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『『some nights』 』
水嶋・琴美8036)&(登場しない)

 夜になっても暖かかった。風が吹くと涼しさも感じた。つまり一日がいつでも眠気を誘うような季節になっていて、それは上に立つ者として机上での仕事が多い彼女にとっては大変な問題とも言えた。
 しかし、時に部下達から辟易される程の堅物である彼女は、責任ある立場として仕事中に弛んだ態度を見せる事は決してなかった。その反動だろう。何の拘りもなさそうな国産大衆車を地下駐車場に置いて、自宅マンションのエレベーターに向かう今くらいが一番危なかった。普段は人を寄せ付けない程に聡明な彼女、その凛とした顔立ちがぼけっとしていて、知性を感じさせていた鋭い縁なし眼鏡もだらしなくずり落ち、皺のないグレーのパンツスーツの前は全開で、中の淡いブルーのブラウスは下着が見えるくらいボタンを外してあった。
 だがこうして後ろでまとめた髪を左右にふりふり歩いている彼女も、その耳で少しでも足音らしきものを捉えた時には、たちまち姿勢を正し目にも止まらぬ早さで身だしなみを整えてしまうのだった。要するにこの壊滅的にだらけた姿は彼女なりの効率的な、全力を注いだ体力回復であり、これもまた重責かつ激務を与えられた自衛隊特務統合課長としての極めて勤勉な生活態度なのである。そうに違い。
 高層マンションの二十五階に彼女の部屋はあった。長い通路を歩くと心地よい夜の空気が肌を撫で、辺りはいつも静かだった。人の気配がまるでない。ここは、不動産投機の流行により部屋は飛ぶように売れたが住人はいないという、最近よく見る虚ろな建物だった。とはいえ、彼女はこの孤独と気楽さを気に入っていた。そしてそれを堪能するように、もやもやと欠伸を繰り返していた。

「あー、疲れたよー。疲れた疲れた疲れたー」
 玄関に座り年甲斐もなくだだをこねながら靴を脱いだ直後、彼女の顔はさっと青ざめた。最初に走った違和感は、匂いだった。悪臭ではない。それは花の香りのようなかぐわしいものだったが、とにかく知らぬ匂いだった。自分一人の生活空間からそんなものがするというのは、言葉に出来ない恐ろしさがあった。
 彼女は全神経を集中し、ゆっくり暗闇の中を振り返った。眼鏡を上げて目を凝らしたが、向こうは暗く何も見えない。毎日裸足で行き来する廊下が今はまるで口を開けた異界のように思えて、胃を素手で包まれたような嫌な気分がしていた。
 それでも、その表情は既に戦う人間のものになっている。彼女は戦闘技術のプロではないが、職業柄こうした事態への心構えは常から出来ていた。鼻でゆっくり空気を吸い、吐いたところで壁際に張り付くと、音もなくリビングの入り口まで移動して電気を点けた。
 しかし無音、防音設備も完備しているこのマンションが提供する真の無音だった。脇のバスルームから手鏡で様子を伺った彼女は慎重に室内に入り、その沈黙の中で脂汗を垂らした。テーブルの上に見た事もない陶製の花瓶があり、バラが何本も刺さっていたのである。いや、それだけではない。部屋の家具、テレビやソファ、棚や観葉植物、カーペットや壁に掛けてあった絵画までが、朝と全く違う配置になっていたのだった。
 彼女は今更ながら、この馬鹿高い家賃を要求するマンションの、厳重なセキュリティを思い起こしていた。そしてこの不可解な見慣れぬ部屋が、何の変哲もなかった今日という現実の薄皮一枚向こうにある奇妙な世界に思われて、くらくらと目眩を感じた。
 その時だった。後ろから女の両腕が彼女を絡め、声を出す間もないくらい瞬時にして巧妙に拘束してしまった。首筋にはしっとりと吸い付くような掌の感触が、鼻孔にはバラのものとは違う甘ったるい香りが流れ込み、最後に耳のすぐ側でひそひそ声が囁かれた。
「家だと結構子供っぽいのね、課長」

