『空日記 』

七ツ狩　ヨル（jb2630）

●静寂の朝焼け

　静かだった。自分の呼吸の音さえも耳に届いてきそうな、静かな夜明け前。
　藍色を湛える空は何処か物哀しく音を吸い込んで消し去ってしまいそうな静けさ。だから、それに終わりを告げる暁は優しい。
　ひんやりと肌に冷たく突き刺すような大気。手の中で揺れたカフェオレ。マグカップ越しに伝わるぬくもりが心地良い。
　純粋に綺麗だと感じた人界の空。あの日と同じようで、少し違う空の青。
「やっぱり……綺麗だな」
　その呟きも、静かな藍に消えてゆく。

　やがて昇り始める暁。あたたかく無垢な色を浮かべた空の境界が揺らいだ。
　始まりを告げる朝陽が今日もまた、昇る。

――此れは、ある悪魔の人間界での一日の記録。


●何気ない今日も、その先も

　規則正しく刻まれるチョークの音。平淡な教師の声。程良く暖かな初夏の日差し。全てが眠気を誘う。
　たっぷり食べたはずの朝食も、もう既に何処へ行ったのやら程良い空腹感に頬杖を立てる。
（ふぁぁ……）
　うっかり漏れてしまった小さな欠伸をかみ殺す。人界の歴史について耳を傾けているうちに鐘は終わりを告げて、静まりかえった教室に活気が戻る。
「ヨルー、ご飯食いにいこーぜ」
「……ん、屋上ならいいよ。空みたいから」
「おう、オレは何処でもいいぜー」
　そろそろ昼ご飯を食べに行こう。ヨルがそう席を立ち上がろうとした刹那、背後から腕を回し抱きついてきた級友。
　鞄からコンビニで買ったカツサンドを取り出して、級友とともに生徒でごった返す昼休みの廊下へ繰り出す。
　生徒達の間を縫うように移動して、屋上へ向かい、鉄戸を開けた瞬間広がる青い空。吹き抜ける風は潮の香りを連れてただ、吹き流れる。
「座ろうぜー」
　じーっと空を見つめていたら、先にフェンスに持たれ掛ける腰掛けていた級友に座るよう促された。その言葉に従って彼の隣に腰掛けて、カツサンドを頬張る。
　背中に吹き付ける風、空にはゆっくりと白い雲が流れていた。
「それ、うまいか？」
「……うん」
「カツサンドうまいよなー。　けど、彼女の手料理もいいもんだぜー。あ、そうだ……」
　こくりと頷くヨルに級友は良いことを閃いたといった様子の級友。
「卵焼き喰えよー。いいから喰えよー。オレの彼女手作りの弁当なんだぜー」
　そう弁当箱を押しつけてくる。その、しつこい誘いを断り切れず、弁当からだし巻き卵を摘まみ、口の中へと放り込む。
　ほんわりと広がる素朴な味わい。
「ん、うまい……」
「だろー。年上のオレの彼女、料理上手いんだよ。特に肉じゃがなんか最高でさー」
「カノ、ジョ……？」
　級友の自慢話に、よく解らない。ヨルは首を傾げた。


