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『大神楽温泉〜Monkey Panic! 』
常塚咲月ja0156

 それは大きな、いっそ巨大と言っても過言ではないほど大きな温泉施設である。駅の向こう側、歩いて10分という絶好の立地条件で、しかも多くの車を停められる駐車場も確保しているから遠方からの客にも優しい。
  温泉の種類もまた巨大な建物に見合って豊富で、露天風呂や千人風呂、ミルク風呂や、珈琲風呂、二つ合わせてカフェオレ風呂など、変わり風呂も多い。おまけにワイン風呂や日本酒風呂という、お肌に良さそうだが匂いだけで酔っ払ってしまいそうなお風呂もあるし、屋外にはペットと一緒に入れる専用温泉まであるというのだから、至れり尽くせりを通り越して、一体何の限界に挑戦しているのか、とつい首を傾げてしまう程である。
 その、巨大な温泉施設に鴻池 柊(ja1082)達がやって来たのは、ちょっとした息抜きのためだった。何しろこんな温泉だから、ただ単に巡るだけでも面白い。おまけにここは基本的に、水着着用タイプの混浴大浴場施設なので、プールに遊びに行くような感覚で気軽に楽しめるのである。
 ゆえに柊は、濃紺の勇ましげな龍がプリントされたサーフパンツ姿で大浴場に立ち、ぐるりと眺めてため息とも、感心ともつかない息を漏らした。

「賑わってるな。──月も那耶も1人で行動するなよ?」
「やだなぁ柊ちゃん、子供じゃないんだから。ねぇ、咲月姉?」

 その言葉に、笑って柊の肩をべしっと叩いた四条 那耶(ja5314)は、ぱりっとした白黒ストライプのタンキニ姿。そうして投げ掛けられた言葉に、んー……? とのんびりした様子で振り返った常塚 咲月(ja0156)の水着はといえば、黒地に艶やかな蝶がプリントされたビキニである。
 「おー広い……」と1人で感心していた咲月は、那耶を見て、それから柊を見た。そうしてまた、広々とした大浴場と、そこにひしめき合う水着姿の人々を見て。
 ぽつり、呟く。

「──お腹空いた……」
「月……」
「咲月姉、まだ1個もお風呂に入ってないよ?」

 その言葉に、柊のため息と那耶の苦笑が返ったのは、同時。とはいえお腹が空いたものは空いたのだと、手を当てながら眼差しだけで訴える咲月である。
 やれやれと、その様子にどちらからともなく暖かな苦笑が零れた。那耶がくるりと柊を振り返り、ねぇ、と楽しげな声をあげる。

「咲月姉もこう言ってる事だし、柊ちゃん、一緒に温泉饅頭を買いに行こ。ついでにいっぱい買うから、荷物持ちしてよ。咲月姉は待ってる?」
「那耶……お前、俺の言ってることを聞いてなかったのか?」
「聞いてたけど、ちょっと行って帰ってくるだけだし、大丈夫だよ。それとも咲月姉、一緒に買いに行く? けっこう混んでるらしいけど」
「いい……待ってる……」

 那耶の言葉に、ふる、と咲月は首を振った。のみならず、露天風呂が見下ろせる一角までぺたぺたと歩いていくと、すとん、と座り込んでしまった。
 そうしてひょいと柊と那耶を見て「ちゃんと……待ってるよ……?」と小首を傾げるものだから、はぁ、と柊の口からまた、ため息のような呆れのような吐息が、漏れる。そうして咲月へ手を伸ばし、くしゃ、と頭を撫でた。

「──ほんとに、大人しくしてろよ? すぐに戻って来るから……行くぞ、那耶」
「うん! 咲月姉、美味しい温泉饅頭を買ってくるから、待っててね!」
「……って、おい、引っ張るな」

