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『遠とき、平穏無事の日々。 』
丈 平次郎(ib5866)&ヴァレリー・クルーゼ(ib6023)

 冬。
 ジルベリア、と一口に言ってもひどく広大な儀を持つこの国では、地域によって多少、気候の差違はある。けれども、ヴァレリー・クルーゼ(ib6023)の住むこの辺りでは、冬ともなれば深い根雪に閉ざされて、まるで外界から隔絶されたような、そんな錯覚を覚えさせた。
 世界から忘れ去られてしまったような。世界から、密やかに隠れてしまったような――
 その年も例年と変わらず、雪深い冬であったことを、ヴァレリーは今でも覚えている。腰痛持ちの彼にとっては屋根の雪下ろしや、家の周りの雪かきはひどく困難だったから、村の子供に駄賃をやって頼んだり、或いはそれほど雪が多くなければ妻が率先して雪をかいてくれた。
 そんな妻に、ヴァレリーは実は一度も礼を言ったことがない。家の中で、妻が熾してくれた暖かな暖炉の側に座り、妻が外気の寒さに頬を上気させ、雪にまみれて軽く息を弾ませながら帰ってくるのを、いつも本を読みながら待っていた。
 けれども彼女は、そんなヴァレリーに怒った事は一度もなくて。無言で暖炉から薬缶を下ろし、暖かなお茶を淹れてやるとひどく嬉しそうに「ありがとう、あなた」と微笑む、妻はそんな女性だった。
 だから。あの日、妻が村外れの雪原で拾ってきた不審な男を、結果としてその冬の間住まわせてやる事を了承したのは、きっと妻がそれを望んでいたからだと、思う。
 けれども、一番最初にヴァレリーがその男を見て言ったことは、ごくごく常識的で、そうして冷たい一言だった。

「そんなどこの馬の骨とも分からない者は捨ててきなさい」
「でも、あなた――」

 ヴァレリーの言葉に、妻はそっと眉を曇らせて、家まで引きずってきた男を見下ろした。その眼差しは、心配に満ちている。
 だが決してヴァレリーが極端に冷酷というわけではない。その男の様子を見れば、十人が十人、揃って同じ反応をするはずだと、ヴァレリーは今でも自信を持って断言できる。
 ひどく、大柄な男だった。妻が村外れからここまで、1人で引きずって帰ってきたというのがにわかには信じられないほど、背が高く、肩幅もがっしりとしている。
 次に目を引くのが、目元以外をすっかりと覆い隠す鎧と面覆い。とはいえ、冬のジルベリアにあってはそこまで奇異というわけでもない。肌を刺すような寒さや、突然吹き荒れる吹雪から身を守るために、村の住人も遠出の際には似たような格好で外出する。
 だが、何より目を引くのは腹と言い、手足と言い、惨たらしく噛まれたまだ血の滲む傷だ。恐らくは獣か、アヤカシの類によるものだろうと思われたが――必ずしもそればかりが理由のすべてではないことを、ヴァレリーは知っていた。

「逃亡者かもしれないだろう。捨ててきなさい」

 だからヴァレリーは繰り返し、きっぱりとした口調で妻に告げた。この雪の中にあっては、逃亡者を追うのに兵士を繰り出すよりも、犬を出した方が遙かに安全で効率が良い。もしかしたらこの男は、そういった理由で猟犬に追われ、傷ついたのかもしれなかった。
 けれども妻は、それはないわ、とヴァレリーを見上げてきっぱり首を振る。

「この人の倒れていたところから、少し離れたところに狼の骸があったわ。きっと、吹雪に紛れてやってきた狼に襲われたのに違いありません」
「だが――」
「それに、あなた。こんなに酷いけがを負っているのに、雪の中に放り出したりしたら、死んでしまうわ」