「琴美!? ちょっと、琴美なの!?」
「汗の匂いはこんなにやらしいのに」
「あなた何のつもり? 離しなさい!」
「疲れたよー、だって」
 琴美は声を真似て笑いながら、彼女のうなじをくんくん嗅いでいた。顔を固定され振り向く事も出来ない彼女は、もがきながらも必死に冷静さを装い、悪戯した子供に注意するように警告を繰り返した。
「ねえ聞いて。すぐにその手を離しなさい。怒るわよ」
「あっ、その顔」
「顔?」
「課長って怒った顔をした時に、うーって口角を上げるでしょう? そして片方に小さなえくぼが出来る。でもそれはいつもってわけじゃなくて、偶然でもないのよね。私、分かってますわ。それは課長がそうしようとした時にだけ出来るんですわ。本当に意識しているのかは知りませんけど、とても可愛い」
「そんなのどうだっていいわ。あなた今自分が何をしているか分かっているの?」
「もう、ノリが悪いんですのね」
 声のトーンが変わったのを聞いて、琴美は口を尖らせながら課長を離した。
「どういうつもりか、納得のいく説明をしてもらえる……?」
「待遇の改善を要求しに来ました」
「……」
「冗談ですわ」
「この部屋はどうしたの?」
「ある日帰ってきたら、自分の部屋が知らない部屋になっていた。ドキドキワクワクじゃありません? それに模様替えをすると新しい生活が始まるようですわ。お花はもう、とにかく綺麗ですし」
「お花は綺麗ね。ただ私は、何故こんな事をしたのかを聞いているの」
「そうですわね、……ドーナツ。ある日、というよりもある時、突然ドーナツが食べたくなって仕方ないって事、ありますわよね。もう今日のお茶は絶対ドーナツじゃなきゃ駄目!って、そんな時。多少遠くても時間がなくても、何が何でも今日はドーナツなんだ!って。つまり、そんなような気持ちだったんですのよ」
「何言ってるの、こいつ。大体これ全部一人でやったわけ?」
「もちろんですわ。カラカラで可哀想だったから、木に水だってあげましたのよ。課長って案外ずぼらですのね」
「ちょっと! これあんまり水あげなくていいのよ! あー、こんなにビタビタにして!」
「もう、文句ばっかり。課長、細かいんですのね」
「だから何言ってるの、こいつは」

 水嶋琴美は、本当にふらっと立ち寄ったような様子だった。彼女は薄手の黒いニットモモンガの下に、ホルターネックでカシュクールの、ベージュ色のカットソーを着ていた。下は七分丈にまくられた明るい色のカジュアルなデニムで、ニットの間から見える背中や二の腕、くっきりした身体のラインというセクシーな色合いに、開放的なシルエットがよく映えた。長い黒髪は自由にさせていたが、それでも勝手に美しくまとまるくらい艶やかで、いつも彼女の肩口で軽やかに踊っていた。
「本当に、ただ遊びに来ただけなのね?」
「もちろん」
「何でこんな事したの」
「課長のセンスって堅苦しくて野暮ったいし、色気がないのに洗練されていないから。でもこれでちょっとは素敵になりましたわ」
「ぼろくそね。……そもそも、どうやって私の家を知ったのよ」
「内緒」
 にこやかに小首を傾げる仕草に、彼女は聞こえよがしに溜息を吐いた。それから倒れ込むように椅子に座って頭を抱えた。琴美については、今までもそのあまりに優秀な技能のために少々もてあまし気味だと考えていたが、どうやら理由はそれだけでなかったらしい。やっと与えられたたまの休みをこんな事に費やしてしまうのを見れば、「水嶋琴美はどんな観点からも単純な評価を許さない人物である」と報告書に書いた前任者の気持ちが心底から理解出来た。
「課長、幸せな日々に音楽は必ずしも必要ではないけれど、幸せな日々であると知るには必ず音楽が要る。そう思いません?」
「はあ」
「つまり、何か音楽でもかけて、今夜は楽しみましょう!」
「私、死ぬ程眠いんだけど……」
「課長って音楽の趣味もつまらないわ。まるで疲れたよーって声を形にしたようなCDの並び。この絵もそうでしたわ」
「放っておいてよ、癒されたいんだから……あ! ちょっと! その絵どうなってるの!?」
「明るい色調の方が元気が出ますから、ささっと。イメージは、ゴッホのひまわり」
「何がゴッホよ! いくらしたと思ってるの……」
 華麗に筆を操るその手振りを恨めしく睨み、彼女はついに突っ伏した。そこへ「晩ご飯は何がありますの?」と追い打ちをかけられたおかげで、もはや心中で何かが弾けたらしい。そしてこう叫んだ。
「それくらい用意しておきなさいよ!」
 結局二人は夜が明けるまで一緒にいた。そして映画にベッドシーンは必要かとか、押ボタン式の横断歩道を押さずに待っている奴の話とか、古代ローマ帝国のグルメについてや、デカダンスのくだらなさなんかを延々と話した。吹けば飛ぶような事々を真剣に語らうのは、それに埋もれていくのに、もがき抗するかのようでもだった。
 楽しかったかどうかは二人とも覚えていなかった。しかし迎えた朝は、その辺に散らばり落ちている高揚感だの胸の高鳴りだのとは微妙に異なり、ほんの少し真新しく見えた。恐らく、それで十分だったのだ。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
JOEmasa クリエイターズルームへ
東京怪談
2013年05月13日

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