 ぶんぶんと手を振る那耶に引きずられるようにして、柊も売店の方へと姿を消す。それを見送ってから、咲月は再び露天風呂の方へと視線を向けた。
 露天風呂もまた、呆れるばかりにたくさんの種類がある。もちろん、外からは見えないように大きな竹の壁が立っていて、それがまたどこか世俗と離れたような、ちょっとした秘湯のような雰囲気を醸し出していた──もちろん、そこから視線をあげれば壁の向こうには、変わらぬ街の建物が見えるのだけれども。
 足をぷらぷらさせながら、咲月はそんな露天風呂を、露天風呂でのんびり気持ち良さそうにくつろいだり、泳いだり、或いは恋人なのか若夫婦なのか、ぴったり寄り添って縁石に腰掛け何か語り合っている男女なり、ペットと一緒にはしゃぎ回っている人なりを、ぼんやりと、そして感慨もなく見つめた。見つめ、それからふと視界の端で何かが動いたような気がして、んー……? と首を傾げた。
 ふい、と眼差しを揺らしてそちらを見ても、にわかには何が動いたのだか、検討もつかない。けれども、しばらくの間じっとその辺りを見つめていると、またひょい、と動くものがあって。
 ぁ……と目を輝かせる。

「お猿さんだ……」

 それはまごうかたなき、茶色の毛並みに全身が覆われ、真っ赤な顔をした、動物園でよく見る猿だった。咲月の眼差しに気付いたのだろうか、うき? とこちらを見上げている。
 だが、それ以上動こうとはしない。おいでおいで、と手招きをしてもやっぱり動こうとはせずに、こちらをじっと見上げたままだ。

「お猿さん……どうしたら……来るのかな……?」

 咲月はうーん、と考え込む。せっかく見つけた猿だし、なかなか個性的な顔立ちをしているし、絵を描きたいのだけれども、近づいて来てくれないことにはどうしようもない。
 だがふと咲月は、猿が手に何かを持っている事に気がついた。じっと目を懲らして見てみれば、それはどこにでも売ってるようなお菓子のようだ。
 なるほど、と頷いた。

「お猿さんも……お腹すいてるんだ……?」

 ならば餌のお菓子を使って、猿をおびき寄せれば良いのである。咲月はさっそく売店に行こうと立ち上がり、さてどちらに行けば良いのだろう、と見回した。
 やがて、すぐに目的の売店を見つけると、適当なお菓子を買って戻る。だがすでに猿は姿を消していて、どこに行ったものだか解らない。
 ならば罠を作ってあの猿をおびき寄せようと、咲月は手頃な場所を探して歩き始めた。

「お猿さん、お猿さんー……来ないかなー……」

 そんな鼻歌を歌いながら歩く彼女は既に、柊や那耶に待っていろと言われたことも、それに自ら「ちゃんと待っている」と約束したことも、綺麗さっぱり忘れている。





 那耶は上機嫌で、ほかほかの温泉饅頭を抱えて歩いていた。何しろこの大神楽温泉限定の、ものすごく美味しいと評判の温泉饅頭なのだから、上機嫌にならないわけがない。
 知らず、足取りもステップを踏むように弾みながら、咲月が待っているベンチへと向かう。きっとこの温泉饅頭を見せて、そうして一緒に食べたなら、さぞかし喜ぶことだろう。
 そう、思いながら咲月と別れた辺りまで戻ってきて、那耶は「あれ?」と首をかしげた。

「咲月姉?」

 ちゃんと待っている、と言っていたはずなのに、戻ってみればかの人の姿は影も形も見えない。ぐる、と辺りを見回してみたが、とにかく、どこからこんなに人が沸いてきたのかと首を傾げたくなるほどの人ごみなので、たとえ咲月がその中のどこかに居たとしても、きっと解らなかっただろう。
 ふむ、と那耶は少し考えて、すとん、と咲月が座っていたベンチに、彼女と同じように腰を下ろした。少し待っていれば帰ってくるかもしれないし、さすがにちょっと休憩したいとも思ったのだ。
 とはいえ咲月の事だから、何か別のものに興味を惹かれて、ふらりとどこかに行ってしまったのかも知れない。だったら、柊もまたここにやって来ることは間違いないのだから、彼と合流してから手分けして探した方が、よっぽど効率もいいし、那耶の労力も半減すると言うものだ。
 そう考え、那耶は膝の上に温泉饅頭の袋を置いて、足をぶらぶらさせながら、行き交う人を興味深く眺めた。あれは友達同士かなとか、家族連れなのかなとか、あっちの男女はちょっと後ろ暗い感じがするな、などとあれこれ想像を巡らせると、案外面白いものだ。
 それにしても、と膝の上の温泉饅頭を見下ろし、小さくため息を吐いた。