 そう、言うや否や妻はずるずるとその大男を家の中に引きずり込んで、さっさと鎧や面覆いを外し始めた。おい、と呼びかけたが妻はぴくりとも振り返らず、その背中は揺るぎない。
 ヴァレリーは深い、深いため息を吐いた。妻は気だてが優しく、そうしてしっかり者だ。それは、自分のような偏屈で愛想のない男に嫌な顔一つせずに連れ添い、尽くしてくれる事からもよく解る。
 だが何も、好んで厄介事を引き込まなくても良いだろうに――
 そう考えながら、手際よく雪に塗れた衣類を脱がせる妻を手伝いもせず、じっと見下ろしていた。が、不意にその手が止まったのを見て、軽く眉を上げる。

「どうした‥‥?」

 訪ねながら妻の手元を覗き込んだヴァレリーも、つかの間、言葉を失った。鎧と面覆いの下に隠されていた男の顔は、それほど目を引くものだった。
 顔の真ん中、鼻の中央から左半分を覆う、引き連れた醜い火傷。随分古いものに見えるそれは、首筋へと続き、左の胸部までを覆い尽くしている。
 さらにその左肩、火傷にかかるかかからないかという所にあるのは、まだ巨大な3本の爪痕だ。これほど巨大な爪を持つ生き物が一体何なのか、ヴァレリーにもとっさに思いつけない。
 狼はもしかしたら、吹雪の中でも敏感にこの爪痕にまとわりつく血の匂いに引かれて、この男を襲ったのかもしれなかった。けれどもそう、想像したところでこの男の持つ不審さが、さして薄れるわけでもない。
 ちらり、妻を見た。この傷を見て彼女が気を変えて、今すぐ雪原に叩き出す気になってくれれば、良いのだが――

「きっと、大変な目に遭われたのね。あなた、鍋を火にかけて、お湯を沸かしてくださいますか?」
「――解った」

 半ば予想していた通り、彼女はわずかりとも意志を揺るがす事なく、ヴァレリーに向かってそう言った。それに大きな、大きなため息を吐いて、妻に頼まれた通りにお湯を沸かす為、ヴァレリーは暖炉へと向かう。
 今まで一度も言ったことがないし、これからも一生言いはしないだろうけれど。彼が妻を愛しているのは、こういう揺らがない優しさを持つところで。
 ――それが、ヴァレリーと彼、丈 平次郎(ib5866)との最初の出会いだった。





 紅蓮の炎が、視界いっぱいに揺らめいている。むせ返るような炎が、辺りの空気を凶暴なまでに熱し、息苦しさをもたらしていた。
 その炎の向こうに泰然と存在する、巨大な影を自分は見つめている。巨大な――見上げるほどに巨大な影。は虫類のフォルムを持つそれを、自分は睨み据えている。
 それ――巨大な竜。その姿を持つアヤカシ。このアヤカシを倒さねばならぬと、自分は獲物を構えている。

(‥‥のために)

 誰かのために。戦って、勝って、帰らねばならないのに。――どこに? 誰のために?
 迷いが、獲物を握る手を震わせた。その迷いを察したかのように、竜がまがまがしい真っ赤な口をにたりと開く。
 渦巻く炎。吹き付ける熱風。とっさに身を翻した自分の、けれども左半身を炎はなぶり、一瞬の空白の後に走った想像を絶する痛みに、自分は絶叫した。
 皮膚のひきつれる痛み。生きながら焼かれる激痛。焦げた臭いが鼻腔を侵し、熱をはらんだ空気が肺を焼く。
 たまらずよろめいた、自分の肩にさらなる激痛が走った。引き裂かれ、肉を抉られる感触。遅れて走った激痛は脳天を突き抜け、目から火花が飛び散ったような気がした。

(これまで、か‥‥?)

