。恐怖を知れ。我は、永遠の時を歩む者、エーヴィッヒ……――"


 彼の者の名を夢現に聞いた美香は、それから二日後、都内の某所でとあるIO2メンバーの元に、忽然と、眠ったまま現れることになる――。





<了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
工藤彼方 クリエイターズルームへ
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2011年10月03日

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