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『鮮血の海に漂う魂 』
ヴィルヘルム・ハスロ8555)&(登場しない)


 あれから5年。ヴィルヘルム・ハスロは、14歳になっていた。
 まだ大人になりきれていない細い身体が、荒々しく躍動している。
 雄叫びが、迸る。
 他人よりもいくらか長く鋭い犬歯を剥き出しにしながら、ヴィルは拳を叩き付けた。跳躍して身を捻り、片足を振り回した。
 鼻血の飛沫が散った。
 ナイフを持った男たちが2人、3人、よろめいて尻餅をつく。
「こ……このガキ……!」
 鼻血を拭いながら全員、よろよろと起き上がって来る。
 さすがに子供同士の喧嘩とは違う。大人を叩きのめすのは、容易な事ではない。
 ブカレスト郊外。廃屋と見紛う、寂れた教会である。
 実は廃屋ではなく、1人のシスターが、何人もの孤児を引き取って暮らしている。国家非公認の、孤児院のようなものだ。
 その庭でヴィルは今、招かれざる客人たちの相手をしていた。何人もの男たちが、いきなり押し掛けて来たのだ。
 ヴィルがこの教会に引き取られたのは、1年ほど前。それまでは、ブカレストの貧民街で獣も同然の生活を送っていた。盗みと喧嘩に明け暮れていた。
 ここのシスターに拾われて改心した、わけではない。相も変わらず、こうして暴れている。
「……おイタはここまでだぜ、坊や」
 男たちが、ヴィルに拳銃を向けてきた。
「こいつが最後のチャンスだ。俺たちから盗んだものを、大人しく返しな」
「そいつらはな、もう売る相手が決まってんだよ。商売だからな、お客様にはきっちり商品を届けなきゃならねえ」
「それが大人の仕事ってもんだ。ガキの出る幕じゃねえんだよ!」
 彼らが商品と呼んでいるものが、ヴィルのすぐ近くで木陰に座り込み、抱き合って震えている。
 ヴィルよりもいくらか年下の幼い少女と、もっと幼い男の子。姉弟であろう。昨日、シスターがどこかから拾って来た2人である。
 自分は別に、こんな姉弟を守ろうとしているわけではない。ヴィルは、そう思った。
 自分に、誰かを守る資格などない。誰も、守れなかったのだから。
 自分はただ、気に入らないから暴れているだけだ。あれから、世の中の何もかもが気に入らなくなってしまった。
「撃てよ……撃ってみろ」
 牙のような犬歯を剥いて、ヴィルは言った。
「それで僕を、殺せると思うんならな」
「撃てねえとでも思ってやがんのか……!」
「銃で撃たれれば、普通は死ぬよな……だけど僕は、もしかしたら死なないんじゃないか……最近、そんな気がしてしょうがないんだ」
 ヴィルは、にやりと笑って見せた。
「もちろん試した事はない。試してみようか……さあ撃ってみろ。僕を殺してみろ……殺せるもんなら、殺してくれよ」
「おやめなさい」
 静かな、それでいて厳格な声。
 修道服に細身を包んだ女性が、教会から出て来たところである。
「シスター……」
「殺す、あるいは殺せ……そういった言葉の使用は禁じたはずですよ、ヴィルヘルム・ハスロ」
 年齢は、よくわからない。20代後半かと最初は思っていたが、もしかしたら40歳を超えているのではないかと思える時もある。
 とにかく、貧民街で初めてこのシスターと出会った時、ヴィルは思ったものだ。どこかで見たような女性だ、と。
 母に似ている、わけではない。
 母の面影は、永遠に失われたのだ。ヴィルがいくら暴れても悪さをしても、叱ってくれる母はいない。
「いようシスター……神に仕える聖女様が、泥棒をやらかしてくれたよなあ」
 男たちの拳銃が、シスターに向けられた。
「俺らの同業者から手配書が回って来てんだよ。売りもんのガキども、あっちこっちから盗んでやがるそうじゃねえか」
「礼拝に来られたのなら、武器をお捨てなさい……そうではないのなら、お帰り下さい」
 微笑みながら、シスターは言った。
「ヴィルが、ご迷惑をおかけしたようですね。よく言い聞かせておきますので、貴方がたはどうかお帰り下さい。そして後日、懺悔においでなさい。1日や2日では語り尽くせぬ罪がおありでしょう」
「こ……このクソアマ……!」
 銃を持った男たちが、怯んでいる。
「神は、いかなる罪人をも受け入れて下さいます」
 銃口を恐れた様子もなく、シスターは男たちを見据えた。
「貴方たちも、本当はわかっておられるはずですよ……神は、全てをご存じであると」
 男たちが、引き金を引く事なく、捨て台詞の類を吐こうともせず、逃げ去って行く。
「何を……」
 呆然と見送りながら、ヴィルは訊いた。
「何を……したんだよ、シスター……」
「私は何もしていませんよ。あの方々が、神の御心をわかって下さったというだけの事」
 答えつつシスターが、ヴィルの頭を撫でた。
「なのにヴィル、貴方は一向に神の御心を理解しようとしない……本当に、手のかかる子ね」
「ふざけるな……神が! 神様なんてのが本当にいるんなら!」
 優しい手を払いのけながらヴィルは叫び、その叫びを途中で呑み込んだ。
 神が本当にいるのなら何故、あんな事が起こる。
 それを他人に向かって叫んだところで、何になると言うのか。神が、父と母と弟を生き返らせてくれるとでも言うのか。
「ヴィル、私には人の心が読めない……貴方が心の中に何を抱え込んでいるのか、私は何もわからない。それが悲しい」
 シスターの口調が、眼差しが、悲哀を帯びた。
「貴方がそれを話してくれたとしても、私は何も出来ない……それが、何よりも悲しい」
 やめろ、黙れ。
 ヴィルはそう叫ぼうとして、叫べなかった。
 このシスターに、悲しそうな瞳で見つめられると、何も言えなくなってしまう。何も出来なくなってしまう。
 あの男たちも、それで結局、逃げるしかなくなってしまったに違いない。
「あ……あの……」
 木陰で震えていた姉弟が、おずおずと出て来た。声を発したのは、姉の方だ。
「あ……ありが……とう……」
「僕に馴れ馴れしくするな。お前らなんか、誰が助けるもんか」
 ヴィルは背を向けた。
 姉弟や兄弟などというものを、見ていたくはなかった。