 痛みと熱に朦朧とした意識で、思う。何も考えられない。思考が白に染まる。痛みが、全身を支配する。
 濃厚な死の気配が、あっと言う間に四肢に絡みつくのを感じた。気付けば辺り一面は火の海で、どこもかしこも炎の赤が揺らめいている。
 死ぬのか。この異国の地で、自分は果ててしまうのか。ただ1人で。――を残して。

(否――)

 熱があっと言う間に眼球を乾かして、流れる涙すら蒸発していく。抉られた肩から流れる血と、炎の赤の区別が付かない。どこもかしこも燃えている――己の血を燃やしている。
 否、ともう一度、霞む意識の下で思った。噛みしめた奥歯が砕けそうなほどに、強く願った。

「――俺は帰るんだ! あの子の所へ!」
「――‥‥それは何よりだ。さっさと帰ってくれるかね」

 不意に。
 己の声に目覚めると、側にいた男がきらりと眼鏡を光らせて、素っ気なくそう言った。その言葉に瞬いて、彼はゆっくりと辺りを見回す。
 清潔そうな、暖かな部屋だった。どうやら自分は、どこか民家の一室に寝かされているらしい。
 それは解ったが、一体ここがどこなのか、それが解らなかった。ちら、と視線を向けると先ほどの男が、無愛想にもほどがある冷たい表情で自分を見下ろしている。
 この家の人間だろうか。

「――ここは、どこだ?」

 尋ねると、どこか面倒くさそうに地名らしき言葉を告げた。そうして先ほどの言葉を繰り返した――動けるようになったら、さっさと帰ってくれるかね。
 帰る、と口の中で呟いた。帰る――いったい、どこへ?
 ここがどこなのかも、このつんけんとした男が誰なのかも解らない。先ほど、自分が何かを叫んだのは覚えている。けれどもそれは目覚めた瞬間、まるで幻のように跡形もなく消えてしまった。
 いったい、何の夢だったのか。酷く、嫌な思いをしたことを覚えている。そう、確かに自分は何かを叫んだ。それも、覚えているけれども。
 いったい自分は、どこに帰ると叫んだのだ。否、そもそも――

「俺は、どこから来たのだ?」
「は‥‥‥?」
「俺は‥‥俺は‥‥?」

 いったい、誰なのだ――
 そう、呟いた大柄な男の言葉に、ヴァレリーの表情がますます不機嫌そうな、厄介な事になった、とでも言わんばかりの表情になった。どうやら帰る所があるらしいと、安堵してみれば一転、何も覚えていないだと?
 正直な所、ヴァレリーは今すぐにでも出て行ってくれと言いたい気持ちだった。逃亡者でないにしても、これほど傷だらけの、得体の知れない不審な人間を、家に置いておくのは不安にもほどがある。
 けれども、自分が拾ってきた男が記憶を失い、どこの誰とも知れぬ身の上なのだと、知ったら妻がどんな反応をするのかは、ヴァレリーには良く解った。

「まぁ、何てお気の毒に! 何か思い出すまで、ずっとここにいらして下さってもいいんですよ」
「いや――」
「ね、あなた? 使ってない部屋が1つ、あったわよね」
「だが、だな。冬の間の食糧の備蓄は、それほどなかっただろう――」

 そうして案の定、あまりにも予想通りの言葉を紡ぐ妻に、ヴァレリーは一応の反論を試みた。こんな胡散臭い男と、同じ屋根の下で暮らすのは何とも、ごめんこうむりたい。
 けれども彼女は当たり前の笑顔で、そんな夫をいなして寝台に未だ横たわったままの男へと笑顔を向ける。その、揺らがない暖かな笑顔に彼はついと、眉を寄せた。
 か弱い婦女子が見れば、自分の形相はいかにも恐ろしかろう。なのになぜ彼女は、少しも恐れた様子もなく、笑顔で語りかけてくるのだろう。

(――なぜ俺は、俺が醜いことを知っているのだ)

 ふと、それに迷った。迷い、けれどもそれに自分の中の答えを見つけるのを待たず、彼女は夫を、不機嫌そうな男をなし崩し的に説得し、せめて自分が動けるようになるまでは、と話を進めている。
 変わった女性だった。そうして――

(何となく、いけ好かない感じのする男、だ)

