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『嘆きの笛 』
綾鷹・郁8646)&草間・武彦(NPCA001)



 上空に浮かぶ事象艇。綾鷹郁は真下に広がる琵琶湖を眺めていた。
 長い年月を経て、カラカラに乾き切った地面。水豊かな琵琶湖は遠くに行ってしまった。
 郁はかつて湖だった土地を眺めながら、ある同僚の顔を思い浮かべていた。
 友人でもあった同僚。困り顔まで鮮やかに思い出せる。彼女の思い出はあまりに近い。
 普段お喋りな郁は、しかし、口をつぐんでいる。
 ――今だけは、ただ、静かに。


 事の起こりは、美しい琵琶湖畔での艦対抗女子マラソン大会のときだった。
 艦対抗女子マラソン大会は恒例行事だ。郁もブルマを履き、闘志に溢れて参加した。女子同士の本気のぶつかり合い、これも毎年見られる光景だった。
 が、奇妙な音を郁は聞いた。
 フラットの多い不安定な旋律。音は小さくなり、大きくなり、か細く消え入りそうになったかと思えば突如叫び狂う。それは笛の音色であった。
 音に誘われるように、郁は視線を動かし。
 見た。

 沿道に一人の笛吹き男が立っていた。
 傍らではブルマ姿の女性が倒れていた。彼女は膝を折って、片方の臀部から崩れ落ちていた。奇妙な形だった。まるで飽きられて放り出された西洋人形のようだった。その身体からはブルマと同じ色の体液がドクドクと流れ、小さな湧水をコンコンと作り出していた。
 彼女は郁と同じTC――航空事象艇乗員だった。
 彼女は郁の友人でもあった。
 彼女は死んでいた。
 郁の叫び声が辺りに響き渡った。

 検死の結果、彼女の死亡原因は曖昧なものだった。他殺でもなく事故でもなく自殺でもない。病気は最もあり得ぬことで、突発的な自然死でもない。非常に稀なことで、この死は一種の不運の重複によるものであると検視官が言う。
 郁は頭に血が上った。
 友人が死んだのだ!
 それなのに死因が“不運”だと言う。
「ふざけないで! あのとき笛吹き男がいたわ。無関係とは思えない!」
 郁は無論、そう睨んでいた。笛吹き男が忽然と姿を消さなければ、すぐ郁は男に詰め寄っていた筈だ。だがあのとき、郁が悲鳴をあげた頃には男の姿はなかった。
 ならば聞いて回るしかない。
 それは成果をもたらした。
 郁が彼女の身体を抱き起こしていたとき、上空に紅色の笛が浮かんでいたという。沿道を警戒していた事象艇が見つけたのだ。だが笛を回収しようとして、事象艇は怨霊に襲われてしまった。笛の回収どころか艦艇一つ墜落したのだ。
 その奇妙な話の結びに、艦艇から命からがら逃げ出したTCが言った。
 空中でクルクルと回る紅色の笛は、それは奇妙だったと……。


 郁はバーに就職した。草間武彦の調査で笛吹き男の出没スポットが割れたからだ。
 男は無名の作曲家で趣味はマラソン。つばの広い帽子を被り、紅の笛をクルクルと回す。ときには昼間から安いバーで呑んでいる。
 そんな男と接触したいのなら、バーに勤めるのが一番だ。郁は本気だった。
 作戦は成功だった。笛吹き男が幾度も客としてやって来たのである。
 男はフラフラと店にやって来ては、チビリチビリとビールを呑んだ。酒に弱い男で、少量のビールですぐに出来上がった。
 酔うと彼は頻繁に軽口を叩いた。そのくせ、高いプライドが覗き見える話し方をした。今は売れない作曲家だが、そのうち宇宙飛行士になるのだと言った。

 ある夜、男はひどく酔っていた。

「さァお立会い。ここにありますのは我が家宝、嘆きの笛にございます。美しい深紅笛、この色は血の涙にて染められました。琵琶湖で理不尽に殺された先祖の怒りであります。この笛は先祖の彷徨える魂を救うためにございます。さて、今から吹きますのは、試し斬りされて琵琶湖に捨てられた武将妻への鎮魂歌……」
 そう言って、男は笛に唇を当てた。
 だが笛を吹こうとして、男は見る見る青ざめた顔になり、遂にはぎゃっと叫んで笛から口を離した。
「いけない、いけない……。俺は酔うといつもこうだ。こんな所じゃさすがにダメだ……。手元に置いていたら、いけないな」
 取りつくろうように、男は笑った。ニヤニヤと安っぽい作り笑いだった。
 郁は上等な微笑みを作り、男のグラスにビールを注いだ。
「も〜、変なのっ。どんどん呑んで〜!」
 日付の変わった頃、郁は草間から情報を掴んだ。
 先程まで、皇居のお堀で男が笛を吹いていたという。
 現場に向かった草間が声をかけようとしたが、男は笛を吹くのをやめ、ふらりと姿を消したそうだ。
「やめた、やめた。……そうだ、もっといい使い道がある。これで宇宙飛行士になれるじゃないか! どうして気付かなかったんだろう!」
 消える前、男は一人ごちたという。

 翌日、事象艇からの連絡で艦艇に行った郁は、小さく声をあげた。
 空中には昨夜見たばかりの笛が浮かんでいたからだ。
「今日から突然よ。昨日までなかったのに」
 と艦長が言うが、当たり前だ。昨日は男が持っていたのだから。
「霊的エネルギーの反応が凄いのよ。霊障被害が出るから、排除したいのに、手出し出来ないわ」
「あの笛を取れるのは、あいつくらいってことね」
 大きな瞳で、笛をキッと睨む郁。
 あれが友人の仇なら。
 この笛を、あの男を。逃しはしない。


