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『『脇道』 』
花鳶・梅丸7492)&五辻・神斗(8181)&(登場しない)

 二月も半ばだったが、まだ春の足音は遠く、曇ると寒さが張りつめた。僕は腕を組みながら身を震わせて、空を見上げた。昼を少し過ぎたくらいで、薄雲からは冷え冷えとした光が漏れている。吐く息は白く、往来の人々も足早に目的地へ急いでいるように見えた。そう言えば今年はまだ雪を見ていないなと思った。
 午前でバイトが終わったため、その足で江ノ島へ写真でも撮りに行くことにした。同じ時間に上がった五辻を、予定もない様子だったので、シラス丼でも食べに行こうなどと言って誘った。最初はいつもの調子でぼうっと不思議そうな顔をしていたが、生シラスには興味が湧いたのか、付いてくることになった。下北沢から電車に乗り、一時間半程で到着した。

「思ったよりは、人が多いな」
「……そうなのか」
「平日の昼にしてはな」
 会話と言えばこんな具合だった。眠たそうな目で辺りを眺める五辻と、取り出したカメラで駅を写す僕とは、いつもこのように成り立っていた。潮の香りを受けながら、たまに立ち止まり、カメラを構えて、駅から島に向かってゆっくりと歩いた。
 しばらく雑多な通りを抜けていくと、たちまち視界が開けて、目の前には海が広がった。同時に強い風が吹き付けて、鋭い冷たさが襲ってくる。向こうに見える島の姿が随分遠くに感じられた。その様子は何故か、心を静かにする。
 江ノ島は観光地だけあって、多くの海辺の町と違い整然としていた。そこからは、うら寂しいような印象は決して受けない。しかしその分、冬の景色は静かだった。寄せ返る波や海向こうからの風音が、観光客の話し声や道を走るバイクの音を遠ざけて感じさせる。ぽつぽつといるウィンドサーフィンの帆が小さく揺れる程、近くで動く人々や車の姿は静止画のように静まっていった。
 殊に写真は孤独だ。レンズを境に景色から一人きりになる。海沿いでカメラを覗き込むも、その度に僕はいたたまれなくなってシャッターを切ることが出来ないでいた。その先に見えるものはどうしても閑静なものばかりで、僕は写真から撮る者の感情を消すことが出来るかどうかをふと考えた。それともこれは、単に冬の海のせいなのだろうか。
「お前、僕に付き合ってこんな所にまで来て、本当に良かったのか?」
 五辻は首を傾げてこちらを見ている。
「十四日。バレンタイン」と付け加えると、「ああ」とわずかに眉を上げた。
「特に予定もないしな。今はあまり興味がないんだ」
「そうか」

