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『●雨にけぶる 』
藤宮・永6638)&(登場しない)

 大気に混ざる水滴が、庭に植えられた植物を濡らしていく。
 濃厚な緑の薫りよりも先に、気付いたのは雨滴の奏でる静かな旋律だった。
 ふ、と筆を止めて庭の方へと視線を移した藤宮・永(6638)は、墨と混ざり合う緑の雨の香りを吸い込み、苦笑を洩らす。

「そろそろ梅雨入りやなぁ。着物やと、外に出るんが億劫になるわ」

 それでも洋服を着る気になれないのは、書家と言う自分の職業故ではなく――単にその方が居心地がいいからだ。
 書道教室の生徒達からは『動きにくそう』と不評であるが、わざわざ自分の服装を他者に、併せる必要はない。
 故にやんわり、断りながらも『好きにさせてぇや!』と心の中で呟いたのは、幾度となるのか。

「雨――天から落ちてくる水」

 小筆を墨に浸し、ゆっくりと半紙に綴る……水神を信じた人々が、恵みの雨と仰いだように。
 全てを洗い流す雨ではなく、緑を大切に守るが如く降る雨が、今は相応しいだろう。
 生成り色をした半紙に綴られる『雨』と言う文字、半紙を変え『零』への文字を綴る。

 零=0
 何も無い、その観念が存在する前から『零』と言う文字は存在していた。
 零は、静かに滴り落ちる雨だれの意味――それがどうして、0へと結びついたのか。
 零の横に、数字の『0』を書きながら、墨を磨り思考を巡らす。
 慣れ親しんだ墨の慎ましやかな香りが、ふ、と鼻腔に広がった。

「零れ落ちるもの。あまり。端数……が転じて極小の数となり、やがて0へ……やったっけ」

 眼鏡の奥の墨のように静かな黒い瞳が、ふ、と記憶をなぞるかのように動いた。
 根っからの文系である永自身、数学的な考え方はあまり得意ではない。
 数が、記号が全てである数学的な世界は、あまりに永にとって鮮烈すぎるのだ。
 文字の、漢字の持つ古い歴史や、先人の軌跡、そして様々な意味合いを持つまろやかな――中庸とも呼べる文学の世界。
 それが自分にとって、とても心地佳い場所――高名な書道家の生まれ故、か。
 否、恐らく触れてしまった時から、自分に触れる文字の柔らかさに気付いていたのだろう。
 きっと、違う生まれでもこうして、惹きつけられたに違いない……。
 と言えども、そのような事を考えるのは詮無き事なのかもしれぬが。

「数学ってもっと厳格なもんかと思うとったけど、結構大雑把なんかいな?」

 入り乱れる数字と記号、小筆を置き、乾いた文字をなぞる。
 白い指を墨が舐める事も無く、指は白さを保ったままだった――『零』と『0』二つの文字。

 降り続く雨の音が、優しく世界を包んでいるようだった。
 仄昏い空に映える庭の紫陽花、母と祖母が談笑しているのが遠くから聞こえてくる。
 それすらも何処か、遠い出来事のように――雨は外界と己を包みこみ、思考を深みへと誘う。
 仄昏い空から滴り落ちる雨滴の奏でる音を耳に挟みながら、永は小さな微笑みと共に、半紙に一つの『○』を描いた。

「私はこっちの考え方が好きやなぁ――」

 晴れた日だったら、吹き出してしまうかもしれない思い。
 それでも、この雨の中ならば、許されるのだ。

「ゼロ記号が球状の雨滴のような形やったから……そっちの方が情緒あるわ」

 ぽつり、ぽつり、雨滴は落ちて緑を、家を、地面を濡らしていく。
 残った墨を不要な半紙で吸い取り、筆の墨を染み込ませると永は静かに立ち上がる。
 外を濡らしている雨、天から零れ落ちる『零』は到底、0と言えるようなものではない。