 そう、あまりにも失礼な感想を抱いて彼は、不機嫌そうな男をうっそりと見上げた。きっと、相手もそう思っているような気がした。





 どこから来たかはもちろん、己の名前すら忘れてしまったその男は、丈 平次郎と名乗る事になった。ヴァレリーの蔵書の中にあった、天儀から伝わってきた書物に出てきた名前を適当に組み合わせたらしい。
 何とも適当な、と思わないでもなかったが、共に暮らすに当たって名前がないのはいかにも不便である。それに、記憶が戻れば真の名があるのだからと、ヴァレリーと妻は彼をその名で呼ぶことにした。
 ――と言っても当初、彼を平次郎と呼んだのは、ヴァレリーの妻だけで。ヴァレリー自身は平次郎の事を、君、とだけ呼んでいた。時には顔も上げず、眼差しも向けずにただ、君、とだけ呼ぶ男に、最初は奇妙なような、居心地の悪いような感覚を覚えたものだけれども、やがて慣れた。
 その家での、冬の暮らしは平次郎には物珍しく、馴染みのないものだった。ようやく起き上がれるようになると平次郎は、まずは身体慣らしを兼ねて家の中をゆっくりと歩き回ってみたのだが、どれもこれもが不思議な心地のする品で。
 恐らく自分は、ジルベリアの出身ではないのだろう。記憶はないながらも、漠然と平次郎はそう思った。そう思ったが、では一体どこの出身なのだろうかと、考え出すと平次郎の頭の中は霞がかかったように真っ白になった。そうしてしばし、窓の外に降り積もる雪を険しい顔で見つめている平次郎に、ヴァレリーの妻は「思い詰めないのが一番ですよ」と笑った。
 ジルベリアというのはどうやら、毎日毎日、日がな一日雪が降らねば気のすまぬ国らしかった。平次郎は毎日毎日、飽きもせず降る雪にまずは感心し、それから呆れ、そうしてやがて、その白に何も思わなくなっていった。
 その冬は、そんな風に過ぎていった。相変わらずヴァレリーは暖かな暖炉の側に座り、妻が雪をかいて帰ってくるのを待ち、そうしてすっかり冷えて戻ってきた彼女に熱いお茶を淹れてやる。
 だが、だがその冬のヴァレリーのもう一つの仕事は、この、無口でぶっきらぼうな巨漢の面倒を見てやる事だった。もちろん、彼自身が自らその世話を勝って出たわけではない。

「平次郎さんは怪我人なんだし。どうせあなたは家にいる事が多いんだから良いじゃないの」

 そう、妻に言われて嫌々、ヴァレリーは平次郎の世話を――具体的には着替えを取ってきてやったり、包帯を換えてやったり、水差しに新しく水を満たしたり、といったことを――することになったのだ。
 無口な男と、無愛想なヴァレリーとで過ごす時間は、だから当初、外に降る雪よりも重苦しく、沈うつで、どこか張りつめて過ぎていった。お互いがお互いを、叶う限り無視して過ごすことに、前半は過ぎていったと言っても良い。
 それでもヴァレリーは、妻に言われたからと言う理由以上には、平次郎の面倒をよく見た。

「ふむ。大分、良くなってきているようだね」
「――そうか」
「良い事だ。さっさと出て行ってもらわなければ、困るのでね」
「――そうだな」

 ヴァレリーが平次郎の傷の手当てをする時、彼は決まってそう言った。起き上がれるようになってからも、平次郎の傷はなかなか塞がらず、手の届く所はともかく、背中などになってくるとどうしてもヴァレリーの手を借りずにはおれなかったのだ。
 そんな時、平次郎はされるがままになりながら、必ずそう呟き、頷いた。彼の本心がどこにあったのか、今の平次郎なら解るけれども、あの頃の自分には解らないことだった。
 例えば、傷の手当をする度にヴァレリーがそう言った理由。早く治って出て行ってもらわなければと、村の老婆の元を訪ねて傷によく効く塗り薬をもらってきたわけ。
 身体が動くようになると、平次郎は率先して奥方の手伝いをした。最初はなぜヴァレリーが奥方を手伝わないのかといぶかしんだが、ある時こっそりと彼の腰のことを聞き、だから彼は代わりに奥方をお茶で出迎えるのだ、と得心したのだ。
 だから、暖かな暖炉の側でヴァレリーが待つ相手は、ある日から妻と平次郎になった。平次郎が増えてからしばらくは、ヴァレリーは自ら家の外に出て、もうそろそろ中に入ってきてはどうだ、と2人に声をかけたものだ。

