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『『past gone』 』
水嶋・琴美8036)&(登場しない)

 時計が時間を進める音が聞こえた。しばらくして、また聞こえた。しかし針はいずれ、再び同じ位置にまで戻るだろう。そして休む間もなく、何度でもそこを目指して進み続けるのだ。同じ針の位置、それを区別する術を人は知らない。同様に、その動きが果たして進んでいっているのか、戻っていっているのかも、判断する事が出来ない。時計ももちろん、分からないだろう。時計はそう作られたからだ。同じ場所をぐるぐると回り、ただそれぞれの角度を意味ありげに作り出すだけで、全体としては完全な円の中をどこにも逃げられないように、作られたからだ。
 水嶋琴美は、またここで目を覚ました。高い位置にある窓から差し込んだ光が、大量の棚の合間を縫ってこの狭苦しい部屋を照らしていた。ぼんやりとした陰影が空気中の埃を映し出していて、とにかく静かだった。目の前の机には文書や書類が山のように積まれていたが、目を向けてみてもそれらは全く統一した意味をなしておらず、恐らくこの独房のような部屋にある全てがそうであるように思われた。彼女はその事にうんざりし、本当に覚醒したのか判然としない意識のまま立ち上がって、外へ出ていった。
 扉を開けた途端、真っ白い壁が視界が塗りつぶした。それから人々の足音や会話が耳に入ってきて、あっという間に商社ビルの小綺麗な廊下という景色が出来上がっていた。通り過ぎていく人々、彼らは確かに見知った顔のようだったが、同時に全くの他人である事も明らだった。その奇妙な感覚は既視感に似ていて、それこそが彼女がこの世で一番よく知っているものに違いなかった。
 春らしいベージュのスーツを着た、ロイヤルブラウンのショートボブの女性社員が、すれ違いざまに「お疲れ様」と言ってきた。白い歯を見せ、口から目元にかけてふわっと表情が持ち上がる、花のような笑顔だった。対して琴美は、口元だけ微笑んで挨拶を返した。そして足早に化粧室へと向かった。
 そこは臭いも汚れも一切存在しない、まるで高級レストランにあるような化粧室だった。琴美はすぐに鏡を睨み付けた。人が人の顔を美しいか判断する時、最初に目に付くのは左右の対称性だという。彼女の顔の造形は均整で、非常に美しかった。照明の具合で無表情に見えるのもあり、まるで作り物のように完璧だった。細く、しっかりとした線の鼻筋と眉。豊かな睫毛で彩られた、切れ長の鋭い瞳。それからシャープな輪郭を長く真っ直ぐに伸びた黒髪が包んで完成したその相貌は、優美と評するにもあまりに隙がなさ過ぎた。
 襟を立てたブラウスの首元は開放的に開いていたが、黒いタイトスカートスーツが身を引き締めており、豊かな胸も、くびれた腰も、大きな尻も、シルエットからすぐに知れた。太ももから顕わになっている肉感的な脚は、バックシームのある色っぽい黒ストッキングに包まれている。と、後ろ姿まで確かめて、琴美は違和感を覚えた。
 何故かこの化粧室は背後にも手洗い場があり、合わせ鏡になっていたのだ。振り向いて見ると、そこには無数の水嶋琴美が立っていて、こちらを、あるいは向こうをじっと眺めていた。彼女は口を開けてみた。鏡の中の女達も皆、口を開けた。桜色の唇の奥に更に鮮やかなピンクの舌が顔を出して、前歯の裏を撫でた。全て同じように艶めかしく、全て同じように蠱惑的だった。その内に琴美は諦めたように目を伏せた。そうして、さっさとその場を後にした。

