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『温泉の効能と騒動と動揺と 』
神町・桜(ia0020)
 温泉というものには、様々な効能がある。例えば病に効くもの、例えば子宝に恵まれるものなど、本当に効能は様々である。
 さて、山間の某所にその温泉宿はあった。現在、頃合は……夜遅く。一般的には夕食も済んで、眠りの早い者ならそろそろ床に着こうかという頃である。夜空には月が出ているが薄い雲が少なくなく、月の明かりを遮ったり遮らなかったりをゆるゆると繰り返していた。
 温泉宿の裏手側、少し離れた場所には林が広がっているのだが、その中には温泉宿の中にあるものとは別に、露天の温泉が1つあった。露天風呂といっても野ざらしでぽつんとある訳ではなく、そこはそれ、温泉宿の者たちの手が入って多少の雨風ならしのげる程度の屋根がついた脱衣所が用意されている。つまりこの露天風呂に入りたければ、宿を出て林を抜けてくれば、ちゃんと脱いだ衣服を置いておく場所があるということだ。
 そんな露天風呂には今、湯煙の中に人影が1つあった。非常に小柄なその姿からして、恐らく子供であると思われる。手にした大きめの手拭いで胸元から下腹部にかけての辺りまでを覆っているので、性別はこの段階ではよく分からないが、顔立ちを見る限りでは男の子とも女の子とも、どちらであるとも言える外見である。それはそれとしてかけ湯は済んでいるようで、首から下の肌に玉のような温泉の雫をつけ、岩に腰掛け両足のすねから先を温泉の中へと浸けていた。
「……ふーむ……」
 息を大きく吐き出してからその者――神町桜は思案顔となった。視線は温泉と胸元以下を覆っている手拭いとの間を、ゆっくりと何度も移動していた。
「やはり直接の方が効能があるのじゃろうか……」
 外見からは想像付かない言葉遣いが桜の口から飛び出してきたかと思えば、間髪入れず意を決した様子で大きく頷いてみせた。
「……うむ!」
 桜は胸元以下を覆っていた手拭いを外して脇に置くと、そのまま身体を滑らせるように温泉の中へと沈めた。
「……ふーう……」
 温泉の一瞬の熱さと心地よさに、桜の両目はきゅっと閉じられ、口からは思わず溜息が漏れてしまう。1分近くそのままで居たかと思うと、桜は静かに両方の手を胸元へと押し当てた。
「今度のこの温泉こそ、本当に効果があると良いのじゃがのぉ」
 しみじみとした口調でそうつぶやく桜。その視線は両手へ――否、両手で覆われている部分へと注がれている。実はこの露天風呂、胸の発育を良くするといういわゆる豊胸効果があるらしいとのことなのだが……。
(ともかく、他に誰も居ないのは気を遣わなくてよかったのじゃが)
 言われている効能が効能なだけに、もし他に誰か入っていたのなら、互いにどのような顔をしていいか困っていたことであろう。ゆえに1人きりというのは、非常に楽なことである。
 岩に身を預け、1人ゆっくりと温泉を堪能する桜。しかし、そんな時間は突然破られることになった。
「ぬ?」
 桜の閉じていた両目の片方が開いた。というのも、脱衣所の方に何やら気配を感じたのである。と、すぐにその脱衣所の方から物音が聞こえてきた。
(……誰か他の客が来たのかの?)
 そう思い、桜は開いた片方の目をまた閉じようとしたのだが……はっとして、閉じていた方ともども目を見開いた。
(いやっ、何かがおかしい!)
 物音はまだ脱衣所から聞こえてくる。だがそれは明らかに着替えを行っている物音ではなく、まるで何かを漁っているような――。
 桜は温泉の中で静かに身体を反転させると、岩陰からそっと脱衣所の方の様子を窺った。脱衣所の方にある気配の主がそれに気付いた様子はなく、物音はなおも続いている。桜は極力音を立てぬよう温泉から上がると、足音を忍ばせて脱衣所へと近付いてゆき、こっそり中を覗いてみた。
「ぬぅ!?」
 そこにあった光景に、つい驚きの声を漏らしてしまう桜。何とそこには、籠の中の衣服を漁っている1匹の野生の猿の姿があったのである。当然のことながら、温泉に入っていたのは桜1人だけ。つまり猿が漁っている衣服というのは、桜が着てきていた巫女服である訳で……。
(なっ、何故猿が……というか……)
 桜は脱衣所へと踏み込んだ。
「その服はわしのじゃぞ!?」
 ……後にして思えば、この行動は悪手であった。相手は野生の猿である。急に大声を上げられたら恐慌状態となり、その場から逃げ出してしまうのも当然のことであろう。しかし、ただ逃げ出したのであればそれでよかったのだ。不幸なことに、桜の巫女服を抱えたまま逃げ出しさえしなければ……。
「ぬぁっ!? 何故服を持ってゆくのじゃ!? ええい、逃がしはせぬ! 待たぬかーっ!!」
 脱衣所を飛び出した猿は、巫女服を抱えたまま宿のある方へと逃げてゆく。桜もまた脱衣所を飛び出し、林の中を駆け抜けて追いかけてゆく。
「こらーっ、逃げるでないっ、待つのじゃーっ!!」
 決して逃がすつもりのない桜は、猿に向かって大声で呼びかけながら追い続けてゆく。猿は巫女服を抱えているからだろうか若干逃げ辛いようで、徐々に徐々に桜との距離が縮まってゆく。そして――桜の手が巫女服をつかんだのは、林を抜けて宿のすぐそば、猿が屋根へと駆け上がろうとした瞬間のことであった。
「ぬぅっ、手間を掛けさせおって!」
 振り返ることなくそのまま屋根へと上がり逃げてゆく猿の後姿を、桜はきっと睨み付ける。それから額の汗を拭うと、ほっとしたように大きく息を吐き出した。
「とりあえず、巫女服だけでも取り返せてよかったのじゃ」
 と、そこへ宿の中から何人か人が出てくる。きっと桜の大声なり、騒ぎなりを聞き付けてきたのであろう。
(ああ……少し騒々しくしてしまったかもしれぬのぉ)
 何か注意されたら謝ろうと、心の準備を始める桜。だがしかし、出てきた者たちは桜の姿を認めると、一瞬驚きの表情を浮かべた後、戸惑いの表情となり何も話しかけてこようとはしない。ただ、時折ちらちらと桜の顔と身体を見比べているだけである。
(……ぬ? はて、何か……)
 周囲の者たちの妙な様子に桜は首を傾げる。相手は自分の身体を見ているが、さて何か変わったことでもあったろうかと思い、自らの視線を身体に降ろし――そこでようやく気が付いた。
「……ぁ、なななな、しまったのじゃっ!?」
 桜の今の姿は、温泉に入ったままの姿であったのだ。つまり他の者たちから、余す所なく全身を見られている訳で……。
「お、お主等、見るでないのじゃーっ!?」
 恥ずかしさからたちまち真っ赤になる桜の顔、そして身体。取り返した巫女服で隠せる所を覆い隠すと、そのまま脱兎のごとく宿の中の自分の部屋へと逃げ出していったのである。
 このような騒動があったからかどうかは分からないが、後に今回の温泉の効果についてこっそり問われても、桜は口を貝のように閉じたままであったという――。

【おしまい】
■WTアナザーストーリーノベル(特別編)■ -
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舵天照 -DTS-
2012年05月31日

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