「無理をして身体でも壊されたら、余計に迷惑なのでね」
「そうか。そうだな」
「あらあら、あなたったら」

 妻だけはヴァレリーの内心を見透かしていたようで、その言葉を聞く度にくすくすと笑っていた。けれども、普段なら何と言っても雪かきが終わるまで戻ってこない妻が、彼と一緒なら素直に戻ってくるから、というのも理由の一つだったことは、気付いていただろうか。
 ――それはとある、吹雪で外に出られない日の事だった。妻はシチューを作ると言って、ヴァレリーと平次郎の間にどーんとジャガイモの山を置いた。

「2人で皮を剥いて下さいな。芽もちゃんと取ってくださいね」

 にっこり笑顔でそう言い切る、優しい奥方が実はこの家の中で誰よりも強いのだと、この頃には平次郎も悟っていた。ちら、とヴァレリーを見ると案の定、大きなため息をついて不機嫌そうな表情は浮かべていたものの、文句一つ言わず素直にジャガイモの山に手を伸ばす。
 平次郎も彼に向かい合って、ジャガイモを1つ手に取った。大きな手のひらの中で、ちっぽけに見えるジャガイモ相手にそうして苦戦していると、不意に「平次郎」と名を呼ばれ。
 一瞬、不思議なものを聞いた気がしたのを、今でも彼は覚えている。失ってからこれまでに積み重ねてきた記憶にある限り、ヴァレリーが平次郎の名を呼んだのはその時が初めてだった。
 しばらくして、何だ、と答えた平次郎に、ひょいと眉を上げてヴァレリーが言う。

「少しは何か、思い出したのか」
「――いや」
「――そうか」

 そこでいったん言葉は途切れ、またしばらく、暖炉のパチパチとはぜる音と、台所から聞こえる包丁の音、奥方の少し調子の外れた鼻歌が、辺りを支配した。ヴァレリーは視線を手の中の芋に落とし、何か考えているようだ。
 平次郎もまたそれらに耳を傾けながら、手の中のジャガイモと格闘を開始した。大男が小さなジャガイモ相手にむっつりと手を動かしているのは、端から見れば滑稽だったことだろう。
 ヴァレリーもまたしばらく、そんな平次郎を見つめていた。見つめ、また「平次郎」と名を呼んだ。

「春になったら、天儀へ行ってみると良いんじゃないか」
「天儀に?」
「ああ――お前の容貌にしても、選んだ名にしても、天儀の物だ。きっと、お前のルーツは天儀にあるのだろう――それを確かめてみるのも悪くはないだろう」

 それはヴァレリーもまた、ずっと考えていた事だった。記憶が戻らないのは困ったものだが、もし彼が天儀の人間なのだとしたら、このままジルベリアで過ごすより、故郷に戻った方が遙かに良いだろう。
 生まれ育った光景に、文化に触れれば何かを思い出すかもしれない。それに天儀には、彼を見知っている者が居るかもしれない。
 ならば彼の本当の名も判るだろうし、それが判ればなにかしら、思い出すのではないか――そう、語ると平次郎は「そうだな」と呟き、それから小さく苦い笑みを浮かべた。
 ヴァレリーの言葉は理に叶っている。思えば己の名を考える時に、一番しっくり来たのが天儀の名前だと言う辺りからして、きっとあちらの出身なのに違いないと、自分でも漠然と思っていた。
 けれど。

「だが、俺の故郷が天儀だとしても、おそらく、俺の容貌はかつてと変わってしまっているだろう。果たして巡り会えるのだろうか――俺だと、判ってくれるのだろうか」
「親しき者は瞳を見ればそれと判ると聞く。それでも巡り会えなければまた、戻ってくると良い――妻が喜ぶ」
「奥方が、か」
「妻が、だ」