 島では何故か猫をよく目にし、そればかり撮った。その方が気楽だった。五辻は露天の服屋で訳の分からない柄の服をじっと見ていたり、生だこを潰して焼き上げるタコせんの店を面白がって覗いていた。焼きたてのものをいくつか買ってやると、美味そうに頬張っているのをすぐ猫に見つけられたらしい。困った顔をしながら少しずつ与えてやっていたようだが、終いには何匹にもニャーニャーと言い寄られ、僕等は逃げるようにして海岸近くへ出ていった。
 人通りはますます少なくなった。だが、たまに見えるのはカップルばかりだと気付いた。レンズに写された画に彼らが行き来すると、どうも今日の出来事が思い出されて、僕はカメラを下げて砂浜に足を向けた。
「うちの店の近くに五階建てくらいのオフィスビルがあって、そこから保険屋の女の人達が自転車に乗って出て行くだろう」
「……そう言えば、そんなおばさんをよく見る」
「うん。とりわけ会話もないんだが、その中に一人だけ、よく挨拶してくれる人がいる。僕が店前の掃除をしているときなんかに、いつもビル脇から自転車を押して出てきて、うちの近くで手袋を着けたりと準備をするんだ。その時にとても明るい声で、向こうから、こんにちはと声をかけてくれる。僕も挨拶を返すくらいだが、午前に入った日はいつも、昼前に会う。四十くらいなんだろうけど、目がぱっちりしていて若く見える人だ。髪は肩口まであって、スラッとしている。上品に見えて、だけど笑顔がとても元気なんだ。知っているか?」
「いいや」
「その人が今日、これをくれた」
 コートのポケットから、チョコが数個入った小さな袋を出した。綺麗に包まれているが、見るからに既製品である。
「裏にはあの人の名前、会社、その部署、電話番号や住所が貼り付けてある。恐らくこれから保険の営業で配るんだろう。僕は勧誘された訳じゃあない。しかしもちろん本命のチョコのはずはない。ただあの人はいつものように屈託なく笑って、他の人が通り過ぎる中で挨拶を交わしてきた僕に、何も特別なことはない、全くの彼女本来の優しさからこれを渡したのだと思う」
「何か、気に入らなかったのか?」
「もちろん嬉しかった。だが不思議な気持ちも起こった。すぐに行ってしまったあの人に、もっと気の利いたことを言えたんじゃあないかと不安になったり、裏の名前を見て、僕の名も伝えておきたかったと後悔した。多少そんな時間が過ぎると、最後には、幸せな、そんな気持ちがした」
 言葉は吟味したつもりだったが、最後まで上手く見つからなかった。それが今、自身を分からなくさせているものに違いなかった。
「……好きなのか、その人が?」
 そうではなかった。しかしよく似ていた。
「さすがに年齢も大分違うし、接点もほとんどないんだ。それでも驚いた。僕もあまり恋愛に過度な期待を持つ方じゃない。カップルを見て嫉妬を覚えることもないし、友人と過ごすのが楽しい。だからまさかこんな気持ちに、それも年の離れた保険屋の人が相手でなるなんて思いもかけなかった」
 恋愛が幸せであるかどうかを、この歳になってわざわざ問うことはないだろう。しかし必ず欲するべきものなのかは、未だに分からなかった。僕は自分の過去を少しずつめくりながら、その答えを知りたくなっていたのだ。それはあまりいい思い出ではない。

「さっき、今は興味がないと言っていたけど、お前にだって女性の好みはあるだろう。前に好きだった子でもいい」
「うん……強い人だったよ。口数は少なかったけど、声が良かった。女の人にしては太いくらいはっきりしていて、背筋が伸びるような、でも人を包むようにどこか優しげなんだ。とても良かった」
「その彼女は、どうしたんだ?」
「振られたよ。恋人がいて、彼を選んだ」
「相手がいちゃあ、仕方なかったな」
「恋人がいるのは知っていた。ただ彼女は俺のことが好きでなかったから、付き合えなかっただけだろう」
 潮風が木々を揺らしている。五辻は、別段表情を変えずにいた。彼をただの朴念仁と見ていたこっちの方が動揺をした。それどころか、彼は僕なんかよりもよっぽど自分の恋というものに特別な執着があるのかもしれないと思った。僕であれば、そのような時には立ち止まってじっと考え、あっさりと独りの日常に戻るに違いなかった。その女性が好きであることは確かでも、その気持ちは決して自分、相手、周りの人々、その中を飛び越えないような気がした。
「だからお前は、彼女だとか、こういうイベントそのものには、無関心なんだろうな。それで淡泊に見られるが、興味のあるものが強くて、他が気にならないんだ」
「自分ではよく分からない」
「例えば、好きな子とどんなことをしたい? どこに行きたい?」
「……彼女が喜ぶことをしたい。俺は喜ぶ姿が見たい」
 五辻の瞳は、真っ直ぐに見える。馬鹿げた疑問や問題には決して迷ったりしない目だ。だがその分、それは自分本位だ。独善的とも言える。今の答えの意にしても、一見した印象とは違い、相手の主体性を自分の意志に結びつけている。告白だって同じだ。
 それを本当のところで恋愛と呼べるかは、分からない。しかし、決して悪いこととは言い切れなかった。少なくとも僕にはそうだった。彼はそれを恋と信じている。そんな身勝手な自己完結が、僕にしてみればもっともらしく思われたのだ。自分には、どうしてもそれが出来なかったのである。

