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『ループ 』
海原・みなも1252)&(登場しない)



 繭から出たあたしは、身体に違和感があった。
 生温い泥の中に沈んでいくような気分なのだ。
 否、この表現は正確ではない。
(欲望の沼に身体が沈みこんでいくような――)
 意識の中で、足をつけて立っていても、ズブズブと沼の底へと引き込まれていく。魅力的な欲望だ。

 欲望とは何か?
 それは勿論天使の、

(だめ、足を取られる……!)

 ぐるり、
 と身体が回転して、あたしは畳に倒れ込んだ。
 繭から解放されて、人間のモノに戻っていたあたしの足が、再び羽に覆われていた。
 以前より酷い。羽の塊そのものだった。
(芯、がない。完全に)
 あたしの足だった筈の塊は、今やあたしのため息一つでフワフワと揺れている。
 足として全くの役立たずの存在。
(それがどうしてこんなに心地良いの?)
 足の指だったところ――羽の先っぽから始まって、足の甲だったところ、ふくらはぎの膨らみへと蕩けていきそうな感覚が走っている。
 痛みさえ感じない。
(これは“揺らぎ”)
 意識の揺らぎだ。寄せては返す、反しながらじわじわと寄せてくる、天使の欲望なのだ。
(だめ……)
 太ももまで、揺らいだ。
 くっついていた両足の太ももが、羽の重なり合いになって。急激にくすぐったくなる。
「……ふふ」
 小さな笑い声を零し、足を少し開いてしまうと、今度はその刺激で足の付け根が揺らいだ。

 ――あたしの身体に何が起きているんだろう?

 上半身だけで這いずって鏡の前に行くと、奇妙な姿が映っていた。
 下半身は雪のように白い塊と化している。
 反して、上半身はと言えば、ヒトの形をしていた。薄くなった肌に一つ一つの羽が折り畳まれた、天使病の姿をしていたけれど。
(どういうこと?)
 上も下も天使病に冒されているのは同じ筈なのに。
 形が違う。感覚が違う。
 ここには二つの天使病がある。
(わからない)
 ……沼へ引きずりこまれていく。
 腰が蕩けていったので、あたしは心の中で呟いた。
(……また、揺らいだ)
 ――舌の上に違和感がある。
 また羽が生えてくるのかもしれない――ぼんやりした頭で、あたしは思った。

 ぼんやりしていたのは、眠かったからだ。
 数時間前の出来事で疲れていたのだろう。
(だめよ。天使病に冒されている最中なんだから……)
(こんな……ところで……寝たら……)
 精神も、肉体も、奮い立たせようとしたけど、どちらも蜜蝋のように溶けて混じり合い、形をなさなかった。
 あたしは眠りに落ちていく――……。


 夢の中で、あたしは大きな白い塊になっていた。
 隣には、風になったもう一人のあたしがいた。

 風のあたしが、その白い塊へ息を吹きかけると、表面がぶるぶると震え出した。
 それは、一つの物体ではなく、小さな羽の集まりだったからだ。

 きもちがわるい、とか、きみがわるい、とは思わなかった。
 あたしは、受け入れていたのだ。自分が羽の集合体であるという事実を。

 でも、風であるあたしは、その受け止め方を普通とは思わなかった。
 きっと、羽のあたしはあたまの中まで羽でおかされてしまったからだと、考えていた。
 のうまで羽になったら、もうきみがわるいかそうじゃないかの判断さえつかないんだと、ぼんやりと、思った。

 ……ぼんやりと。


 耳障りな機械音で、目が覚めた。
 上半身だけでも起き上ろうとして、崩れ落ちた。腕が、羽の塊になっていたからだった。
 崩れ落ちても、痛くなかった。もうぶつけて痛む胸がなかった。そこは白い羽で覆われていたからだ。
 ほとんど、芯のない、身体になってしまった。
 それでも、首や顔は、残っていた。
 首まで羽になってしまっては、頭を支えられない。
 頭まで羽になってしまっては、もう、考える力さえなくなってしまうかもしれない。畳の上をコロコロと転がるだけの、しろいしろい、物体になってしまうかもしれない。天使なんて、名ばかりの。
 眠っている間に、そんな酷いことに陥らずに済んだのは、ケリュケイオンのお陰だろう。本能で、回避してくれたのだ。
 最近は、無意識に発動出来るようになってきたのか、あの耳障りな音も意識しなくなっていた。だから、久々に音を聞いた気がする。
 ――大きく深呼吸をした。
 腕の付け根から、肘、手首へと、ゆっくりと肌の内側へ羽を仕舞い込んでいく。
 きちんと、ていねいに、一枚一枚の羽を畳み込み、皮膚が膨らまないように注意した。
 胸も同じように。徐々に、身体が重くなり、弾力のある肌に戻っていく。
 繭になったときと違って、あたしはとても、れいせいだった。

 足の裏まで羽を肌の中へ畳み込むと、あたしは鏡に肌を押し付けた。
 鏡のひんやりとした、硬い感触が肌に当たった。皮膚の内側で、僅かに羽がざわめいていた。
 あたしの顔は鏡の間近にあった。
 ……あたしは、とても、れいせいだった。
 だから、さっきから一つの疑問が湧き出ていて。
 こつん、と鏡に頬を当てて、心の中で問いかけた。

 あたしの、のうは、羽におかされていないだろうか?
 ――足の指先が、ジリジリと、疼き出していた。



終。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
佐野麻雪 クリエイターズルームへ
東京怪談
2012年08月29日

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