 下駄を履き、カコン、と音を立てて庭へ出た。
 晴れた日の庭とは違い、緑は艶やかな光沢を持って永を迎え入れた。

「(滴り落ちた無数の『零』は、随分と風情あるわ)」

 滴り落ちる雨滴を手で受けとめれば、本当に小さな粒でしかない。
 それが幾重にも滴り落ち、こうして艶やかな世界を作っているのだ――その『零』は増え続け、視覚を、聴覚を、嗅覚を、変えていく。
 きっと、先人もこうして、手で受けとめてこの形に思いを馳せたに違いない。

 ――端数にするには、あまりに大きな変化、故に。

 もしかしたら、あまりに情緒的だと、歴史家達は口をつぐみ、己の心の中だけで――その思いを呼び起こしたのかもしれない。
 踏みしめた土が、柔らかく変化し下駄を受けとめた。
 ぽつり、ぽつり、と雨滴に触れる度に細かく揺れる、緑の葉。

 そして――成程。

 母と祖母が笑むのも判る程に、艶やかに咲いた紫陽花の花。
 そして、その紫や青、赤紫と対比する白い花を付けた梔子――香り。
 独特で甘いその香りは、美しい白い花と同じく観賞用にされている。
 藤宮家でも、その美しい花とその香りを好んだ祖母が植えたものだ。
 隣家からも、同じように甘い香りが漂ってくるのは、同じくこの香りを好む人がいるからかもしれない。
 薄絹を被せたかのように、全てをぼかして曖昧にしてしまう。
 そんな雨の最中に咲く花は、大輪でありながら何処か霞のように消え去る、そんな儚さすら存在している。
 雨滴を落とす雲も、やがては晴れて――夏へと移り変わる。

「惜しむ、心でもあるんかもしれんなぁ。――くちなしも……」

 くちなしも 及ばざるかな 零の香は
(くちなしも及ばぬ程に、甘い香りをしているよ、零れ落ちていく『零=雨』の香りは)

 唇が自然と弧を描く。
 あら、永さん、と祖母に話し掛けられて、永は居住まいを正した。

「佳い雨なもので、部屋から出てきてしまいました」
 永の言葉に、祖母は口元を抑えて微笑んだようだった。
 ころころと少女のように、愛らしい声がする。
 目元の皺がす、と深くなり、優しい色を浮かべた。
「そうでしょうとも。晴れが佳いと言う人は多いですが、雨も中々、佳いものですねぇ――」

 二人揃って、雨滴がしっぽり、全てを濡らす音に耳を傾ける。
 目を閉じて耳を澄ますと、まるで全てと一体化した様な錯覚に陥る。
 鼻腔に広がる香りは、先ほどよりも土と雨、緑の香りが強い。

 今日の稽古は、雨と零についての稽古にしようか――。
 書道を学ぶのなら、この自然や、この国の美しい心を知ってほしい。
 文字の『形』だけでなく、成り立ちや、その背景に思いを馳せて欲しい。

 ――『0』は降り続ける。
 人も草木も関係なく、平等に、ただ、降り続ける。

 永は目じりを優しく緩め、けぶる雨の庭を見つめるのだった。



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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【6638 / 藤宮・永 / 男性 / 25 / 書家】


ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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藤宮・永様。
この度も、発注ありがとうございました、白銀 紅夜です。

前回のものも、気にいって頂けたようで幸いです。
漢字については、何時もながら、そのような成り立ちがあったのだと……驚かされます。
ゼロ記号に似ていたから、とは斬新でどこか愛らしく微笑んでしまいました。
『可愛くないわ!』と、反撃されそうですが――。
滴り落ちる雨と、けぶる緑、濃い梔子の香りを思い起こし。
庭の部分と、家族との関係、俳句は勝手に付け足してしまいました。
リテイクなどが御座いましたら、ご遠慮なく。
時間が御座いましたら、Dにも遊びに来て下さいませ。

では、太陽と月、巡る縁に感謝して、良い夢を。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
白銀 紅夜 クリエイターズルームへ
東京怪談
2012年07月31日

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