「咲月姉……柊ちゃんでも良いけど、戻ってこないかなぁ」

 せっかく蒸したての温泉饅頭だと言うのに、このままではすっかり冷めてしまって、美味しさも半減してしまう。どうせだからみんなで揃って食べようと思っていたけれども、この調子で誰も戻ってこないとなると、せめて那耶だけでも先に食べて、温泉饅頭の本来の美味しさを味わった方が、よほど温泉饅頭本人(?)のためにもなるのじゃないだろうか。
 うんそうだ、そうに違いない、と1人頷いて那耶は、いそいそと温泉饅頭の袋を持って立ち上がった。せっかくのお饅頭を頂くのだから、ここはひとつ、あつーい緑茶も買って心行くまで堪能するのが、温泉饅頭に対する礼儀だろう。
 そう、思って歩き出しかけた那耶の前を、さっ、と横切る影が、ある。

「……ッ!?」

 咄嗟に身を硬くしてバックステップを踏み、ソレから距離を取って警戒した。そうして一体何が起こったのかと、影の走っていった先に素早く、そして慎重に視線を向ける。
 が、そこに居たのは1匹の猿だった。実に絵に描いたような、動物園などでよく見かける、全身毛むくじゃらで赤ら顔の、どこからどう見てもまごうかたなき猿である。
 ぽかん、と那耶は呆気に取られて、それからはぁ、と安堵の息を吐いた。全身の力を抜いて「もう、脅かさないでよ」とつい文句を言うと、猿は「一体何を言ってるんだこの人間は」と言わんばかりの表情になって、温泉饅頭の袋をがさがさ鳴らしてそっぽを向く――温泉饅頭の袋!?

「ちょ……ッ!」
「ウキ?」

 気付けば自身の手が空っぽだと気付き、慌てて猿を険しい表情で見つめると、猿はきょとん、と小首を傾げた、ように見えた。そう、傍から見れば間違いなく、愛らしい仕草に見えたはずだ。
 だが――那耶には確かに、その瞬間、猿がしてやったりとばかりににやりと笑ったのが、見えたのだ。ああ、思い込みなんかじゃないとも。

「こらーッ! それ、楽しみにしてたのにーッ!」
「ウキキッ!」

 拳を振り上げて猿に駆け寄った那耶を嘲笑いながら、猿はくるりと身軽に身を翻して、人ごみの中に消えていった。鳴き声なんかじゃない、今、絶対あいつは那耶を嘲笑った。
 ぎりり、と悔しさのあまり、奥歯を噛み締める。

「せっかく柊ちゃんに並ばせたのに……ッ!」

 何しろ人気の限定温泉饅頭だから、売店は凄まじい人の列だったのだ。お土産用の箱入り饅頭はもちろんの事、その場で蒸し上げてくる蒸し饅頭は長蛇の列で、那耶は早々に並ぶ事を放棄し、柊に押し付けたのである。
 そんな苦労を(主に柊が)してせっかく手に入れた、限定温泉饅頭だというのに、ここでむざむざ猿に奪われるなど、何があっても許し難い。否、そんな天地に悖る行為が、許されて良いわけがない。

(猿、許すまじ……!)

 那耶は怒りに燃えながらものすごい勢いで売店に逆戻りすると、こちらは限定品ではない、どこにでも売っている安物の温泉饅頭を鬼気迫る表情で購入した。そうして怯える売店のおばちゃんに、ついでに籠も売っていないかと尋ねて、快く(ここ重要)売店の備品を借り受ける。
 ふふふふふふ、と地を這うような笑い声が、平和な温泉施設の一角に、響き渡った。
 まずはこの籠と安物の温泉饅頭で、猿を捕獲する罠を作ろう。あの、那耶の温泉饅頭を奪っていった食い意地の張った猿ならば、きっと簡単に引っかかるに違いない。

