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『『the worth within tungsten』 』
水嶋・琴美8036)&(登場しない)

 水嶋琴美には、好きなジャンルというものがない。
 例えば彼女が今携帯プレイヤーで聴いている音楽にしても、世間的な区分けで言えば、クラシック、アイドル歌謡曲、ガレージロック、大昔のフレンチポップスと全く統一感がなかった。だが不思議な事に、高尚な交響曲も低俗な流行歌も彼女の前では等しくキラキラと輝いた。それは彼女がいかにも楽しそうに聴くから。ただそれだけに他ならない。基準や線引きといった俗的なものでは、何者もその価値には侵入出来なかった。
 雑貨屋が並ぶ大通りに、こぢんまりしたカフェが一件紛れている。そのオープンテラス席、葉が飾り付けられた木柵のすぐ側に、黒髪をアップスタイルにまとめた琴美が座っていた。控えめなリボンがついた白いカットソーの上にサックスブルーのニットソージャケッドを身に付け、モカの短いプリーツスカート、そしてベージュのロングブーツを履いている。つまり、春だった。
 心地よい日差しの下、イヤホンから流れる曲に幸せそうな笑顔を見せながら、柔らかいカバーで覆った文庫本を読んでいる彼女。通りゆく人々の誰もがこの風景に心惹かれた。そして男女を問わず、まるで幼い子が抱くような、彼女ともっと一緒に過ごしたいと思う、そんな素朴な恋がいくつも芽生えた。もちろん組まれた足に見える肉付きのいい太ももや、薄い生地を押し上げるボリュームある胸も彼女の魅力には違いなかったが、休日の水嶋琴美が振りまく淡い恋心にはなかなか敵わなかった。
 カップに残ったエスプレッソをコクリと飲み干すと、彼女は席を立った。伸びをしてから腕時計を見て、そろそろお店が出てくる時間だな、と確かめた。日々苛烈な任務をこなす琴美のたまの休日、その目当ての場所へ、彼女はカフェの支払いを済ませ上機嫌で歩いていった。

 都会の街並みにぽっかりと開けた緑がある。そこは広大な面積の公園で、都市に生きる人々が束の間の休息を得る空間だった。週末には散歩やサイクリングを楽しむ人々が行き交い、運動場目当ての家族連れや野外イベントのために訪れる若者も多かった。その敷地に沿うように、屋台がよく出る。どれも安い食べ物を扱う屋台で、儲かっている感じもなく、見た目も冴えなかった。
 彼女が訪れたクレープ屋もその内の一つだ。ピンクに青文字の幟が揺れる野暮ったい雰囲気で、奥には手拭いを頭に巻いた四十半ばの男が無愛想に立っている。他に客はいなかった。琴美はここで、必ずシュガーバタークレープを買う。具など入っていない、一番安いメニューだ。しかし、ここのは美味かった。できたてを頬張ると、バターの芳ばしい香りとトロっとした甘みが広がって、たまらない。
「いつもの、お願いしますわ」
 男は返事もせずに準備を始め、自分の手元をじっと眺めるこの常連の顔を、ちらと盗み見た。彼女がいつ頃からここへ来ているのかは、覚えていない。もう幾分長い気がする。彼は自分の味には自信があったが、この美人が何故足繁くこんな屋台にやって来るのか、本当のところはよく分からなかった。男は無口だったし、女も毎回先の台詞しか口にしないため、互いの事は全く知らないのだった。
 しかし、それで良かった。このかけがえのない時間は、そうして出来上がっていた。彼女はクレープが作られていくその前で、それはそれは嬉しそうにしていた。彼が何十何百と焼き上げてきた姿を、その都度飽きもせず、いつも誕生日プレゼントをもらう少女のように見つめていた。男は顔にこそ出さなかったが、誇らしかった。自分の培ってきた技術は、全て彼女にこれを作るためにあったのだと、生地を引く度に思った。彼女が自然とそう心を動かした。

 琴美は熱々のクレープを手に、園内の芝生に置かれたベンチに座った。今度こそじっくり味わおうと決めていたが、一口頬張ってうっとりした後、パクパク食べてしまった。彼女は遠い目をして、後悔と満足が入り混じった嘆息をついた。その時、ふと向こうにある大きな木の下に、男の子と女の子がいるの認めた。
 二人とも、小学校に上がるか上がらないかの年頃だろう。少女の方がちょっと小さいかもしれない。彼女は泣きべそをかいているようだった。それを少年が話しかけたり、鞄に入っていた玩具を触らせてやったり、あげく面白い動きをして見せたりして、何とか慰めようとしているのだが、彼女はなかなか元気にはならなかった。終いに少年は自分も落ち込みそうな顔をしていたが、突然何かを決意した眼差しを見せて、横にある木に手をかけた。その木は非常に背が高かったが、彼は一生懸命登り続けて、ついにてっぺん近くにまで行ってしまった。琴美が心配そうにしている先で、少年は声を張り上げた。
「おーい!」
 彼は女の子の名前を叫び、そのお父さんとお母さんを呼んだのである。それはまさしく、彼の精一杯だった。声は届いた。聞こえた周囲の大人達が一斉に伝えあって、すぐに両親が駆け付けた。二人は娘を抱き上げ、少年に何度もお礼を言った。女の子は親に会えて緊張が解けたのかますます泣き出してしまったが、最後には少年に可愛らしく手を振っていた。
 彼はそれを見送ると、一人になった。そして近くにあったベンチに座り、退屈そうにしていた。それから持っていたゲーム機をいじり始めたところで、琴美は立ち上がって近付いていき、少年に呼びかけていた。
「ねえ。どうして女の子に声をかけてあげようって思ったの?」
「お姉ちゃん、誰?」
「ことみ。ねえ、どうして女の子を助けてあげたの?」
 彼女には、何の躊躇もなく子供と対等に話す能力があった。少年も最初は怪訝な顔をしていたが、琴美の調子があまりに友達然としていたため、何とはなしに会話を続けられた。
「うん、とても悲しそうだったから」
 悲しそうだったから!
 琴美はびっくりした。そしてその言葉にこそ、巷に溢れる安っぽい憐れみではない、何かこの世の真実があるような気がした。その一言で、彼女はいっぺんに少年を好きになってしまった。
「君は、誰と一緒にここへ来たの?」
「兄ちゃん。でも兄ちゃんは大切な用事があって、僕は一人で遊んでるんだ」
 彼は少し得意げで、少し寂しそうである。
「ねえ、クレープ好き?」
「え、うん」
「よし、買いに行こう」
「いいの?」
「好きなんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、行こう」
 屋台の親父は子供を連れて戻ってきた彼女に面食らったが、普段通り顔には出さなかった。
「何味がいい?」
「そうだなあ。チョコ!」
「もっと美味しいのがあるわ。いつもの二つ、お願いしますわ」
「何だ、なら聞かないでよ!」
 琴美は笑っていた。彼女にはこういうところがある。