 どこか面白そうな口調に、唇をへの字に曲げてヴァレリーが言い切ると、そうか、と平次郎は低く声を上げて笑った。ヴァレリーが思い出せる限り、彼を拾ってから声を上げて笑ったのは、この時が初めてだった。





 それから残り半分の冬は、ひどく緩やかに過ぎていった。どうやら平次郎が見かけよりも穏やかで信頼に足る相手であり、何より意外な事に、ヴァレリーと案外気が合う男だと言う事が、判ったせいもあるだろう。
 だから何か劇的な変化があった訳ではないが、それでもぽつり、ぽつり、冬の夜長に暖炉の前で共に過ごし、語らう時間が増えていった。妻はそんなヴァレリーと平次郎を、嬉しそうに見守ったり、たまには一緒に暖炉の前で暖まりながら、他愛のない話で沈黙の多い2人を賑わせた。
 そうして、まだ雪の溶けやらぬ、ある春の日。

「――行くのか」
「ああ――俺が忘れた何かを、見つけねば。世話になった。奥方にも」
「また遊びにいらして下さいね」

 やって来た時に身につけていた、あの鎧と面覆いを再び纏い、平次郎は旅に出ると言った。その言葉に、今やすっかりこの家の住人のように思ってくれていた奥方はひどく寂しがり、何も言わなかったヴァレリーもまた、そうか、と少し感情の滲んだ声色でそう呟いた。
 けれども、旅立ちを引き止められはしない。代わりに村の入り口まで送ろうと、残雪を踏みしめながら、共に歩いた。

「――ではな」
「ああ。お前も息災で‥‥あぁ、そうだ」

 一度だけ立ち止まり、改めて言葉短かに別れを告げた平次郎に、ヴァレリーは淡々と頷き、それから思い出したように懐に手をやった。何が出てくるのか、と思えばそれは、木彫りの器に詰められた膏薬だ。
 ひょいと、渡されてとっさに受け取る。そうして眼差しで問いかけると、ヴァレリーはひょいと眉を上げた。

「お前に塗ってやった傷薬だ。またどこで怪我をして、倒れるとも限らんだろう」

 それ以上記憶をなくしたら周りが迷惑だからな、と。言ったヴァレリーの言葉に、そうか、と面覆いの下で平次郎は小さく笑い、木彫りの器を懐に納める。
 そうして今度こそ、手を上げて背中を向けた平次郎が、すっかり見えなくなるまでヴァレリーと奥方は、揃って見送ったのだった。




 それから、数年後。2人は神楽で再会するのだが、それはまた別のお話である。






━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【整理番号 /     PC名    / 性別 / 年齢 /  職業 】
  ib5866 /   丈 平次郎    /  男  /  48  / サムライ
  ib6023 / ヴァレリー・クルーゼ /  男  /  48  /  志士

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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いつもお世話になっております、蓮華・水無月でございます。
この度はご発注頂きましてありがとうございました。

お二人の出会いを描いた物語、如何でしたでしょうか?
何と申しますか、ご発注文を拝見して、『らしい』なぁ、という印象が致しました(笑
しかし、この出会いを経て、あのお二人へと繋がっていくんだなぁ、と思うと責任重大です(汗
ついつい暴走(?)してしまいましたが‥‥どこかイメージと違う所がございましたら、ご遠慮なくリテイクくださいませ;

また、こちらこそ「想ヶ淵に棲むアヤカシ」では本当にお世話になりました(深々と
あのリプレイが少しでも皆様に楽しんで頂ける物になっていたら、本当に良いのですが。
ああいった事には幾つもの数え切れない「正しい事」があるもので、心という目に見えないものであれば尚更だと思います。
――ですから、その、あまりお気に病まれないで下さいませね!(滝汗

お二人のイメージ通りの、確かな友情と信頼の芽生えを描いた、懐かしさの滲むノベルであれば良いのですけれども。

それでは、これにて失礼致します(深々と
■WTアナザーストーリーノベル(特別編)■ -
蓮華・水無月 クリエイターズルームへ
舵天照 -DTS-
2011年11月02日

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