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『混じり合う水 』
海原・みなも1252)&(登場しない)



 学校帰りに湖へ寄った。
 ここは昔からあたしが一人で遊んでいた場所で、人魚の力に目覚めた頃は毎日のように来ていた。
 肌寒くなってきた季節なのに、ここは豊饒な土の匂いと、透明感のある葉に包まれていた。
 風はなく、湖は凛と咲く花のようにそこにある。
 嘘か本当か知らないけれど、この湖には精霊が住むという。確かに、あたし以外の人間をここで見たことがなかった。
(だから、よくここに来たんだよね)
 人魚の力に目覚めたとき、毎日が不安だった。
 自分の身体が変わってしまったという不安、人間の世界から弾かれてしまったような疎外感からくる不安、人魚の世界と馴染めるのかという未知への不安……。
 人間にも人魚にも、あたしを受け入れてもらいたかった。
 だけど、誰にも見られたくなかった。事実と向き合うのはとても怖いことだった。
 人のいない湖は、あの頃のあたしを癒してくれた。
 ――久々にここへ来たのには理由がある。

 水が恋しい。
 水が恋しい。

 先日からあたしは激しい飢えを感じていた。
 臓器から、皮膚から、喉から、心から、あたしは水が欲しかった。欲しくて欲しくてたまらなかった。
 人魚の本能、なんだと思う。
 何かが変なのだ。あの羽に冒された日から――、

 夕暮れの湖はオレンジの光を受けてキラキラと輝いていた。
 あたしは服を脱いで湖にそっと足だけ浸からせた。
 季節柄、水は冷たいだろうに、寒くない。水は生温かくさえある。
 まるで、水という一つの巨大な生命が、湖の底で蠢いているよう――。
 ……ふう、と小さく息を吐く。
 本能が自然にあたしを人魚の姿へと変えていく。二本の足首は鱗で覆われ、一本の太い尾ビレへと。
 程度の差はあれ、変化への痛みは完全に消えてなくなることはない。決して。
 なのに心地良い。頭の中で白いモヤがかかり、あたしの感覚を鈍らせる。
(これが人魚としての……)
 あたしの中で一個の生命が跳ね踊る。
 人魚という生き物に、あたしの身体は支配されているのだと思う。
(人魚も人間も、どちらもあたし自身なのに……時々、わからなくなる)
 ズクズクと、皮膚が疼きだす。言い知れぬ不安を呑み込み、飢えて飢えて、目を覚ます。

 天使が産声を上げる。

 オレンジの光を浴びた、薄い皮膚から、白く小さな羽が咲きだした。
 繊細そうな、透明感のある白い羽らが、ふるふると震えて、更なる羽を呼び込んでくる。
 太く分厚い尾ビレから、羽が出てきた。鱗という蕾を破り、弾むように羽ひらく。
 湖はそのたびに波紋を作り、水面に大きな花びらを作っていく。
 ――痛い!
 いたいたいたいたいたいたい。たすけてたすけてたすけて。
 唇から激しい音が溢れていく。あたしの悲痛な声も、羽の群れに呑まれていって、そこは白い塊しかない。
 羽がブルブルと踊り狂い、歓喜の言葉を語りだす。
 すてきよ、みなも。すてき、すてき。いのちの、たんじょうなの。

 ねえねえみなも、いたいの、いたいの?
 ほんとにいたいの? もう 大丈夫 なんじゃない?
 いたくないよね、いたくないよね。
 みなも、みなも。もういたくないでしょう? ほんとは ずっと前から――……、

 耳の奥で、ゴウゴウと、風の音がする。
 羽の言葉が、聞き取れない。

 耳の奥で音がして止まないのは、そこから羽が生えてきたからだった。
 歯の間から、羽たちが目覚め出ていく。
 舌の小さな突起を種に、羽が狂い咲いた。
 口を閉じても、間から出ていく羽たち。
 あたしは強い渇きを感じた。羽が生えても羽が生えても羽が咲いても羽が震えても、まだまだ。まだまだ欲しい。
 ゴウゴウ、ゴウゴウ。
 視界が白く覆われてきた。目も羽に冒されているんだと思った。
 ――だけどそれがなんだっていうんだろう。
 太陽が昇れば、花が咲く。
 誰がそれを止められるっていうんだろう。

 そうよ、みなも。みなもが正しい。
 だってもう、わたしたちは みなも そのもの になるの。
 みなもはわたし。わたしはみなも。そうなるの。

 風の音の外で、羽が何か騒いでいる。
 聞き取れないけど。
 頭の中が真っ白になって、軽い頭痛がする。
 もうなにもかんがえられなくなってしまう。

 きこえない? きこえないの、みなも?
 みなも、みなも。みなもみなも。
 きこえるはずよ。あなたの 耳は 羽という せいじゃくの みずのなか。
 さあ、目をこらして。しろく すきとおった 羽の目で。

 白く冒された空間から、確かに見た。
 半透明の柔らかな肌をした天使を。
 彼女はあたしの羽の塊と違って、絵本に出てくる天使のように気高く見えた。
「みなも。私と一つになりましょう」
 穏やかな声が、あたしの中に響き渡る。胸の中で淀みなく染み込んでいくその声は、あたしそっくりだった。
「あなたは私。私はあなた」
 彼女の指が、あたしの羽先に触れた。指の爪と白い塊が混じり合い、砂の城のように崩れていく。
 嗚呼と、吐息一つ零れていった。
 ほろほろと、落ちていくあたしと彼女の砂たちは、湖の底で一つになった。
 水はうねる。あたしと彼女と湖が一個の生命になるように。
「参りましょう」
 陽だまりのように温かな話し方。
 相反して、あたしの身体は激しい痛みに襲われた。
 のたうち回る身体もなく、あたしは涙をぽろぽろと流した。それも湖に溶けてしまった。
 いや、涙も彼女に溶けてしまった。
 彼女の声に包まれて、それはとても居心地が良く。
 痛みも辛さも彼女の声に溶かしこまれてしまったよう。
 崩れたあたしたちの身体。こうして混じり合っていると、胸の中で込み上げてくる感情がある。
 これが歓びということなのだと、彼女は言った。
「これでもう大丈夫。あなたは私。さあ、心の目をあけて」

 夕闇の中で、あたしは陸に上がっていた。
 濡れた肌には土が張り付いて、蒸れた自然の匂いがした。
 足が二本あった。裸足には土の感触が気持ち良かった。ひんやりとした土に触れたことで、今の季節を思い出した。
 ――羽は一枚もなかった。
 肌についた土を払い……こんな状態なのにあたしは落ち着いている。
(さっきのことが何だったのか……わからないけど……)
 天使病は怖いものではないと思った。

 なぜなら、
 あたしはあなた。
 あなたはあたし。
 


終。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
佐野麻雪 クリエイターズルームへ
東京怪談
2013年02月04日

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