 少年は白い長袖のポロシャツにグレーのベストを着て、黒のコーデュロイパンツを履いていた。髪は短く切り揃えられていて、いかにも元気いっぱい自信たっぷりという顔つきの、絵本から飛び出してきたような男の子だった。
 彼はゲームに自信があるらしく、ベンチに戻ると二人でクレープを食べながら、携帯ゲーム機で遊んだ。少年が琴美にあれこれと指示を出すのだが、生まれてこの方テレビゲームなどした事がない彼女は、なかなか上手に操作出来なかった。
「もう! ここで同時押しだってば! お姉ちゃん、不器用だなあ」
「不器用って言われたの、初めてだわ」
 琴美はムスッとした。少年はムキになる彼女がおかしかった。
「大体この方はもっと跳躍力を磨くべきよ。横に動くだけでは簡単に捉えられて当たり前ね」
「そんな事しなくたって、こいつは最強なんだよ」
「全然最強じゃないわ。私だったらこんな任務五分とかからないもの」
「あはは。お姉ちゃんも剣士なの?」
「ううん。忍者よ」
「にんじゃ?」
 少年は急に黙った。琴美が訝しがって彼の方を向くと、その大きな目を丸くして、緊張した面持ちでこちらを見ている。どうしたのと彼女が聞こうとしたところ、少年がごくりと唾を飲み込んで、何か重大な事を打ち明けるように、小さな両手で口を覆い耳打ちしてきた。
「あのね、内緒なんだけどね、僕夢があるんだ。それはね、忍者になりたいんだ」
 彼は、真剣な目をしていた。琴美が何も言わないでいると、口の動きだけでに・ん・じゃ、と伝えてきた。彼は常に懸命そのものなのだ。それを感じた彼女は決して笑わずに、うんと頷いたのだった。
 少しして少年とは年の離れた兄がやってくると、そこには目の覚めるような美人と、かけっこのスタートなのか、空手の型なのかを練習する弟の姿があった。彼にはもちろん全く状況が掴めなかったが、突っ立っていても仕方がないので、挨拶をする事にした。
「すみません、遊んでもらっちゃって。ご迷惑おかけしたでしょう?」
 すると彼に気が付いた少年が、大真面目に憤慨する素振りを見せた。
「あ、兄ちゃん。遊びじゃないよ! 修行さ! お姉ちゃんはね、忍者なんだ」
「忍者だって?」
「しー! 秘密なんだよ! 当たり前でしょ!」
 驚いて女性に目を向けてみたが、彼女は恥ずかしがるどころか泰然と微笑んでいる。その凛とした表情からは、歌劇に出てくるような優雅さと、誰にも揺るがせない自信が溢れていた。彼はあっという間にその瞳に飲まれ、ひょっとすると忍者というのは本当なのかもしれないと信じかけて、必死に頭を振った。
「えっと」
「ことみお姉ちゃん」
「ことみさん、僕にはちょっと分からないんですが、これは一体……」
「セイからドウなんだ!」
 仰々しく言って、少年はへんてこな動きを繰り返した。
「ドウからドウは、動く前にばれちゃうから。だからセイからドウなんだよ!」
 兄には何が何やらさっぱりだった。しかし弟は大興奮で喜んでいるし、彼女からは素直な性質が伝わってきたため、まあいいかと見守る事にした。二人は気持ちよさそうに走り回っていた。やはり何をやっているのかはちっとも理解出来なかったが、それは綺麗に思えた。
 やがて空が朱色になった。彼は、大声で別れを言う弟に応えた琴美が、ささやかなウィンクをしたのを見て取った。少年は彼女と、何か大切な、鮮やかな色合いのものを得たようだ。その特別な価値は、二人にしか分からない。とても貴重で、宝石のように煌めいている。

 水嶋琴美は通信端末が受信した情報を確認した。新しい任務に関する指示である。次はどんな事と出会えるだろうかと、彼女は心躍らせた。
 琴美にとってこれは、決意を新たにしたり、気持ちを切り替えたりする類のものではない。もう終わろうとしているこの澄み渡った一日が、目を上げれば、地続きで明日へと続いているのだ。公園に春風が吹くと、もうそこに彼女の姿はない。琴美はとっくに次へと向かっていったのである。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
JOEmasa クリエイターズルームへ
東京怪談
2012年12月30日

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