 雨は上がったらしい。大気に溶けた水と夕焼けが混ざり合い、世界が黄金色に染まっていた。溢れかえる光彩が何もかもを飲み込んで、ビルも、街路樹も、彼方の空も、全て暴力的に輝いていた。琴美はそれを切り裂くように、暗いメタリックブルーの車で走った。コンバーチブルタイプのスポーツカーで、アクセルを踏み込むと心地よい独特の甲高い音を響かせる。信号で止まるのが惜しいくらいだったが、首都圏の中心に網を張る道路では致し方なかった。
 オペレーターから連絡が入ったのは、その時だ。
「琴美さん、お帰りのところ申し訳ありませんが、今すぐこの地点に向かって下さい」
 ハンドルの脇に備え付けられた端末に、ポイントが表示された。さほど離れてはいない。
「どうしたの? 焦っているようですけれど」
「十三分前に武装集団が日本銀行の現金輸送車を襲撃しました。既に警備会社や警察の人間に死傷者が出ています」
「警察がもう動いているのでしたら……」
「警察は始めから動いていました。予告がありましたから」
「現金輸送車襲撃に、予告が?」
「当然、真に受けてはいないようでした。一応動きを掴んでいるテロ組織と照合していましたが、何も出てこなかったみたいですし。不可解な話ではありましたから、うちも警察の行動をチェックしながら調べてはいたのですが、こちらでもそれらしいものは見当たりませんでした。ですから警備も通常のものに毛が生えた程度で」
「だけど本当に起きた。状況は?」
「武装集団の人数は五人前後。彼らの車両の足止めには成功したようですが、その後『押し切られる』と通信が入っています。警察の応援部隊は、付近の避難と封鎖を優先的に行っていて、現場が混乱しているために詳しい情報が入ってきていません」
「押し切られるって、重火器でも持っているのかしら」
「自動小銃は、確実に。どのような組織なのかは現在調査中ですが、一切分かっていません」
「うちでも?」
「すみません。情報は逐次」
「了解。すぐに向かいますわ」
 オペレーターを含め、上は大分慌ただしいようだった。しかし琴美にはそんな様子が一切なかった。このような事態には慣れているという風で、むしろ起こる事を知っていたと言っても不思議はないくらいだった。彼女は、そんなような顔をしていた。
 信号が変わると、タイヤが激しく音を立ててUターンし、車体は瞬く間に遠くへ消えていった。交差点にはいくつものクラクションの音だけが、取り残された。

 現場には十五分程で着いた。煙がビル間に見え、辺りは異様な雰囲気に包まれていた。締め出されたマスコミが人々に話を聞いている。琴美は車を置いた場所を本部に伝えながら、人混みの中を歩いていった。その歩み、颯爽としか表現のしようがない彼女の歩き方は、それだけで人々に注意を与え、その場から立ち退かせる見えざる力を持っていた。警備に立っていた者は、バリケードテープを平然とくぐるその姿を、呆気にとられて見送るしかなかった。
 大通りから脇へ入る所で、散発的にではあるが銃声が聞こえてきた。戦闘が継続している、と彼女は耳に装着した通信機に報告しようとしたが、それを遮るように野太い怒声が響いた。
「おい! あんた、何入ってきてるんだ!」
「特務統合機動課よ」
「特務統合? そんな課は警視庁にはない。早く避難しなさい!」
 琴美が面倒くさそうに嘆息しようとした時、重装備の警官の肩をコートを羽織った壮年の男が掴み、「やめておけ」と険しく吐き捨てた。そしてはっきり首を振り、隠そうともせずに口を開いた。
「自衛隊の化け物だ。関わらん方がいい」
「自衛隊って、でもこんな格好の女が現場に……」
「通りを固めておけ。早く」
 彼が顎で指すと、男は不満げではあったが、無線に向かって怒鳴りながら向こうへ行ってしまった。
「……うちの人間には出来るだけ被害を出さんでくれ。負傷して残されている者が何人かいる」
「もちろんですわ」
 中空に向かって、琴美はうっすらと笑った。
 彼女の去った後には、強い女の香りが残された。この日は風もなく、それはいつまでも漂っているように思われたが、もしかすると意識の問題なのかも知れなかった。彼女の笑顔、それが脳裏にこびりついて離れないのと、同じような問題だ。
 銃声、衝撃音、怒号、ざわめき、立ち上る煙、その全てが黄金色の光に飲まれていた。状況は刻一刻と変化しているはずなのに、一歩引いた光景は封をされたように変わらない。その表面を、水嶋琴美の影だけが、墨の流れのようにゆったりと動いていた。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
JOEmasa クリエイターズルームへ
東京怪談
2013年05月01日

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