「花鳶は、恋人は?」
「前の彼女に振られてから、それきりだよ」
「どんな理由で振られるんだ?」
「理由は」と、僕は口ごもって困った顔をした。それは今も、はっきりとは分からなかった。
「本当に行きたい?だとか、あなたは楽しい?と、よく聞かれていたことは覚えているよ。元々彼女に告白されて、付き合い始めたんだ。あまり知らない子だったけど、とても優しい人に見えた。今でも彼女のことは好きだったんだと思っている。優しくもしていた。彼女のことを考えて、行動していた」
 貴方はきっと、とても頭の良い人なのよ。
 この言葉は特によく述懐した。寂しげに言う様子が、その度に鮮明に浮かんだ。彼女はとても良くしてくれたし、いつも笑顔を絶やさなかったが、僕が彼女を想って何か気を遣うと、決まってそんな顔をした。
「もしかすると、彼女は僕が馬鹿にしていたとでも思ったのかもしれない。貴方の言うことはいつも正しい。私はそれに頷いていれば何も間違うことがないのよねと、そんな風に言ったことがあった。僕は彼女のためを思ってこうした方がいいよなんてよく言ったし、色々なことをしてあげた。もちろん、馬鹿だなんて思ったことはなかった」
 しかし、思い返すといつもそんな調子だったのだ。僕は僕なりに彼女のことを考えてそうしていた。彼女のために。いや、彼女のため、とは何だったのだろう。情けないことに、それが今もって分からない。僕はデートの時にどんなことを話していたろう。僕から何か相談をしたことがあっただろうか。僕は、彼女を想ってはいた。それは間違いないはずだったが、同時に彼女をどれだけ好きでいて、そして付き合い始めた日からどれ程の距離が縮まったのか。
「結局、よく分からなかった。ある日彼女は僕を振り切るようにして遠くに越してしまって、僕は何だか申し訳なくて、それを追っていけなかった」
 五辻は黙って海を見ていた。辺りには人の気配が無くなり、僕らはしばらくそのままだった。彼が何を考えているのかは見当も付かなかった。僕の方は、詮無いことがいくつか頭をよぎった後、こんな日にいい年をした男二人が何をやっているのだろうと、妙な気分になっていた。
「飯、食いに行くか」
「……ああ。生シラス」
 十分後、適当に入った古びた食堂で、冬場はシラス漁が禁漁のために江ノ島では生シラスが食べられないことを知った。あまりの呆れた事実に、二人で思わず笑ってしまった。今日この日、自分達はこんな場所で一体何をしているのか、さっぱり分からなくなった。それがいかにも可笑しかった。僕らは代わりに海鮮丼を頼んだ。悪くない味だった。

 日が暮れた江ノ島駅前は、カップルでごった返している。どうやらバレンタインアイランド江ノ島という催しがあるらしいと分かり、ぐっと冷え込んだ夜の中で僕はますます閉口した。しかし、ごちゃごちゃとしたライトアップはとにかくひたむきに見え、どこか憎めなかった。
 コンビニに寄っていた五辻が、いつの間にか横に立っていた。手にはハート型のチョコを持っており、それをこちらに差し出している。ぽかんとして見ていると、
「やる」とだけ言って、切符売り場へ歩いていってしまった。
 元気を出せとでも言いたいのだろうか。全くおかしな奴だった。僕は手の中にある派手な色の包装を見ながら、それはやはり独善的だと思った。多分、大して意味も考えずに、ただあげたいからあげたのだろう。
 ……それでもいい。僕は嬉しかった。
 ちょうど雪が降ってきた。ライトに照らされて、街は一層煌めいた。カップル達は歓声を上げて、僕は駅の方へ五辻を追っていった。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
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東京怪談
2012年03月05日

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