「ヴィル兄貴! かっこ良かったけど無茶し過ぎだって!」
 孤児の1人が、どたばたと駆け寄って来て叫んだ。
「ったく昔っからそうだよなーヴィル兄貴は。命知らずの無茶ばっかやって、でも何でか生きてる。教会で言う事じゃねえけどさ、神様に嫌われてんじゃねーの? しばらく天国へ来るなってさ」
 貧民街で、ヴィルの弟分だった少年である。
 彼の言う通り、命知らずな喧嘩ばかり繰り返してきた。年上の不良少年や、時には先程のように大人をも叩きのめしてきたものだ。
 気が付いたらヴィルは、ストリートチルドレンの親玉のような立場にいた。
「……僕が、天国になんか行けるわけないだろ」
 ヴィルは吐き捨てた。
「お前の言う通り、神様に嫌われてるのは間違いないけどな。それより僕を兄貴と呼ぶな。いい加減にしろよ、本当に」
「そんな事言うなよぉ。俺たちにとっちゃ、神様なんかより全然頼りになる兄貴なんだよヴィル兄貴は」
「だから、そう呼ぶなって……!」
「ヴィル兄ちゃん、遊ぼ!」
 もっと小さな子供たちが、仔犬のように駆け寄って来た。
 男の子も、女の子もいる。
「だめー! ヴィル兄さまは、あたしと遊ぶの!」
「ふふん、あんたは遊びで終わりよねえ。あたしはヴィル兄さまと結婚するの!」
「けっこんなんかしないで、あそぼ! ずっと、あそぼー!」
 子供たちが、様々な方向から飛びついて来る。
 ヴィルは悲鳴を上げた。
「シスター! 笑ってないで僕を助けろ!」
「観念なさいヴィルヘルム・ハスロ。みんな、貴方が大好きなのよ」
 シスターが、本当に嬉しそうに言った。
「貴方が心に何を抱えていようが……そんな事は関係なく、みんな貴方が大好き。それだけは覚えておきなさい」
「忘れたいよ……」
 男の子の1人を仕方なく抱き止めながら、ヴィルはぼやくしかなかった。


「嬉しい……本当に、懺悔に来てくれたのですね」
 武装した男たちに、シスターは微笑みかけた。
 深夜。教会の庭。男たちが、シスター1人に小銃を向けている。
「昼間は、ちょいと変な感じだったがな……今度は、そうはいかねえぜ」
 ヴィルも他の子供たちも、寝静まっている。
 静かにしなければならないのに、男たちは小銃をぶっ放していた。
 銃弾が全身にめり込んで来るのを、シスターは感じた。
 その銃弾を、ぱらぱらと払い落とす。
「あの方の治世であれば……お前たちなど、たちどころに串刺しとなっていたものを」
 シスターは言った。男たちは、青ざめ固まっている。
 他人の話を聞ける状態にあるのかどうか疑わしいが、構わずシスターは語って聞かせた。
「あの方の血を浴びたる身……鉛の銃弾で打ち砕く事など、出来はしない。神聖なる、銀の弾丸でなければね」
 あれから、どれほどの年月が流れたのだろう。
 自分の生んだ子供が、大人となり、普通の人間の女性と結婚して子を生し、その子が成長して妻を娶り……かの暴君の血脈が受け継がれてゆく様を、シスターはずっと見守ってきた。
 その血脈の末に今、ヴィルヘルム・ハスロがいる。
「ヴィル……私とあの方の愛し子よ、お前は私が守ってあげる……他の子供たちは皆、お前のための大切な糧」
 恐慌に陥った男たちを、シスターは、血と炎の色の瞳で見据えた。
「それを奪おうとする者ども……今より私が、あの方に代わって……串刺しの刑に処す」
PCシチュエーションノベル(シングル) -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2013年12月24日

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