「ぜぇぇったいに、捕まえるんだからッ!」

 ググッ、と拳を握って吼える那耶を、温泉客がそっと遠巻きに見つめていた。





 なぜ温泉に来てこんなに疲労しているんだと、柊は自問自答していた。いや、理由はこの上なく明確に解っているのだが、それを認めたくなかった、と言えばいいのか。
 那耶に「柊ちゃん、買っといてねーッ」と早々に押し付けられて、並ばされた限定温泉饅頭の列は、この上なく長かった。人気の度合いで言えば久遠ヶ原学園の学食にある意味伝説として語られる、三種のおかずパンの方が苛烈かもしれないが、あちらはその分学生同士の熱き戦いが繰り広げられるので、解りやすい。
 だが、温泉を楽しみに来ているだけの一般客に、まさか実力行使をするわけにも行かず。じりじりとしか進まず、しかも時々「すみませーん、今から次のお饅頭を蒸しに入りますんで、しばらくお待ちくださーい。お待たせしてすみませーん」とアナウンスが入って、その列もぴたりと止まる。
 実に、肉体的にも、精神的にも忍耐が必要な一時だった。その間、少し離れた所で悠々と「柊ちゃん、まだー?」などと言っていた那耶にちょっと怒りを覚えたとて、許されると思う――面に出して怒りはしなかったが。
 柊はロッカールームの片隅に置かれた休憩用のベンチに座り、深い、深いため息を吐いた。疲れた。実に疲れた。この上なく疲れた。

(とはいえ……早く月の所に戻らないとな……那耶が居れば大丈夫だろうが……)

 1人で行動させると必ず何かトラブルを拾ってきたり、巻き込まれたり、突っ込んで行ったり、引き起こしたりする幼馴染を思い出して、苦笑いを浮かべる。放っておけばまた、言い寄ってきた男を無自覚に怒らせたり、或いはトラブルにごくごく率直で相手の神経を逆撫でしかしない爆弾発言をして怒らせたり――本人はおとなしくしているつもりだろうが、実際に大人しかった試しなど殆どない。
 やれやれと、吐いたため息はけれども先ほどとは違って、温かい。とにかく、那耶にロッカーに入れておけと厳命された持ち帰り用の温泉饅頭も、新しく空いているロッカーを見つけて仕舞ったし、あとは一刻も早く2人の所に戻らないと、今度はまた何を言われるか解らないし。
 そう、考えながら腰を上げた柊は、けれども携帯だけは見ておこうと、自分の荷物を預けたロッカーへ足を向けた。さすがに温泉にまで携帯を持って入れはしないし、こんなご時勢だからいつ緊急連絡が入っているとも限らない。
 手首につけていた鍵を差し込み、ガチャリと回す。そうして荷物の中から携帯を漁り出そうとすると、拍子に畳んで入れておいた服が幾つか零れてきて。

「お……ッと……!?」

 慌てて受け止めようとしたけれども、叶わずぱさっと落ちてしまう。やれやれと苦笑しながら拾おうとした、柊の目の前をさっと横切った、黒い影があった。
 はっと息を呑み、影が去って行った先へと鋭い視線を向ける。幾ら温泉でほぼ警戒していなかったとはいえ、柊の不意をつくなんて一体何者だ――そう思ったのだ。
 が、その先に居た影を見ては、と目を見開く。何となれば、そこに居たのは実に絵に描いたような、動物園などでよく見かける、全身毛むくじゃらで赤ら顔の、どこからどう見てもまごうかたなき猿だったのだ。
 一体なぜ、こんな街中の温泉施設に、いきなり猿。そう思ったが、最近は山の食糧不足で街に下りて来る猿や、ペットとして飼われて居たものの野生化した猿の話など、枚挙に暇がない。
 はぁ、とため息を吐いて、肩から力を抜いた。見れば猿は手にしっかりと、つい先ほども那耶の代わりに並んで買った温泉饅頭の袋を握っている。どうやら、どこかで悪さをしてきた後らしい。
 やれやれと、苦笑して柊は猿を見、どことなく人間めいた顔に語りかけた。