 先手は男から打たれた。
 バーにやってきた男は、既に酔っていた。
 男は千鳥足で郁に近づくと、例のごとく安っぽくニヤニヤと笑った。
「よう、仮面女」
 腰に回された手を払い、郁は笛吹き男を睨んだ。
「どういうつもり?」
 男は尚も笑っている。
「知っているんだぞ。お前の正体。ホステスなんかじゃないんだろう。本当はTCなんだよな? お前のせいで、俺の計画はおじゃんになるかもしれないって訳さ……」
 抑揚のない話し方に、感情を抑えつけた男のプライドを郁は察した。
 男は苛立っているのだ。
 その苛立ちが、郁の感情に火を付ける。
「計画って何? どうせロクなことじゃないんだから、さっさと諦めることね」
 男の顔が憤怒に歪み、赤くなった。
「小娘が!」
 後はもう、聞き取れない程の早口で郁を罵った。呂律の回り切らない舌で、男は郁を狡賢い女と決めつけて罵倒した。
 郁の可愛らしい外見からあらゆる妄想を働かせ、こういった女は尻軽に決まっているとまで言った。こういう女は男に遊ばれるので云々……。
 ブチ。郁の中で何かが切れる音がした。
「黙って聞いときゃゴラアアアアアアアアアア! おまんの奥歯ガタガタ言わせてドツキ回したらアアアアアアアア!」
 笛吹き男の酔いが醒めたのも無理はない。
 逃げなければという本能が勝ったのだろう。千鳥足どころか非常にしっかりとした足取りで、脱兎のごとく逃げ出した。
「逃がすかアアア!」
 ヒラリ、とスカートを脱ぎ捨てる郁。
 身の軽いブルマ姿となって追いかける。

「郁! 加勢するわよ!」
「いてこませエエエエ!」

 同じくバーに潜入捜査していた同僚たちも男を追い始めた。
 女性は三人なら姦しいだけで済むが、大勢となれば恐ろしい存在である。
 厨房にいた同僚が包丁を持ちだした。
「ヒイィィィ! 殺される!」
 後ろを振り返った男が叫び声をあげる。
 阿鼻叫喚の世界……!
 もはや笛吹き男は絶対悪である。
 同僚の死はこの男のせい。
 嘆きの笛の存在もこの男のせい。
 消費税が上がるのもこの男のせい。
 郁が男にフラれるのもこの男のせい。
「許さないけんね!」
 郁の目が血走っている。
 笛吹き男の寿命もあと1分程で尽きるだろう。
 アーメン!

 ……それでは困る、と冷静なのが事象艇で見ていた艦長である。
「ちょ、ちょっと! 落ち着いて! 元凶は笛による霊障なのよ! 笛を何とかしないと!」
 艦艇で騒いでも、興奮した郁たちの耳には届かない。
 空中に浮かぶ笛を取れるのは男だけである。先に男を倒されてしまっては大変と、艦長も慌ててブルマ姿となり追いかける。
「早く笛を取って! 呪いを何とかして頂戴!」
 艦長の声に笛吹き男が我に返る。
「そうだった! 笛を取りに来たんだった!」
 男は軽やかに跳ねて笛を握り締めた。
 郁たちには近寄れなかった、黒い瘴気を放っていた笛も、持ち主の手には簡単に収まった。
 そして、男は咳払いを一つ。
「可愛いお嬢さん! 先ほどは言いすぎました。酒の上での暴言、お許しください」
 郁も、血気盛んな同僚たちも、我に返って立ち止まる。
(可愛いお嬢さん……)
 郁の頭の中でリフレインする、素敵な言葉。
 お嬢さんと言われたから、少し冷静になってもいいと郁は思った。
 可愛いお嬢さんと言われたから、話くらいは聞いてあげてもいいかとも思った。
「それで、どうする気なのよ?」
 郁は愛らしく首を傾げて、それでいて語気を強めて言った。
 対して、男は幾分芝居がかった口調で。
「みなさんもお気付きでしょうが、この嘆きの笛は呪われているのです。琵琶湖に沈んだ女の恨み節を謳うのです。呪いを解くにはただ一つ。長い年月を経ることです」
 男は踵を返し、再び脱兎のごとく逃げながら。
「そういう訳ですから、笛の持ち主である俺が宇宙に持って行きますよ! 呪いを解くために! 仕方なく! 許可も取っておきましたからご心配なく! アデュー!」
 捨て台詞が長すぎて、音がどんどん遠ざかって最後の方は聞き取れなかった。

 …………………………。

 郁はスマホで草間に電話をかけると。
 怒りで震えた声で告げた。
「空港に笛吹きバカが行くから、ぜっっったいに掴まえて。アシッド族よ!」
 電話を切ると、郁はスタンディングスタートを切った。
 長いマラソンの始まりだった。


 宇宙飛行士になるための口実に、呪いの笛を使ったアシッド族。
 哀れな笛吹き男は艦内で吊るし上げられ、そのまま未来へ。
 呪縛から解けた笛は静かに燃え尽きていくだけである。
 紅の色が蕩けてく。
 郁は口をつぐみ、それを眺めていた。眼下に広がる、枯れた琵琶湖と共に。
 ――今だけは、ただ、静かに。



終。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
佐野麻雪 クリエイターズルームへ
東京怪談
2013年12月24日

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