　放課後。黄昏色に染まる商店街。学生の街故の独特の活気溢れるその場所には様々な音がある。
　一日の終わりのその時を、友人との道草に昂じる者。自炊組の買い物バッグの中から覗く大根。
　チリンチリン。鈴を鳴らして通り過ぎる自転車。おもちゃ屋の前では小学生達がカードゲーム大戦をしていた。
　特有の寂寞感と喧噪。そのふたつをかき混ぜたような夕方の光景。
　もうすぐ、日が暮れる。
　河原へ向かおう。そう決めたヨルは手近なコンビニへと立ち入り、カフェオレの缶を手にレジへ向かうと其処には顔見知りのアルバイトの少女。
　確か高校生くらいだと言っていた。よく使う店で何度か通う内に世間話程度に言葉を交わすようになり、今ではすっかり顔と名前を覚えられてしまっている。
「ヨルくーん、肉まん要らないかい？」
　肉まん？と言いたげに首を傾げるヨル。
　顔見知りのバイトの少女が気付き。ああ、と言葉を加える。
「えーとね……小麦粉で出来た蒸しパンの中に肉汁たっぷりの餡が入ってるんだよ。もこもこでふわふわでほかほかほわーんって……これじゃあ、解らないよね」
「じゃあ……ついでに、ひとつ」
　畏まりました。にこにこと微笑んで、レジを打ち始める少女。
　その間、ヨルは手持ちぶさたに周囲を見渡すとキャンペーンフェア中なのかレジの横や天上などに食材を模したキャラクターのグッズやポスターが到る場所に配置されている。
　お世辞にも――。
「あんまり、可愛くない気がするけど……」
「あー、それ最近女の子の間で人気なんですよー。きもかわって奴でしょうか？　ああ、きもかわって言うのはキモいんだけど可愛いの略で、堕天使やはぐれ悪魔の子も結構買っていかれますよ、あたしも持ってますし……」
「そうなんだ……」
　じーっとレジの横のキャラクターの顔を見つめるヨル。言われれば、なんだか特有の愛嬌があるような気も……しない。まだ、理解は出来なかった。
「っと、ヨルくんの買い食いですね！　毎度ありですよー。じゃあお会計は270久遠になりまーす」
「……はい」
　300久遠渡して、レシートとともに30久遠を受け取ってコンビニを後にした。

　映り込んだ夕日が水面に、きらきらと反射して輝く。まるで夕焼けを閉じ込めた琥珀のよう。
　長く細く伸びる影。遠くから聞こえるのは鴉の声。今日への明日への希望も全て混ぜ込んだからかの独特の寂寞感か。
　購入した肉まんに見下ろすと河原で遊ぶ子ども達の姿が瞳に映る。
　兄だろうか。やや大きな少年を小さな少女が追い掛けていた、いや、必死について行っていた。
　しかし、追いつかず勢い余って転んでしまった。仕方ないなぁとでも言いたげに頭を掻きながら手を差し伸べる少年に、笑顔で握り返した少女。今度は手を繋いで川辺へ目指して行った。
（そういえば……川の水が澄んでいるのは。確か、流水濁らず、とかだったような気がする……）
　これも、人界の授業で学んだ知識のひとつ。
　どの教科かは忘れたけれど、確かに川の水はいつでも清く見えたから、それは強く印象に残っていた。
（もし、あの川の流れが、止まってしまったらどうなるんだろう）
　やはり、濁ってしまうんだろうか。
　それでも、美しいと感じるのだろうか。
（けれど、桜も空も、そして人も……変わるから人を惹き付けるのだと、誰かが言っていたな……誰だっけ？）
　思い出せない。けれど、ただ此処から見る夕陽は本当に綺麗だった。それだけは、確かだったから。


●新たなる明日へ

　白い月明かりが暗い部屋を照らしている。
　硝子玉をクルリと回転させれば反射した光も踊る。
　窓際に腰掛けたヨルの手のひらで繊細な輝きを湛える硝子の地球儀。

　机の上の写真立てには朝焼けの写真。かつて依頼で助けた女性が学園にお礼の手紙と共に送ってきた物を貰った。
（そういえば、あんなのも買ったっけ……）
　写真立ての隣に置かれているのはマグカップ。白い身に描かれた黒の龍紋が気に入って手に取ろうとすれば偶然友人と手が重なった。
　それが何だか面白くて、その思い出と一緒にふたりで購入した。
　そんな、増えた物を見る度に思う。思い出す数々の記憶。

　随分、自分のものが増えた。
　物も、友人も、思い出も。全てが目新しく大切な物。
　冥界に居た頃には想像もつかなかった充実した毎日。

　ふと、欠伸が漏れる。
　明日もまた、早起きだ。朝焼けを見逃さないように今日はもう寝よう。

　繰り返し時を刻む世界も、少しずつ変化を遂げている。何でも無い日を繰り返して少しずつ、変わっていく。
　その変化は全て良い物だとは言えないかもしれないけれど、けれど、ただ現在は悪くないとは思う。
　自分もその世界の中で、変わりゆくことに気付けているのか否かは解らないけれど、始まりを告げる朝陽は今夜もすぐ其処まで訪れていた。

■ＷＴアナザーストーリーノベル（特別編）■

水綺ゆら

エリュシオン

2013年07月03日