「おい、あんまり悪さをするんじゃないぞ。その温泉饅頭は、限定品で大人気らしいから……な……?」

 語りながら柊はふと、猿が持っているのが温泉饅頭の袋だけではないことに気がついた。真っ黒なその、布の塊のようなものにはどこか、見覚えがある気が、して――
 ほんの少し考えて、その正体を悟った瞬間、文字通り顔面から血の気が引いた。

「な……俺の下着……!?」
「ウキキッ!」

 そう。猿がしっかりと握り締めていたのは、間違いなく柊がここまで穿いてきた、黒のボクサーパンツだったのだ。
 顔色をなくした柊に、猿の鳴き声はまるで、むざむざ下着を奪われた人間の愚かさを嘲笑っているように聞こえた。恐らくさきほど、ロッカーから零れ落ちた衣類の中にそれも入っていて、そうして一体何に惹かれたものか、あの猿はよりによってそれだけをつかみ取っていったのだろう。
 こんな時だというのに、つい冷静に状況を分析してしまったのは、それだけ柊がこの事態に混乱していたからかも、しれない。

「この……ッ、返せ……ッ」
「ウキキキキッ」

 慌てて手を伸ばしたが、するりと柊の腕をかい潜って、猿は更衣室のわずかに開いた窓から逃げてしまった。もちろん温泉饅頭の袋も、柊の下着も一緒だ。
 めまいが、した。
 このままでは柊の下着が、大神楽温泉にやって来た温泉客の前に晒され、非常に恥ずかしい思いをする事になる。否、それならばまだやりようで回避出来るかもしれないが――このままあの猿を逃がしてしまって、下着が戻って来なければ、一体、柊はどうやって帰れば良いのだ?

「あの、猿……ッ」

 ギリッ、奥歯を噛み締めて、奮然と柊はロッカールームを飛び出し、泥棒猿の追跡を開始した。何としても、何としても下着を取り返して、想像しうる最悪の事態を避けなければならない。





 大神楽温泉を舞台に、かくして大捕物は始まった。

「あの猿、ほんっとーに! タチが悪いッ! 柊ちゃん、とにかく一致団結して捕まえるわよ!」
「ああ。――この世の地獄を見せてやる」

 ベシッ、と手に持った空っぽの籠を床に叩き付けながら、鼻息も荒く那耶が毒づく。目論見通り、安物の温泉饅頭に惹かれた猿が姿を見せたまでは良いのだが、猿は巧みに温泉饅頭だけを奪い取ると那耶を振り返り、ウキッ、と嘲笑ったのだ。
 そんな那耶と合流した、柊の瞳にもいまだ燃え上がる怒りと、焦燥がある。というか、どちらかといえば彼の方が那耶より切羽詰まっているわけで。
 イライラと、猿の影すら逃すまいと大人気なく、それは大人気なく撃退士として積み重ねたあらゆる能力と感覚を駆使して、温泉中を駆け巡る。そんな男女の姿に、行く手の人々がさながらモーゼの故事の如く、さぁ……ッ、と左右に避けて道を開けた。
 行く先行く先、見事に道が開いていく温泉の間を、猿が黒い布をひらひらさせながら逃げていく。反対側の手には、温泉饅頭の袋もしっかり握ったままだ。
 えぇい、と那耶は舌打ちし、猿目掛けて一足飛びに、間を隔てていた湯舟を飛び越えた。

「わ……ッ!?」
「キャアァァァッ」
「ごめんね!」

 湯舟で楽しんでいた人々から上がった悲鳴に、視線はくれずに謝罪の言葉だけを投げていく。何しろ立ち止まっていては、あの性悪猿を見失ってしまうかもしれない。
 まるで必死になる人間達をからかうように、猿は右へ、左へと遊んでいるようにめちゃくちゃに飛び回りながら、温泉の間を駆け回る。その後を追う那耶と柊はといえば、ただでさえ滑りやすい浴場に、足を取られそうで必死だ。

「わ、わわ……ッ!」
「大丈夫か、那耶……ッと!? 滑る……ッ」
「ちょっと、柊ちゃん邪魔しないでよ!」
「支えてやったんだろう!?」

 一致団結して猿を捕まえるどころか、早くも連携の危機だった。
 その間にも猿は人々の群をものともせず、寧ろ好都合とばかりに身軽さを活かして頭の上を飛び越え、足元をすり抜けて逃げていく。あげくの果てに、温泉でくつろいでいる人々の上を飛び跳ねて逃げていくのだから、お手上げだ。
 だがその、自由なように見えて無計画な逃亡が祟ったのだろうか。ハーブティー風呂を飛び越えたところで猿は、行く手が壁であることに気付いて動きを止めた。きょろ、と左右を見回して、どちらに逃げれば良いのか考えているようだ。
 よし、と走りながら柊と那耶は頷き合った。

「二手に分かれるぞ!」
「了解!」

 どちらがどうとも決めぬまま、2人は絶妙の呼吸でハーブティー風呂の右と左に回り込んだ。今の猿の動きで湯舟からは人が消えている。追い詰めるなら、このタイミングしかない。
 猿が追い迫る人間に気づき、慌てて左へ、つまり柊の回り込んだ方へと身を翻した。その先には露天風呂へと続く窓がある。逃げ切れると踏んだか。

「させるか……ッ!」
「柊ちゃん、捕まえてッ! 逃がさないでッ! 絶対、捕まえなさいッ!」

 これ以上なく速度を上げ、死んでも逃がすかと気合いを篭めて猿を睨む柊に、那耶の叱咤が飛ぶ。飛ばしながら、那耶自身も湯舟を飛び越えて、逃げる猿を追い詰める体勢だ。
 クッ、と柊は声を漏らした。

「捕まえろって……やたらすばしっこい……!」
「そこを何とかするのが男でしょーッ!?」

 こんな所で男の何たるかを図られても、世の男性諸氏は困るに違いない。
 えぇい、とやけくそで柊は猿目掛けてタックルをかました。だが間一髪のところで辛くも逃げられ、虚しく浴場の床にズザザザザーッ、と滑る。アウルに目覚めてなければ大惨事になる所だ。
 だが、逃げた先には仁王立ちの那耶が待っていた。ニヤリ、笑って両手に構えた洗面器を、猿目掛けてフルスイングで振り回す。

「私のッ! 温泉饅頭ッ! 返しなさいッ!」
「俺の下着も返せ言うてるやろ……!!」

 那耶の言葉に、柊も負けじと果敢に立ち上がって、紙一重で洗面器をかわし続ける猿に本気で殴り掛かる。人間の尊厳? 動物愛護? この期に及んで、この猿を捕まえられなければよほど、柊の尊厳が損なわれるのに構ってはいられない。
 怒れる2人の撃退士を相手に、あわや猿の命運もこれまでかと思われた。だがその時、どこまでも場違いに平和な、のんびりとした声が「あれ……?」と殺伐した2人と1匹にかけられる。

「2人共どうしたの……?」
「月!」
「咲月姉!」
「……? ぁ……お猿さん……ここに居たんだ……?」

 お菓子をふよふよさせながら、いつもと変わらぬ調子でそう言ったのは、咲月だった。小脇にはスケッチブックを抱えていて、追い詰められた猿を見て嬉しそうに目を輝かせている。
 咲月姉? と那耶が仁王立ちで洗面器を勇ましく構えたまま、首を傾げた。

「咲月姉も猿に何か取られたの?」
「お猿さん描くの……おいでおいでー……」
「え……咲月姉、あれ描くの?」

 その言葉に、那耶と柊は顔を見合わせ、それから恐る恐る咲月へと向き直る。よりによってあの、散々な目に合わされた、人間を小馬鹿にするにもほどがある、忌ま忌ましい猿だって?
 冗談じゃないと、引き攣りながら2人は揃って首を振った。

「いいよ、猿なんて……あんなの可愛くないよ〜」
「月、被写体なら他にももっと、相応しいものが幾らでもあるだろう?」
「そう……? 個性的だよ……?」

 だが、咲月はその言葉に本気で首を傾げる。彼女にとっては、この猿は運命的に巡り会えたといっても過言ではない、実に独特で愛嬌があって面白い猿、なのだ。
 だからあくまで己の興味の赴くままに、お菓子を差し出して振りながら、おいでと猿に呼び掛ける。その言葉のどこが通じたのだろうか、あるいは咲月個人の独特の雰囲気が為せる技だったのか。
 あれほど暴れ回り、逃げ回っていた猿は、大人しく咲月の傍に歩み寄ると、しおらしい様子で差し出されたお菓子を手に取り、その場で黙々と食べ始めた。嘘だろう? と顔を見合わせる2人をよそに、マイペースにそんな猿の頭を撫でていた咲月は、ふと猿の傍らに置いてあるものに、気付く。
 お菓子を食べるために床に置いた、温泉饅頭の袋と黒のボクサーパンツ。

「ほら、2人に荷物、返して……?」
「ウキィ……」

 咲月が語りかけると、猿は驚くべき事に、大人しく頷くと柊と那耶から奪ったものをそれぞれ、差し出してきたではないか。これはもはや冗談だろうかと、受け取りながら2人は引き攣った笑顔の下で真剣に考える。
 そんな複雑な視線に見守られて、あくまでほのぼのと咲月は猿を撫で、そうしてスケッチを始めたのだった。





 数十分後。

「精神的にどっと疲れた……」
「同じく〜……」

 スケッチが終わるまで大人しくそこに留まり続け、他に悪戯をする事もなく、終わった後は大人しく窓から外へと出ていった猿を見送って、柊と那耶は同時にその場に崩れ落ち、ぐったりと呻いた。あの怒涛の追いかけっこは一体、何だったというのだろう。
 対する咲月は1人、念願の猿の絵が描けたことにご満悦だ。自身が描いた絵を何度も見ては、お猿さんー……、と嬉しそうに呟いている。
 そんな様子を見ていると、ますます色んな事が馬鹿らしくなった。必死の思いで取り返した限定温泉饅頭も、すっかり冷めてしまっていることもあって、もはや食べる気も起こらない。
 あ〜ぁ、と那耶はもう一度ぼやいた。

「疲れた……。なんか美味しいもの、食べた〜い!」
「私もお腹空いたー……」

 その言葉に、空腹だったことを思い出した咲月が一緒に手を挙げる。そう、思い返せば彼女が温泉に来るなり空腹を訴えたことが、すべての始まりだったのだ。
 そう思い、柊はしみじみとこの幼馴染の、無自覚なトラブルメーカーぶりを噛み締めた。噛み締め、月だから仕方ない、と思ってしまう自分に苦笑する。
 よッ、と立ち上がって、柊は2人を振り返った。彼も実のところ、散々走り回ったおかげでお腹がすっかりすいている。

「近くに美味しい京料理屋があったな……行くか?」
「さんせーい! もちろん柊ちゃんの奢りだよねッ!」
「おー……奢りー……」
「――何でそうなるんだ? まぁ……とにかく、行くか」

 そう、頷き合って3人は、着替えるべくロッカールームへと歩き出した。もう当分、温泉は懲り懲りだと思いながら――上機嫌で『またお猿さんに会えるかなー……』と考えている咲月以外。





━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
━┛━┛━┛━┛━┛━┛
【整理番号 /  PC名   / 性別 / 年齢 /     職業     】
 ja0156  / 常塚 咲月 / 女  / 18  / インフィルトレイター
 ja1082  / 鴻池 柊  / 男  / 20  / アストラルヴァンガード
 ja5314  / 四条 那耶 / 女  / 16  /    鬼道忍軍

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
━┛━┛━┛━┛━┛━┛

いつもお世話になっております、蓮華・水無月と申します。
この度はご発注頂きましてありがとうございました。

皆様の、パニック満載の温泉物語、如何でしたでしょうか。
素直に申し上げますと、書いていて非常に楽しく、楽しく、楽しいお話でした(ぁ
そんな訳で楽しく書いているうちに、いつの間にかあんなことになっていた訳ですが……さすがにやりすぎたかと、書き終わってから戦々恐々としております;
もしほんの少しでもイメージの違うところがございましたら、いつでもお気軽にリテイク下さいませ(ぺこり

皆様のイメージ通りの、どたばたな温泉バカンス(?)ノベルになっていれば良いのですけれども。

それでは、これにて失礼致します(深々と
■イベントシチュエーションノベル■ -
蓮華・水無月 クリエイターズルームへ
エリュシオン
2012年10月30日

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